第3話:一歩
ミュルキス国の特使が到着したのは、戴冠式の準備が整うよりも早い朝だった。
ロングベストのボタンを留めながら、ペルナは半ば駆け足で騎士団長の執務室へと向かっている。
その途中でグレイプと落ち合った。起こされたばかりだとありありとわかるペルナとは違い、表情も含めて完璧に身支度が整えられている。
「髪型を変えたのか?」
「寝癖だよ!」
そんなやり取りをしながら、執務室の扉を叩いた。
執務室の中、本来の持ち主はもういない。その空間を埋めるように、ヴェシメロニが執務机で書類に目を向けている。
「ミュルキスからの特使が到着した」
ヴェシメロニは手にしていた書類を机の上に静かに置いた。
「聞きました。ずいぶんと早いお着きですね。それに、兄君殿がいらっしゃると思ってました」
実兄が亡くなり、弟が戴冠するというのに顔も出さないというのは解せない。そう言いたげなペルナの顔を一瞥したが、ヴェシメロニは言及せず無言で椅子から立ち上がる。
「今、特使は大食堂で食事中だ。行くぞ」
そして、歩き出した。
食事中に挨拶? ペルナとグレイプは目を見合わせる。
「本人のご所望だ」
二人が言わんとすることを察したのか、短く言い、ヴェシメロニは執務室をさっさと出ていった。
大食堂は、早朝にもかかわらず明るさが隅々まで満ちている。
その部屋の一角。白い長衣に、暗めの金髪、横顔からでもわかる麗しい男が、優美にパンをちぎっている。
「メロニエル特使。ご足労をおかけしました」
ヴェシメロニが声をかければ、メロニエルと呼ばれた特使は「どうぞ」と前の席に座るよう促す。
「失礼いたします。スープをお持ちいたしました」
そこへ、給餌係が野菜のスープを運んできた。
「このスープはおいしいですね。おかわりをしてしまいましたよ」
言いながら、メロニエルは傍らの砂糖壺からティースプーンで三杯分の甘みを足した。袖の折り返し部分の濃緑と、ミュルキス国の紋章が入った金色のカフスボタンが優雅にスープを二度ほどかき回す。
「この度のご訃報、心よりお悔やみ申し上げます。我が国、ミュルキスも深い悲しみに包まれております」
そして、スプーンを口元に運び、満足そうに小さく頷いてから、改めて騎士団の三人に目を向けた。
俺は試されてるのか? ペルナは平静を装い、向けられた視線と同じ温度を返す。ヴェシメロニとグレイプが表情を微動だにさせていないことがわかるから、できるだけ反応を同じにした。
「先代の崩御から戴冠まで、中一日ですか? 驚くほど迅速に執り行われる手際、お見事の一言に尽きますね。ルシッカ王子が国王として導くタイヴァスが、今後どのように変化していくか……隣からゆっくりと見守らせていただきます」
続けられる語調は特使という役割特有の丁寧さがあるが、その言葉は冷たい。
「ところで、ルシッカ王子の体調が優れないという話を耳にしましたが。その後、お加減はいかがですか?」
メロニエルはスープを口に運ぶ。
「本日の戴冠式に支障はございません」
ヴェシメロニの口調は、丁寧だが切れ味は鋭い。メロニエルは笑みだけを返した。
大食堂から騎士団寮に戻る途中、グレイプは隣の不機嫌そうな横顔を見やった。
「自分の兄が命を奪われ、弟が冠をいただくというのに、元第二王子が顔も見せないのが不満なのか?」
その直球ともいえる言いまわしに、ペルナはすぐに同意はしなかった。
「そうだな……あの特使が口にしたのは全部、あの特使の言葉だ。国王と王妃の言葉なんてなかった。まあ、特に何も言ってないんだろうけどな」
だが、数秒置いてから小さく頷いた。
「それに、あいつ……あの特使。絶対に頭がおかしい。スープに砂糖! しかも、三杯だぞ!?」
ペルナは「三杯」と指で示した自分の手を見て、眉間にしわを寄せる。
「あれだけ眉目秀麗だと、致命的な欠点があるほうが安心しないか?」
「欠点なんて、あいつは絶対に思ってなさそうだけどな」
グレイプが「眉目秀麗」と認めたことを意外に思いつつ、ペルナは苦々しい笑みを口元に刻んだ。
戴冠式の最終準備が進む中、王座の間には気が早い人々が集まり始めた。
騎士団の面々も鎧を身につけ、サロンで式の始まりを待っている。
しかし、そこにペルナの姿はない。
ルシッカの私室は、本人がきらびやかな装飾を好まないこともあり、自身の幼い頃が描かれた家族の絵画が大きく壁を飾っているだけで素朴だ。
その絵を見ながら、ルシッカは扉を背にして膝を抱えている。
そして、その扉を隔てた向こう側――廊下では、ペルナが頭を抱えていた。侍女から「ルシッカ様が部屋からお出でになりません」と報告を受けたのは、つい先ほどのことだ。
「立てこもりです。どうしましょう?」
シトルーナは軍師らしい口調で言った。副団長の娘というだけあって、見た目には動じていない。
どうもこうもないだろ。ペルナは思ったが、自分に向いている冷静な表情の中で瞳が揺れ動いていることに気がついた。だから、口には出さなかった。
「出てきてください! 王子!」
その代わりに、扉を叩いて、呼びかける。
しかし、部屋の中からの返事はない。
「あの、申し訳ないんだけど、副団長とグレイプ……第一騎士隊の副隊長に、この状況を伝えてきてくれるか。それと、こっちは任せてほしいって」
少し離れた位置で、ただただ困惑している侍女に歩み寄り、ペルナは「できるか?」と尋ねる。
侍女は何度か頷くと、ぎこちない様子で走っていった。
「お前は、ルピッツァのとこに行って、ここに人を近づけるなって伝えてくれ。こんなこと、来賓にも評議会にも知られるわけにはいかないだろ?」
そして、もう一人の動揺している者に向き直る。本当は、先ほどの侍女に頼みたかったが、あの状態では多くを言っても無理だろうと思った。それに、シトルーナならば、ルピッツァに自分の意図をうまく伝えてくれるだろうことも期待できる。
さて、どうしたもんか? ペルナは扉に向き直る。扉を蹴破って、無理にでも連れ出すことはできるが、そうはしたくない。
「出てきてください! ルシッカ王子!」
今一度、声をかけたが、やはり反応はない。本当に中にいるのか? と、さすがに不安になってくる。
少しして、シトルーナが戻ってきた。
「伝えてきました。それで……どうですか?」
心配そうに扉を見るが、状況に進展がないとわかると、徐に扉を叩いた。
「ルシッカ様! あなたは、もう国王なんですよ!」
その声は呼びかけるというよりも、姉が歳の近い弟を叱りつけるような声だ。
「僕には無理なんだ」
不意、か細い声が聞こえてきた。
廊下側、二人は目を見合わせる。それから、ペルナは仕草だけで「続けろ」と促す。
「えっと……どうして、そう思うんですか?」
シトルーナは困り顔で扉に向き直る。
「僕は、兄上のように……ちゃんとできない。みんな、がっかりするに決まってる」
「そ、そんなことありません! ルシッカ様ができないのなら、他の誰にもできません!」
「そんなはずない! 僕よりも、もっと相応しい人がいるはずだ!」
二人の言い合う声が廊下に響く。
「僕は強くない。弱すぎて、何も背負えない。国なんて重すぎる……無理だ。無理なんだよ」
その震える声を聞いて、シトルーナは自分のサーコートの胸元をギュッと掴んだ。何も言えなくなってしまった。
……限界か。ペルナは小さく息を吐き出した。
「わかりました。じゃあ、逃げましょうか?」
「ペ、ペルナ隊長! 何を!?」
やけっぱちにでもなったのか? と、シトルーナは目を丸くする。
「だって、無理なんだからしょうがないだろ? ねえ、ルシッカ王子? 安心してください。俺も一緒に行きますよ。日がな一日、釣りなんかして過ごすのも楽しいかもしれませんよ?」
「そんな……じゃあ、この国はどうなってしまうのですか!?」
「そんなこと、俺が知るかよ」
「無責任なこと言わないでください!」
ペルナの緊張感のない顔を睨みつけて、シトルーナは頬を紅潮させている。
「だって、そうだろ? できないって、本人が言ってるんだ」
「あ、あなたは……国王を守ると誓ったのではないのですか!?」
「誓ったよ。だから、一緒に行くんだろ? 釣りも嫌いじゃないしな」
「勝手なことを言わないでください!」
言い合いは止まらない。
「本人が無理だって言うんだから――」
「無理かどうかは、わかりません! だって、そうでしょう……ルシッカ様は、まだ何もしていません!」
ペルナの声を押しのけて、シトルーナは一段と大きく強い声をあげた。今にも泣き出しそうな、その目は赤い。
「ルシッカ様。あなたは、まだ何もしていません! 何ができるか。何ができないのか。それさえも、わからないんです。それに! あなたが背負うべきは国ではありません。民です! いつも、あなたが笑顔で話しかける花屋の店主。パン屋の女将さん。あなたに手を振る子どもたちです!」
ドン。シトルーナは握った手を扉に当てる。
「それに……もしも、一人で背負えない時は、私たちが一緒に背負います。あなたが感じている重圧がどれほどのものか、私にはわかりません。それでも、あなたが倒れそうな時は、絶対に私が支えます――だから、逃げないでください」
シトルーナは「お願いします」と俯いて、額を扉につけた。
「お気持ちはわかります。国王様と王妃様が、あんなことになって……すごく怖いんですよね。あなたは優しい人。それでいて、未熟です。だから、怖がってもいいんです。でも、優しいことも、未熟なことも、弱さではありません」
絞り出すような声が、水面を打つ小さな雨粒のように響く。
扉の向こう側、部屋の中から嗚咽が聞こえてきた。
やがて、扉がカチャリと開かれた。
続いて、恐る恐る覗いた顔は、これから人前に出る者とは思えないほど、ひどいものだった。
「あ、逃げます?」
ペルナは間髪入れずに尋ねる。
まだ言うのか!? シトルーナは振り返り、睨みつけた。
「逃げない」
ルシッカは首を横に振る。
「ペルナ、ありがとう。今日は逃げない。でも、もしかしたら……また逃げたくなるかもしれない。その時は、頼むかもしれない」
泣きはらした顔だが、その瞳には確かに光が宿っている。
「承知しました」
ペルナは安心と共に頭を下げた。
「ありがとう……シトルーナ」
そう言って、ルシッカは部屋から出ると、そのまま廊下に歩みを進めた。
「はい」とだけ言って、シトルーナは頭を下げる。そして、前を行く背中に目を細めて、鼻をすすった。
「私が支えます、な?」
ふと、ペルナは隣にだけ聞こえるように囁いた。
シトルーナは、ハッとした顔を向ける。ペルナがニヤリと笑えば、途端に顔が赤くなった。
「わ……私たちが、と言いました! 聞き間違えたのではないですか!?」
「ああ、聞き間違い。なるほどな」
生真面目な顔が、さくらんぼのように赤くなっているのを面白そうに、ペルナは笑う。そんな笑顔を置いていくようにして、シトルーナは早足で歩みを進めた。
王座の間へと続く廊下の途中、ペルナは少しだけ歩く速度を落とした。視線の先、白い長衣の裾が柔らかく揺れている。
メロニエルは、目の前を通り過ぎるルシッカに恭しく一礼をした。それから、ペルナへと目を向けた。
「式の始まりが少し遅れるとのことでしたが、問題なさそうですね?」
目も口も笑っているのに、どこか冷たさを感じさせる笑顔に、ペルナは少しだけ身構える。
「お待たせして申し訳ありません。式は間もなく始まります。どうぞ、王座の間へ」
嫌なやつに会ったな。そんな気持ちを抑えて、笑顔を返した。
その様子を面白そうに、メロニエルは目を細める。そして、その顔を、来賓の貴族の女性たちが、うっとりとした様子で見つめながら通り過ぎていく。
こいつ、スープに砂糖を入れますよ。そう言ってやりたかったが、ペルナは「どうぞ」と道を譲るだけにとどめた。
王座の間は華やかな空気に包まれている。タイヴァス王国の紋章が入った青い旗。玉座まで続く、赤い絨毯。シャンデリアの輝き。王座の上に天井から吊り下げられた天蓋。そのどれもが祝福を彩っている。
「遅くなりました」
ペルナも騎士団の列に並んだ。隣に立つ、ヴェシメロニに静かに伝える。グレイプとルピッツァには目配せだけをした。
その後、戴冠式はつつがなく進み、ルシッカは星屑をちりばめたかのような輝きをもつ王冠をいただいた。
人々の視線が冠、そして自分に集まる。期待の眼差しに圧倒されながらも、ルシッカは一歩だけ足を踏み出した。
「本日、ここに集まってくれた皆に感謝する。この戴冠式にて、我はタイヴァス王国の新たな主となる」
そこまで言うと、言葉を止めて、うつむいた。
室内に落ちる沈黙に、人々がざわめき始める。演説用の原稿を作った大臣は「忘れたのか?」と青ざめている。
しかし、そうではない。ルシッカは震える手をギュッと握りしめた。そして、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐに前を見る。
「僕……私は強くありません」
そう再び続けられた言葉に、ざわめきはより大きくなる。ペルナは「おいおい」と口の中で呟いた。シトルーナも心配そうな顔を向けている。
「父や兄のように立派でも、強くもない。実は……今日も逃げ出したかった。私に、この王冠はあまりにも偉大で……重すぎる」
一言、また一言と吐露される飾らない正直な言葉に、やがて人々は口を閉じて聞き入る。
「けれども、もう逃げるのはやめました。まだ今は……この王冠は重たくて、この国は大きすぎる。それでも、私は背負うことを誓います」
僅かではあるが、弱々しかった声に厚みが出てきた。ルシッカの見た目は変わらない。まだ頼りない。だが、何かが変わりつつある――それを、ヴェシメロニの目は冷静に映している。
「私は未熟な王ですが……あなたたちと共に歩き、共に学び、共に強くなっていきたい。それが、国王となった私の最初の願いです」
ルシッカは言い終えると、誰にともなく頷いた。まだ手も足も震えているが、うつむきはしない。
しんと静まり返る中、パチパチパチ――最初に手を叩いたのは、メロニエルだった。それに続くように拍手の波が起こり、大きな歓声があがった。
その拍手喝采の中、新国王は国民へのお披露目のために退室して、バルコニーへと場所を移す。
「よかったですね」
目の前を通り過ぎて行くルシッカの姿を感慨深げに見つめながら、ペルナは言った。一時はどうなることかと思ったが、事なきを得られたことを安心する。
「本当にそう思うか?」
だが、返ってきたのは思いもよらないものだった。
ペルナは「え?」と顔を向けるが、その返事の主であるヴェシメロニは、すでに背中を向けていた。何を語るわけでもなく、歩みを進めていく。ただ濃藍色の外套が揺れているだけだった。




