伯爵令嬢の家事修行
「それじゃあ、袖のところが重なってるだろ。風が通るように広げるんだよ」
マルタに言われ、リディアは物干し縄にかけたシャツを広げ直した。
今朝は髪を複雑に結い上げず、後ろで束ねただけだった。袖も古い上着のものを折り返している。最初の日に泥を跳ねさせた靴は、もう洗い場では履かない。
伯爵家でこんな身なりをしていたら、侍女に叱られただろう。
「このくらいでしょうか」
「そうそう。そっちはもうちょっと離して」
「はい」
「返事だけはずいぶん立派だねえ」
周囲の女性たちが笑った。リディアはむっとしかけたが、昨日教わったことをうまくできていないのは事実である。言い返せなかった。
共同井戸の朝は忙しい。
商売として洗濯を請け負う人もいれば、自分の家のものを抱えて来る人もいる。彼女たちは仕事をしながら、野菜の値段や旦那の愚痴などを陽気に言い合っていた。
リディアには、その会話に加わる余裕がない。前日に覚えたはずの手順を確かめるだけで、精一杯だった。
「そんなに力を入れたら、布より先にあんたの手が駄目になるよ」
「もう少し強く擦った方が落ちると思ったのですが」
「落ちる汚れと、落ちない汚れがあるんだよ。まず水につけておく。急いだって、いいことばかりじゃないんだ」
マルタは同じ作業を、リディアの半分ほどの時間で終わらせてしまう。彼女の手は速いが、雑ではなかった。
「よくそんなに早くできますわね」
「これが仕事だからね。遅かったらおまんまの食い上げさ」
そう言ってマルタは笑った。
リディアはそれ以上、褒め言葉を重ねなかった。自分が感心して眺めている技術は、この女性が毎日働いて暮らしを立てるために身につけたものなのだ。わざとらしく大袈裟に褒めるのも、何か違う気がした。
◇
屋敷に帰ると、リディアは廊下の掃除に取りかかった。
床に積もった埃を箒で集めようとするが、古い屋敷の廊下は思ったより長い。端まで掃き終える前に、開け放した玄関から風が入ってきて、せっかく集めた埃が散ってしまった。
「何をしている?」
通りかかったレオルが足を止めた。
「お掃除です。見れば分かるでしょう」
「埃を移動させているのか」
「外へ出すつもりです」
「それなら」
レオルは片手を上げた。
短い言葉が口からこぼれた途端、床すれすれに風が走った。細い渦が埃を巻き込み、開け放していた玄関へと一直線に流れていく。壁際の埃まで吸い寄せられ、あっという間に廊下がすっきりした。
リディアは箒を握ったまま立ち尽くした。これほど間近で魔法を見るのは、リディアにとって初めてのことだった。伯爵家にも魔道具はいくつかあったが、魔法を使える者は一人もいなかったのだ。
「……今のは?」
「風の術式だ」
「そんなことができるなら、先におっしゃってください!」
「今、通りがかったところだ」
「それはそうですけれど……」
たしかに、なりゆきとしてはそうだった。問題はそういうことではないのだが。
どう言ったものかと頭を悩ませていると、外から何かが倒れる音がした。
玄関から覗くと、吹き出された埃が階段と植え込みに降り積もっていた。風で飛ばされた古い紙片が、門の格子に張りついている。
「外がひどいことになっています!」
「廊下はきれいになったが」
「廊下だけきれいでも駄目です!」
「なかなか難しいものだな」
そう言いながら、レオルはリディアから箒を受け取った。
こうして二人は、玄関前を地道に掃除し直したのであった。
◇
日が傾き始めた頃、リディアは再び街に出て、八百屋に立ち寄った。
今日は、野菜を使った料理をするのが目標である。
「今夜、簡単に作れるものはありませんか?」
尋ねると、店の女主人は人参と玉葱、それから小さな根菜を選んだ。
「煮込んで塩を入れりゃ、まあ食えるよ。鶏の骨でも一緒に煮ればもっといいけど」
「どのくらい煮込めばいいのです?」
「柔らかくなるまでさ」
「時間で申し上げると?」
「鍋と火によるねえ」
リディアは困った。家の帳簿なら、金額という絶対的な基準で判断できる。しかし料理については、「柔らかくなるまで」という曖昧な基準で済ませないといけないらしい。
それでも野菜を買い、店の女主人から火加減のことも教わって帰った。
鶏の骨は買わずにおいた。そんなものを入れても食べられないではないか。食文化の違いを感じた。
屋敷の台所では、まず薪に火をつけるのに苦労した。何度も火打ち金を鳴らしているうちに、ようやく細い焚きつけに火が移る。大きな薪を早く入れすぎて、煙が立ち込めた。
窓を開け、咳き込みながら火加減を調節する。
玉葱を刻んだら涙が出た。根菜は皮を厚く剥きすぎた。鍋に水を入れすぎて、煮詰まるまでにずいぶん時間がかかった。
それでも夕方には、野菜の煮込みスープが完成した。玉葱はとろとろになり、人参は角が崩れ、色の薄い汁の底に根菜が沈んでいる。
器に盛りつけると、見た目はそれほど悪くなかった。少なくとも、人参の色はきれいだ。先日買った黒パンとハムも横に添えると、ちょっとした夕食らしくなる。
リディアは誇らしくなった。
「レオル様、お食事です!」
研究室を覗くと、レオルは細い縁の眼鏡をかけ、長い金属片に小さな印を刻んでいた。
「今か?」
「ええ。お料理が冷めてしまいますもの」
「もうそんな時間か」
彼は道具を置き、素直に台所へ来た。
席につくと、軽く器に触れてまじまじと中身を見つめる。
「熱いな」
「煮込んだばかりですから」
「そうか、体が温まりそうだな」
そうして、リディアとレオルは二人で食事を始めた。
残念なことに、野菜スープの味は薄かった。熱いうちはまだいいが、冷めると煮込んだ野菜の匂いばかりが目立つ。もっと塩を入れればよかったかもしれない。
しかしレオルは何も言わずに、淡々と匙を動かしている。
彼の口には合ったのかもしれない。
リディアは嬉しくなった。
「いかがですか?」
「食べられる」
「……それは、褒め言葉ですか?」
「食べられないものを出されるより、ずっといい」
リディアは匙を置いた。
「もう少し、ほかのご感想はございませんか」
レオルは真面目に考え込んだ。
「人参の色がきれいだ」
「もう結構です」
彼はまた匙を動かし始める。
リディアはそんなレオルを不満気に見ながら、人参を口に放り込んだ。
◇
レオルの屋敷では、困ったことがもうひとつあった。
風呂である。
嫁いできてからというもの、リディアは水で身体を拭くだけで済ませていた。湯の用意の仕方が分からなかったのだ。しかし、洗濯や掃除で汗をかいた今日は、さすがに温かい湯に浸かりたかった。
小さな浴室は台所の近くにあった。木製の浴槽も、水を入れるポンプもある。
しかし、湯をどう用意すればよいのか分からない。火の魔道具らしきものは、やはり見当たらなかった。台所で湯を沸かして運ぶことも考えたが、この浴槽を満たすには何往復すればいいのだろう。
レオルを探すと、研究室の椅子で何かを書いていた。
「お風呂のお湯は、どうなさっているのですか?」
「水を入れて温めている」
「それは分かります。温めるには?」
「熱を加えればいいと思うが」
「その方法を聞いているのです!」
「そうか、そういう問題もあるのか」
レオルは立ち上がって浴室へ来た。壁際に取りつけられた古いポンプの柄を何度か動かすと、管の先から水が流れ始めた。
「井戸とつながっているのですか?」
「ああ。昔からある設備だ」
浴槽に水が半分ほど溜まると、レオルは指先を水面に近づけた。
水がゆっくり揺れ始め、指の周囲から薄く湯気が立つ。やがて浴室全体に、むわっとした蒸気がたちこめた。
「手を入れて確かめてみるといい。熱すぎたら水を足す」
言われるまま触れると、ちゃんとお湯になっている。少し熱いが、適温の範疇だ。
「こんなことまでできるのですか!」
「水を熱しただけだ。大した術式ではない」
「いつもこうしてお湯を沸かしていらっしゃるのですか?」
「ああ。風呂に入るときはな」
「……毎日ではないのですか?」
リディアは、なんとなくレオルから距離を取りながら尋ねた。
「研究に集中していると、忘れることもある」
「お風呂を?」
「そうだ」
リディアは温かな浴槽を見た。
「では、これからもお願いしてよろしいですか?」
「構わない。研究に集中していなければ」
「……あまり期待しすぎないようにします」
会話が一区切りつくと、レオルは踵を返して研究室へ帰ろうとした。
「待ってください。レオル様は、お入りにならないのですか?」
「私はあとでいい」
「お湯が冷めてしまいますよ」
「一緒に入れということか?」
「違います!」
「では、冷める前に君が入ればいいだろう」
考えてみれば、レオルは自分で湯を温め直せるのだ。そう思い至って、リディアはレオルの背を見送った。
湯に浸かると、指先の痛みがじんわり和らいだ。風呂桶の周りには古い木の匂いがし、窓の向こうには街の灯りが見えた。
今日は洗濯をして、廊下を綺麗にし、スープを作った。たったそれだけで、一日が終わってしまった。明日も、似たようなことをするのだろう。
自分は、こんな暮らしをいつまで続ければいいのだろうか。
しかし、昨日は作れなかった料理が、今日は作れた。井戸の水も、初日よりは上手に運べるようになった。
小さな進歩が、少しだけ面白くもある。
明日の朝は、街の人々がお風呂をどうしているのかもマルタに尋ねてみよう。




