かつての友人
新しい生活に慣れたとしても、以前の人生が消えてしまうわけではない。
リディアは、市場の入り口でエミリア・ローゼンを見かけたとき、そのことを思い知った。
エミリアは、リディアと同じく伯爵家に生まれた令嬢で、数年前にこのリュンベルクのローゼン子爵家へ嫁いでいた。二人は娘時代から親しく、リディアも何度となくその屋敷を訪ねたことがある。
エミリアは水色の外套を着て、付き添いの侍女と歩いていた。淡い栗色の髪を帽子に収め、小さな羽飾りを揺らしている。
以前なら、リディアも同じような服装で隣に並んでいたはずだった。
声をかけずに通り過ぎようかと思ったが、思ったときには目が合っていた。
「リディア?」
エミリアは目を見開き、それから心配そうな表情になった。
「まあ、おひさしぶりね。お元気だった?」
「ええ。おかげさまで」
リディアは反射的に、昔のような微笑みを作った。挨拶の間合いも、声の高さも、体が覚えている。一方で、結婚によって家格に差ができてしまった今、エミリアに対してどう接すればいいのか戸惑ってもいた。
「ご結婚なさったそうね。お知らせをいただかなかったから、驚いたわ」
「急に決まったものですから」
「そうでしょうね。式もなかったと聞いて……」
そこでエミリアは口をつぐんだ。
誰から聞いたのか尋ねたかったが、やめた。伯爵家の娘の結婚に式がないなんて、広まるのは早いだろう。
「主人は、そういう儀礼的なことをあまり好まないようで……」
「まあ、そうなの」
エミリアの目が、リディアの持つ買い物籠へ移った。籠の中には玉葱と乾燥した豆、それに固形石鹸が入っている。
「ご自分でお買い物を?」
「ええ。便利ですのよ。欲しいものを自分で選べますから」
言いながら、リディアは自分でも何を言っているのかと思った。自分で買い物をすることの利点なんて説いてもしかたないのに。
「それは……新鮮でしょうね」
エミリアは困ったように微笑んだ。
その顔には、たしかに心配があった。だからこそ、リディアは余計に惨めな気持ちになった。エミリアは侮辱しようとしているのではない。単純に、リディアがひどく不運な結婚をしたことを、当然の事実として受け止めているのである。
「お茶でもいかが?」
エミリアが提案した。
近くのカフェは、かつて二人が何度か訪れた店だった。リディアは籠を持ち直してから、うなずいた。
店の主人は、彼女たちを覚えていた。席に通され、香りの良いお茶が運ばれてくる。白い陶器の茶器を前にすると、リディアは不意に肩の力が抜けた。
このくらいの贅沢、以前は何とも思わずに享受していたものだ。
「シェーンブルグ様は、どんなお方?」
エミリアが尋ねてきた。
「研究者ですわ」
「それは存じています。お人柄は?」
リディアは答えに迷った。
結婚式を必要ないと言い、食事を錠剤で済ませ、廊下の埃を魔法で外に吹き飛ばす男。
どこから説明すればいいのだろう。
「……少し、変わった方です」
「それも夫から聞いているわ。優秀な研究者だけど、全然社交に出ていらっしゃらないとか」
レオルの変人ぶりは貴族間でも有名らしい。
「でも、私に何かを強制なさることはありません」
「まあ。それは何よりね」
エミリアはほっとしたようだった。
「それで、お二人ではよくお話をなさるの?」
「必要なことは話します」
「たとえば?」
「家計のことや、お湯の沸かし方など……」
リディアは途中で言葉を切った。
新婚の貴族夫婦の会話としては、いかにも妙だった。
エミリアもそう感じたらしい。ティーカップを持ち上げたまま、何か言いたそうにしている。
「主人は研究で忙しいものですから」
リディアはそう付け足した。
嘘ではない。ただ我ながら、やけに言い訳じみて聞こえた。
エミリアがティーカップを戻した。
「お父様のご様子は?」
「父とは、結婚以来会っておりません」
「そう……。あなたも、もう少し違う言い方ができたらよかったのに」
リディアはカップを持ったまま止まった。
「どういう意味です?」
「侯爵家とのお話よ。あんな場で、相手をやり込める必要はなかったでしょう? 契約に問題があるなら、あとでお父様に相談すればよかったのに」
「相談はしました。三度も」
「だったら、せめて最後は黙っていれば……」
「黙って署名すれば、丸く収まったということ?」
エミリアは小さくため息をついた。
「そんなふうに、すぐ議論にしないでちょうだい。あなたが悪いと言っているわけじゃないの。ただ、世の中には譲った方がいいこともあるでしょう?」
「譲れば、母の財産まで先方の管理に入ったのよ」
「でも、結婚してしまえば家族になるのだし」
「だからといって、お母様が私に遺してくださったものを勝手に使っていいことにはならないわ」
昔の調子が戻ってしまった。リディアは誤魔化すように、お茶を口に含んだ。
エミリアは悪い人ではない。縁談が順調だったころには、ドレスの仕立て屋を紹介してくれたり、舞踏会でさりげなく気を配ってくれたりもした。
しかし、エミリアは、貴族女性たるもの、婚姻を通じて両家に利をもたらすのが役目だと思っている。そのためには婚家の顔を立て、多少の不公平も受け入れるべきだと。
リディア自身も、以前はそう考えていた節がある。けれど――。
「リディア」
エミリアは声を和らげた。
「本当に困ったことがあれば、私に言ってね。できることはするわ」
「ありがとう」
エミリアの気遣いは嬉しかった。
ただ、同情を受ける立場になってしまったことが、腹立たしくもある。
「ところで、あなたのご主人には研究院からお給料が出ているのでしょう? それなら、きちんと暮らしていけるのではなくて?」
「ええ。暮らしてはいけますわ」
「それなら、よかった」
エミリアはまた安心したように微笑んだ。
リディアは、細かく説明するのをやめた。
暮らしていけることと、不自由がないことは違う。まして、日々の洗濯と料理を自分でしているなど、話したところで笑い話にもならないだろう。
カフェを出ると、エミリアは馬車を呼び、リディアは買い物籠を持って坂を上った。
別れ際に「またお会いしましょう」と言い合った。なんてことのない挨拶なのに、やけに空々しく聞こえた。
屋敷の前まで戻ると、リディアはしばらく門に手をかけたまま立ち尽くした。
買い物籠が、とても重たく感じる。
◇
自分の部屋に入ったリディアは、鍵付きの箱から小さな革張りの書類入れを取り出した。中には母の遺産に関する証書と、母の筆跡が残る短い手紙がある。
母は生前、いくつかの公債と小さな貸付債権を、リディア個人の私的財産として残してくれた。現金化すれば、当面の家計を立て直すには十分な額になるはずだ。
このお金を使えば、使用人を一人雇うくらい簡単にできる。台所を整え、古い屋敷の修繕を始めることだって可能だろう。
リディアは母の手紙に触れた。
『使うときは、自分で決めなさい』
そこには、そう書かれていた。
それだけの、ごく短い言葉だった。
母が亡くなったとき、父はその遺産の管理権を自分に渡すよう求めてきた。いずれリディアは他家に嫁ぐのだから、ヴェルナー家でまとめて管理した方が、面倒が少ないという名分だ。
だが母は生前から、リディアに女性が自分名義の財産を持つ重要性を教えていた。どれほど裕福な家に嫁いでも、夫の財産を妻が自由に使えるとは限らない。家が傾いたり、夫と意見が食い違ったりしたとき、自分で使えるお金があるのとないのでは大違いなのだと。
だからリディアは、父の要求を拒んだ。
リディアは父と、昔からあまり良好な関係を築けていなかった。しかし、その溝が決定的になったのは、思えばあの頃からだったかもしれない。
今の暮らしは不便だ。手は荒れるし、料理も満足にできない。そんな苦労をせずに済む方法が、目の前にある。
それでも、リディアは証書を書類入れに戻した。
もし、この先レオルとの生活がどうにもならなくなったら。別れることになったら。そのとき、自分の裁量で使える財産が何もなかったら――。
母の遺産は、今の彼女にとって、誰の許可も要らずに使える最後の備えだ。その備えを、日々の不便をなくすためだけに取り崩したくはなかった。
それにもうひとつ、ささやかだが承服できない理由もある。
自分の生活を自分で立て直すと決めた以上、十分に挑戦していないうちから母の遺産に頼るのは、どうにも悔しいのである。
実際、リディアは料理も洗濯も、不格好ながら少しずつできるようになってきた。ちょっとした手応えも感じている。もう少し続けてみてもいいのではないか。
それは単なる意地かもしれない。必要になれば使うべきだと、リディア自身分かっている。
けれど、それは今日ではない。新しい生活は、まだ始まったばかりなのだ。
リディアは立ち上がると、台所に向かった。
◇
夕食には、以前失敗したスープをもう一度作った。
今回は玉葱を少し長く炒めてから水を足した。鍋底に張りついた茶色いところまで木匙でこそげると、汁の色が少し濃くなった。塩の量も、味見をしながら調整した。
レオルは夕食を黙って食べていた。
「今日は、人参の色以外のご感想もございますか」
思わず尋ねると、レオルは匙を止めた。
「この前よりうまいな」
リディアは少し驚いた。
「お分かりになりますの?」
「同じ料理を二度食べれば、違いくらい分かる」
「そうですか」
それだけのことが、少し嬉しかった。
夕食後、レオルは本を一冊持って居間の窓際へ行った。いつの間に淹れたのか、小机にはコーヒーの入ったカップがまた置かれていた。
リディアは家計簿を持ってあとを追った。燃料代について少し尋ねると、レオルは本から目を上げて答え、そしてまた本に目を落とした。
リディアは自分の用件が済むと、書斎へ戻って家計簿を開く。
食費、燃料代、石鹸代……。支出は以前より細かく分かるようになっている。以前は気づかなかった無駄も、見え始めてきた。
この屋敷に来てから、金貨の額では測れないことがいくつもあった。しかし、失ったものがそれで戻るわけではない。
エミリアの微笑みを思い出す。あの同情を、いつまでも受け続けるつもりはなかった。
リディアはペンを置き、窓に映る自分の顔を見た。
いつか再び、胸を張ってあのカフェに入れるようになりたい。
しかし、そのために何をすればいいのかは、まだ分からない。
とりあえず明日は、また洗濯物が待っている。




