レオルの洗濯
洗濯を覚えてから、リディアの生活は規則正しくなった。
朝は早く起きて水を汲む。洗うものがある日は共同井戸へ行き、戻ったら洗濯物を干す。昼までに買い物を済ませ、午後は掃除と夕食の準備。余裕があれば、帳簿もつける。
何の変哲もない毎日だった。
ただし、時間が足りない。
伯爵家でなら、午前中に帳簿や家政関係の仕事をしたら、昼は読書や習い事をしたり、社交をしたりすることもできた。いまは手紙を一通書き始めても、鍋の火が気になって席を立たなければならない。
さらにリディアを悩ませたのは、肉体的な苦痛だった。足腰も痛いが、とりわけ手が酷い。
最初は指の腹が赤くなる程度だったものが、次第に関節のあたりまで荒れ始めた。石鹸を溶かした水に触れるのも憂鬱になるほどだ。今は春先だからまだいいが、これが真冬だったらどうなることだろう。考えたくもなかった。
その日も、リディアは井戸から戻ると台所の隅に盥を置き、まずは夫のシャツを仕分けした。
研究者の衣服は、意外に厄介だ。
ペンの汚れくらいならまだしも、何に使ったのか分からない鉱物や薬品の色がついていることもある。なかには、石鹸で擦ったくらいでは落ちないものもあった。そのため、今では見慣れない汚れを見つけるたびに、レオルに確認することにしている。
「これは何の汚れでしょう」
研究室の扉を叩いて尋ねると、レオルは服を見た。
「墨だな」
「こちらは?」
「煤だろう」
「では、この緑色は?」
「……少し待て」
彼はしばらく考えた。
「スライムの消化液だな」
「……消化液?」
「ああ。魔力の分解効率を調べるのに使った」
「それ、大丈夫なのですか?」
「中和してある。人体に害はない」
「そういう問題でしょうか……」
「ほかに何か問題が?」
リディアは、緑色の染みをもう一度見た。それから、指先で服をつまんで洗濯籠に放り込んだ。
「籠を別に用意しておきますから、研究で汚れた服は今度からそちらに入れてくださいませ」
「承知した」
きちんとやってくれるだろうか。一抹の不安を覚えながらも立ち去ろうとしたとき、背後から声がした。
「なぜそんなに手が荒れている?」
リディアは少し驚いた。口紅や髪飾りを替えても気づかない人だろう。それなのに、荒れた指先には目が留まるらしい。妙なところを見ているものだ。
「洗濯が大変なのです」
「洗濯?」
「ええ。何度も水に浸して、擦って、濯がなければならないでしょう」
「そんなに大変なものなのか?」
「……あなたのお洋服も洗っているのですが」
「それは感謝している」
「そうですか?」
懐疑的な視線を投げかけるリディアには頓着せず、レオルは洗濯籠に目を向けた。
「少し見せてくれないか」
「何をですか?」
「洗濯を」
リディアは目を瞬いた。
「お手伝いしてくださるのですか?」
「いや、見たいだけだ」
「……見たい?」
「どのような作業なのか、よく知らないからな」
要するに、見物したいということらしい。
見物するくらいなら手伝ってほしいと思いながらも、リディアは断らなかった。洗濯というものに興味を持っただけでも、この人にとっては進歩なのかもしれない。
二人はそのまま、屋敷裏にある井戸まで移動した。
レオルは、わざわざ椅子を運んできて、そこに座った。何をするのかと思えば、膝の上に小さな手帳を開いて、書きものの用意をしている。
「何をお書きになるおつもりで?」
「手順を記録する」
「そこまでなさる必要がありますか?」
「あとで忘れるかもしれないだろう」
完全に実験記録をつける研究者のそれだった。
リディアはシャツを取り出し、石鹸をつけた。布を擦り合わせると、盥の水が少し濁る。
「なぜ擦る?」
「汚れを落とすためです」
「水に浸すだけでは落ちないのか?」
「落ちないものが多いですわ」
「擦る強さと回数で変わるのだな」
「そういうことです」
レオルは何かをメモし、リディアはまた擦る。
「なぜ途中で水を換える?」
「汚れた水では、布にまた汚れがついてしまうでしょう」
「もっと大量の水を使えばいいのではないか?」
「それだと水汲みが大変なのです」
「そうか、なるほど」
レオルの質問は細々と続いた。
石鹸の量はなぜ毎回違うのか。布の種類によって擦り方を変えるのはなぜか。なぜ水を絞るのか。何度濯げば十分なのか――。
リディアは途中から、自分でもどうしてそうしているのか分からなくなってきた。レオルに洗濯物を投げつけたくなってくる。
「そう教わったからです」
「誰に?」
「マルタさんです。洗濯屋の方ですわ」
「なるほど。経験則というわけだな」
彼は満足そうにうなずいた。
「では、あの板は何のために使う?」
「布を擦りやすくするためです」
「布を傷めないのか?」
「強くやりすぎれば傷みます。何度も言いましたでしょう」
「そうだったな」
記録する意味はあるのだろうか。
リディアは手を止め、夫を見た。
「そこまで気になるなら、ご自身で一枚洗ってみては?」
「私が?」
「ええ。実際にやれば、よく分かると思います」
レオルは真面目な顔で考えた。
「そうだな。やってみよう」
意外なことに、彼は素直に立ち上がった。
リディアが布を一枚差し出すと、レオルはそれを指先で持ち上げ、盥に浸した。石鹸をつけ、二、三度擦る。ひどくぎこちない手つきだった。
「これを全部やるのか」
「そうです」
「毎回?」
「汚れが落ちるまで毎回、毎日です」
レオルは布を持ったまま黙りこむ。
リディアは、さすがに彼も何か感じるところがあったのだろうと期待した。
「いかがですか?」
「なるほど。これは無駄が多い」
「……無駄?」
「同じ動作を、何度も繰り返している」
「繰り返さなければ汚れが落ちないのです!」
「だから、それが問題なのだろう」
レオルはリディアに布を返した。
「必要なのは、汚れに水と石鹸を作用させ、適当な力を加え、最後に流すことだ。人間の手で擦らなければならない理由はないはずだ」
「そうおっしゃいますけれど、勝手に布が動くわけではないのですから」
「布側を動かす必要はないだろう。水の方を動かせばいい」
彼は手帳を閉じた。
「水を?」
「手で擦る代わりに、水の流れを使う。一定方向ではなく、周期的に向きを変えた方がいいかもしれないな。水流を制御するには……」
途中からは、もはや独り言になっていた。
リディアには、レオルが何を考えているのかわからない。ただ、レオルが深く考え込んでいることだけはわかる。
「少し試してみたい」
「試すって……何を?」
「洗濯だ」
そう言うと、彼は研究室へ戻ってしまった。
リディアは、とっさにシャツを差し出しかけた姿勢のまま呆然と固まる。
レオルが一人前に洗濯をこなしてくれるとは期待していなかった。しかし、まさか三十秒ほど擦っただけで行ってしまうとは……。
「もう少し手伝ってくださってもいいのに」
ぼやきながら洗濯を続ける。
それでも、なんとなく気になった。
水の方を動かす、とレオルは言っていた。何をどうするつもりなのだろう。
廊下の埃を風魔法で一気に外へ吹き飛ばしてしまったことを思い出す。あのときは、外を片づけるのが大変だった。今度も似たようなことになるのではないか。
「……まずは、今日の分を終わらせないと」
リディアは再び布を絞った。考え事をしていても、洗濯が済むわけではない。
ようやく洗濯を終えて息をついた頃、研究室から小さな物音がした。
金属を打ち合わせる音、水が流れるような音。そして、何かが激しく回転する音……。
少ししてレオルが廊下に顔を出した。
「君、いらない布はあるか?」
「いらない布?」
「汚れていて、破れても構わないものだ」
リディアは嫌な予感がした。
「……何をなさるおつもりですか?」
「洗濯する」
つい先ほど、途中で洗濯を投げだした男の言葉である。
リディアは、不安と不可解さを覚えながら、古い布巾を手渡した。レオルはそれを握って、再び部屋へ戻って行ってしまう。
数分後、研究室から妙な音が響いた。
何かが飛び散り、床を叩いたような音だった。
リディアは布巾を渡したことを、早くも後悔し始めた。




