第6話:儀式
空は青く、澄んでいる。窓から差し込む光は、石床にひんやりとした水色を映す。
王城内には、扉の開閉の音、行き交う衛兵や使用人たちの靴音、朝の挨拶の声――日常の音があふれている。
ペルナは螺旋階段を一段飛ばしに駆け下りていた。
「うわっ! 申し訳ない!」
その途中で、階段を上がってきた者とぶつかりそうになり、慌てて身を壁に寄せる。
「なんだ、ルパレか。悪いな。ちょっと急いでてさ」
「ご挨拶だな」
互いの顔を見て、ペルナは笑顔を浮かべ、ルパレは呆れ顔を浮かべた。
「でも、珍しいな。お前が、こんな時間に城にいるなんて」
「まあ……野暮用だ」
野暮用? ペルナは首を傾げる。しかし、それ以上のことを、ルパレが答えることはなかった。そのまま「じゃあな」と軽く手を振って、階段を上っていく。
「まあ、いいか」
すでに見えなくなった後ろ姿に、ペルナは微妙な納得の仕方をしつつ、再び階段を駆け下り始めた。
ルパレが王の書斎を訪れた頃には、すでにあらかたの話は終わっていた。
「もしかして、もう私の出番はないですか?」
その場の重い雰囲気を軽くいなすような口調に、ルシッカと大司祭は何とも言えない顔をする。
「国王様、ご質問はございますか?」
「は、はい。き、聞きたいことはたくさんあります!」
大司祭に言われて、ルシッカは重厚な造りの物書き机の上に置かれた一冊の書物に目を向ける。
「ルパレ司祭が、お答えいたします」
口調は優しく、表情も穏やか。それなのに、大司祭の目に戒めるような眼差しを感じて、ルパレは少しだけ姿勢を正した。
「えっと……まずは、儀式ですか? それは、百年ごとに必ず成し遂げられてきた。それで、その儀式には、国王の血が必要……ということなんですよね?」
「そうです。血といっても、べつに心臓から搾り出すわけではありません。少しですよ。約定を承認する血判みたいなものです」
ルシッカの困惑に、ルパレはあっさりとした頷きを返す。
「その儀式は、世界の均衡? 国や民を守るためのものですよね。それなのに、九人の犠牲とは……え、犠牲で合ってますよね?」
「はい。その通りです。百年間で九人が回収されます」
ルシッカは「回収?」と眉をひそめた。ルパレは質問に答えているだけなのだが、どこか物言いが無機質のように聞こえる。
「回収です。選ばれた資質を持つ者……九人。世界の均衡を守るための代償として、割に合うかどうかについては意見が別れるかもしれません。しかし、そちらの書物には、理にかなっていると記されています」
先ほどの部屋に入ってきた時とは違い、ルパレは容赦のない言葉を淡々と口にする。
思わず、ルシッカは黙り込んだ。
太陽が小さな雲に隠されて、窓から入る日差しが少しだけ陰る。
「それで……今回は失敗した、ということなんですね?」
その沈んだ声に、大司祭とルパレは同時に首を縦に振った。
「不審死……水晶化した人間が複数見つかっている――という話は、ご存知ですよね? それこそが儀式が成されなかった制裁ではないか、と我々は考えております。本来ならば、選ばれた九人にのみに現れる事象とのことですので」
大司祭は表情に苦悶を浮かべて、苦々しく言う。
さらに、ルシッカは言葉に詰まった。一昨日、その話を聞いた時は驚愕した。だが、まだ頭の隅には冷静な自分がいた。
「それは……僕、私たちのせい……王の不手際ということですか?」
しかし、今は頭の中が真っ白だ。
「それは違います! 儀式の邪魔をした外敵によるものです」
ルシッカは、大司祭の否定の言葉を聞いて「そうだった」と思い出した。あの時の光景は、まぶたの裏に焼きついている。足がカタカタと震えるのを、何とか手で押さえようとするが止まらない。
「少し体を動かしましょうか?」
不意、ルパレは物書き机の上の書物を手に取り、もう片方の手で誘導するように扉を指し示した。
その後、三人は場所を王座の間へと移した。
「中には、絶対に人を入れないように」
大司祭は衛兵に告げると、重々しい音を立てて扉を閉めた。
先日の戴冠式ほどではないが、室内の装飾は華麗であり荘厳だ。三人という人数では少々圧倒される。
また、国王暗殺という出来事の現場だけあって、ルシッカの顔には自然と緊張が浮かぶ。
「こちらです」
そう言って、大司祭は玉座の近くにある柱に触れた。
すると、玉座の奥、タペストリーに隠れていた石造りの壁が低い音を鳴らす。そして、ふわりとタペストリーが柔らかく揺れた。
「こんなところに……え?」
ルシッカは目をまん丸に見開いて、言葉を失う。
タペストリーを持ち上げると、壁には人が通れるほどの戸口ができており、その先には階段が続いている。
階段は地下道に繋がっていて、長いトンネルのような道が続く。しばらく歩くと、その先に分かれ道があった。
「あちらに行くと、街の外れに出られます。ですが、今日はこちらです」
そう説明されても、ルシッカは「はあ」とだけしか返せない。もはや、何に驚けばよいのかわからない。
さらに薄暗い通路を歩き――やがて、たどり着いたのは、大聖堂の地下だった。石壁に囲まれた空間が広がっている。王座の間よりも狭いが、それなりの広さがある。しかし、家具や装飾の類は一切ない。中央の床に模様のようなものが刻まれているだけだ。
「こちらが儀礼処……儀式の間となります」
大司祭に言われて、ルシッカは室内を見回した。たいした灯りもないのに、部屋の中の様子がわかってしまう感覚に戸惑う。
「不思議なとこ――」
言葉の途中で、ルシッカは何かを思いついたように「あっ」と手を叩いた。
「儀式をやり直してみるというのは、どうですか?」
そして、そう続けた。
「しかし、それは……」
大司祭は困惑した顔を、ルパレに向けた。
「試してみてはどうですか?」
言いながら、ルパレは「なるほど」と感心している。今の状態では簡易的なものになるだろうが、試す価値がないとは思わなかった。
それから間もなく、大司祭の介添えで、ルシッカは左手の薬指から一滴の血液を床に落とした。
数秒、数十秒――三人は待つ。しかし、いくら時間が過ぎても、静寂は静寂のまま。見た目にも、体感にも何も変化は起こらない。
「どうですか?」
たまらず、ルシッカは尋ねた。
ルパレは書物を開くが、すぐに首を傾げる。そして、そのまま何も言わず、儀式の間を出ていった。
やっぱり駄目なのかな? ルシッカは落ち着かない視線を大司祭に向ける。だからといって、落ち着きも答えも得られるわけではない。
ほどなくして、ルパレは戻ってきた。その顔は、部屋を出ていった時よりも複雑に見える。
「祠の石碑に新しい亀裂ができていました。それを答えとするかは、迷うところですが……そういうことなのでしょう」
曖昧さを残しながらも、ルパレの物言いは儀式が成されていないことを肯定している。
「つまり……駄目だったということですね」
……やっぱり、簡単にはいかないか。ルシッカはわかりやすく肩を落とした。簡単に解決できるとは思ってはいなかったが、それでも少しは期待していた。
「亀裂は、世界の歪み。亀裂が増え続ければ……やがて、石碑は砕けるでしょう。その時、世界がどうなっているかは……もはや、誰にもわかりません」
ルパレが続けた言葉は、ルシッカの単純な楽観さを否定するどころか、砂粒ほどの期待までも完全に粉砕した。
「ひとまず、お城に戻りましょう」
大司祭が促す。ルパレも「それがいいでしょう」と頷いた。
三人は来た時と同じように通路を戻るが、先ほどよりも足取りは重い。沈黙が、足音をより大きく響かせている。
王座の間に戻ると、窓から差し込む日差しが、磨き上げられた壁に物憂げな空の青を反射している。
その淡い光にさえ、ルシッカは眩しそうに目を細めた。
「あ、あの……今まで儀式が失敗したことはないのですか?」
ためらいながら、沈んだ口調で尋ねる。歩きながら考えてはみたが、一度にいろいろなことを知ったせいか、理解が追いつかない。それでも、自分なりに受け止めてはいるつもりだ。
「記述にはありません」
はっきりとした口調で、ルパレは言い切った。
静寂が落ちる室内、大聖堂から鐘の音が聞こえてくる。
「どの時代にも、儀式を見守る者が必ず存在します。その者の目を通して、この書物に記されるのです。ここに記述がなければ、前例はないということです」
ルパレは静かに口を開いた。手にしている書物が、ほのかに光を放っているようにも見える。
「それならば、その人に尋ねてみればいいのでは?」
「その者に尋ねたところで、答えは得られないでしょう。儀式ごとに、その存在も更新されます。だから、この書物があるのです」
そう言われても、ルシッカは素直には納得できない。愕然とするしかない状況に、慌てているのが自分ばかりのように感じられて、徐々に不満がたまる。特に、ルパレだ。妙に平然としている。大司祭は、不安そうにしているが、やはり落ち着いて見える。実は大したことではない? そんなはずはない!
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
だから、その苛立ちが声に現れる。王座の間の中ほどで、ルシッカは足を止めた。体の横で握る拳が微かに震えている。
「さあ? わかりません。ただ、儀式が成されなければ、世界は少しずつ歪む――ということだけです」
ルパレは、ルシッカをまっすぐに見る。眼鏡の奥の瞳は冷静を通り越して、厳しい。だが、その目に映るものを見放してはいない、期待にも似た光もある。
「どうしてですか!?」
ルシッカの耐えきれなくなった苛立ちの声が、高い天井に響いた。
「それが理というものです」
一方、ルパレは静かに返す。
理って何なんだ? ルシッカは思う。自分が失敗したわけではない。たった今、知ったばかりの世界の理というものに、不条理さを覚えてならない。できることならば、投げ出してしまいたいとさえ思う。だからといって、本当に投げ出すことはできない。今、この時も犠牲になる人たちがいるかもしれない。
「じゃあ……それじゃあ、いいです。方法を探しましょう」
それゆえに、顔をうつむかせることはしない。その代わりに、憤りの方向を転換させる。
一瞬、ルパレは目を見開いたが、何も言わない。
「そうですよね? だって、前例がないんでしょう?」
「その通りですが。しかし……」
それまで、黙って、二人のやりとりを心配そうに見ていた大司祭が口を開いた。
「それならば、何とかする方法を探しましょう。それしかないですよね?」
ルシッカは、先ほどよりも少しだけ声に力を込める。
数秒の沈黙が、ほんの僅かに空気を変えた。
「……そうですね」
少しだけ間を置いてから、ルパレは頷いた。
依然として、ルシッカが握る拳は震えている。それでも、その目は前を向き、足は前へと踏み出す――その背中を見つめて、ルパレは面白いものでも見るかのように柔らかく目を細めた。




