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伯爵令嬢リディアの魔道具商売 ~望まぬ結婚をしたら、夫から洗濯機をもらいました~  作者: 長月


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井戸端の女たち

 リディアの実家であるヴェルナー伯爵家には井戸が三つあった。

 一つは台所の裏庭にあり、一つは厩舎の近くにあり、もう一つは庭師が使うものだった。リディアはその場所をすべて知っていたが、どの井戸からも水を汲んだことがない。


 知っていることと、できることは違う。

 結婚してからというもの、その事実を痛いほど思い知らされていた。


 今朝も、屋敷の裏井戸で水を汲もうとして、まず手押しポンプの扱いに困った。

 柄を上下させようとしたが、初めは重くて思うように動かない。思い切って力を込めると、今度は勢いよく水が流れ出し、跳ねた水がスカートの裾と靴を濡らしてしまった。

 リディアは、びしょ濡れになった足先を見つめた。


「……これでまだ朝なのね」


 昨日は、何とか屋敷の家計を見直した。食材も買ってきた。だから少しは前に進んだと思っていた。

 しかし、洗濯物の山は依然としてそこにある。

 水の準備をするだけでこんなに苦労するなら、洗濯が終わるまでに、どれほどの時間がかかるのだろう。


 伯爵家では、朝に出した衣服が夕方には整えられていた。明日着るものがあるかどうかなど、一度も心配したことがなかった。

 服が勝手に綺麗になるわけがない。

 そんな当たり前のことに今さら気づくのは、いささか情けなかった。


 リディアは空の水桶を持ち、坂を下った。


 学術都市リュンベルクは、研究院のある丘から商業地区へ向かって道が伸びている。中心部には石造りの立派な建物が並ぶが、少し外れると、木骨造りの住居や小さな工房が増える。


 パンの焼ける匂いがした。木槌の音が聞こえ、荷車を引く男が道端で誰かと値段の交渉をしている。リディアは結婚前にも何度かこの街を訪れたことがあるが、馬車の中から見るのとはずいぶん違って見えた。


 共同井戸は坂の途中にある。

 井戸の脇には、広い石敷きの洗い場があった。汲み上げた水を桶に移し、汚れた水は別の溝へ流す仕組みになっているらしい。

 そこでは何人かの女性が、桶や木の盥を並べて、衣服を洗っていた。小さな子どもを連れた人もいれば、大量の布を積み上げた人もいる。思い思いにおしゃべりしながらも、手は休めない。


 リディアは足を止め、その様子を眺めた。


 ある女性は水に浸した衣服を、何かの板に押しつけて擦っている。別の女性は白い布を桶から引き上げ、勢いよく絞っていた。

 まるで、手順が決まっているかのようだった。

 いや、決まっているのだろう。自分が知らないだけで。


 リディアは、何枚もの衣服を手際よく洗い上げている女性に目を留めた。


 がっしりした体つき。年は五十ほどだろうか。日に焼けた頬の脇から、布でまとめた髪の一筋がはみ出している。袖を肘までまくった腕の太さは、リディアの二倍はありそうだ。


 声をかけようとして、ためらった。

 見知らぬ人に教えを請うことなど、これまで一度もなかった。家庭教師の世話になったことはあるが、それとはまったく違う。相手には相手の仕事があり、時間があるのだ。彼女たちは、リディアのためにそこにいるのではない。


 だが、何も聞かずに帰れば、さらに洗濯物が溜まっていくだけだ。

 リディアは桶を持ち直し、女性の仕事が一段落するのを見計らって近づいた。


「突然お声がけして申し訳ありません。少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「何だい? 井戸を使うのかい?」

「それもありますが……洗濯の仕方を教えていただけないでしょうか。お時間をいただく分のお礼はいたします」


 女性はリディアの手袋、靴、服の裾、それからきちんと結い上げられた蜂蜜色の髪へ目を走らせた。


「あんたみたいなお貴族のお嬢様が、洗濯を習おうっていうのかい?」

「はい。今の家には、洗濯をしてくれる者がおりませんので」

「自分でやるのかい?」

「そのつもりです」


 隣で洗っていた若い女性が顔を上げた。


「洗濯係がいないお屋敷なんてあるんだねえ」


 感心したのか呆れたのか、判別のつかない声だった。

 リディアは、少しだけ胸を張った。


「ですから、覚えたいのです」


 中年の女性は盥を置き、笑った。


「そういうことなら、まず見ていきな。私はマルタ。井戸のわきに小屋があるだろ? あそこを借りて洗濯を請け負ってる。あんた、名前は?」

「リディアと申します。リディア・シェーンブルグです」


 マルタの手が止まった。


「シェーンブルグ?」

「はい」

「……あの、丘の上の先生の?」

「妻です」


 一瞬の沈黙があった。

 次の瞬間、マルタが大きな声を上げた。


「あの先生が結婚したのかい!」


 洗い場の女たちが一斉にこちらを見てくる。


「ちょっと、マルタさん、そんなに驚かなくても」


 リディアは赤くなった。


「だってあんた、あの先生だよ? そうかい、結婚したのかい」

「そんなに意外でしょうか?」

「意外も何も……。昔から他人にまったく興味なさそうな人だったからねえ」


 若い女性が身を乗り出した。


「いつも似たような上着の人?」

「そうそう。服には昔から頓着しなくてね。面倒臭いからって同じやつをまとめて注文するんだと」


 何人かが笑った。

 リディアは、昨日見た古い上着を思い出した。もしかしたら、前日と同じ服を着ていたのではなく、別の似た服だったのだろうか。まったく違いに気づかなかった。


「こちらで、夫のお洗濯をしてくださっていたのですか?」

「ああ、うちが請け負ってたよ。だけど最近は来なくなってさ。どうしたのかと思ってたんだ」

「……結婚のために、少し節約したそうです」

「へえ。先生がそんなこと考えたのかい」

「考えたのは、別の人です」


 言ってから、リディアは少し笑ってしまった。

 マルタも声を立てて笑った。


「だろうねえ」


 その笑い方には、侮蔑も同情もなかった。長年、少し変わった客のことを話題にしてきた人の、気安い笑い方だった。


 リディアは妙な気持ちになった。


 夫はこの街に住んでいる。自分と結婚する以前から、ここで暮らしてきた。分かっていたつもりだったが、こうして実感するのは初めてだった。


 マルタは自分の仕事をしながら、片手間に洗濯の手順を説明してくれた。

 衣服を布地と汚れの種類で分けること。色の濃いものと薄いものをむやみに一緒にしないこと。石鹸をつける前に、落とせる泥を水で流すこと。


「力いっぱい擦ればいいってもんじゃないよ。そんなことしたら布が傷む」

「なるほど」

「ほら、こっちはこう。水を換えずに何度も濯いだって、きれいにはならないからね」


 リディアは真剣に見た。

 洗い場の端では、若い女性が彼女をちらちら眺めている。


「そんなことをしなくても、最初から使用人を雇えばいいんじゃないの」


 言い方には、少し棘があった。


「それができるなら、そうしております」


 リディアは答えた。


「私も、望んでこのようなことをしているわけでは……」


 そこまで言って、口をつぐんだ。

 洗濯をしている女性たちの前で、家事をしなければならないことを不幸として語るのは、いかにも感じが悪いと気づいたのだ。


 若い女性は肩をすくめた。


「まあ、やってみれば分かるよ」

「ええ。ですから、教わりたいのです」


 意地になっているつもりはないが、どうしても語気が少し強くなる。

 見かねたのか、マルタが間に入ってくれた。


「まあまあ、いいじゃないか。覚えたいって言うんなら。最初は誰だって下手なもんさ」


 そう言いながら、リディアに布切れを渡した。


「少しやってみるかい?」

「はい!」


 即答したものの、いざ盥の前に立つと、どこから手をつければいいのか分からない。

 やってみれば、洗濯は見た目ほど簡単ではなかった。

 布を水に浸(ひた)すだけでは済まない。汚れを落とそうと擦ると布がねじれ、絞ろうとすると腕が疲れる。石鹸をつけすぎて泡が残り、もう一度濯(すす)ぐ羽目になる。

 マルタは要所だけ手を貸してくれたが、基本的にはリディア自身にやらせた。


「ほら、指先だけでやらない。手のひらも使うんだよ」

「こうでしょうか」

「そうそう。さっきよりずっといい」


 褒められると、不思議と嬉しかった。


 伯爵家では、こんなことを褒められた経験はない。そもそも、自分で洗濯する必要がなかったのだから当然だ。

 けれど、今日の自分は知らないことを教わり、昨日より一つできることが増えた。

 小さなことだったが、そこには確かな手応えがあった。


 昼が近づくころ、マルタが洗った布を広げながら言った。


「明日も来るかい? 朝のうちなら、もう少し教えられるよ」

「よろしいのですか?」

「ただし、こっちも仕事があるからね。付きっきりにはなれないよ」

「もちろんです。お礼はきちんとお支払いします」

「片手間で教えるだけで、礼なんざもらえないよ。気が向いたら、また仕事をくれればそれでいいさ」

「それは……ありがとうございます」

「先生にも言っといておくれ。上着はもう新しいのを仕立てた方がいいって」

「ええ。必ず」


 言ってレオルが従うかは疑わしかったが、リディアはうなずいた。


 帰り際、マルタは小屋の棚から小さな石鹸の切れ端を分けてくれた。売り物にならない端材だから気にするなと言う。

 リディアは礼を言い、今度からは自分で石鹸を買ってくると約束した。

 一方的にもらってばかりなのも良くないが、お金を払えばいいというものでもないらしい。その距離の測り方も、リディアにとっては新しい勉強だった。


 屋敷へ帰ると、レオルは居間で本を読んでいた。

 リディアの帰りを待っていたのかと一瞬思ったが、どうやら読書に熱中していただけらしい。声を掛けると、レオルは驚いたように顔を上げた。


「ただいま戻りました」

「ああ、どこへ行っていた?」

「共同井戸です。洗濯を教えていただきました」

「洗濯を?」

「ええ。まだ上手にはできませんけれど」

「そうか」


 それだけ言うと、彼は再び本に目を落とした。

 リディアは少しむっとする。せめて、「ご苦労だったな」くらいは言ってくれてもいいのではないか。

 しかし、今日一日のことを考えると、レオルの反応など案外どうでもよくなっていた。


 屋敷の外には、自分の知らない暮らしが広がっていた。

 そこにはマルタという女性がいて、明日も洗濯を教えてくれる。


 彼女には彼女の仕事があり、自分には自分の覚えるべきことがある。


 そのことが、なぜだか少し嬉しかった。


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