04. 好きにして構わない
再び研究室に来たリディアは、勢い込んでレオルに声をかけた。
「レオル様。私の持参金は、どちらに記録されていますか?」
研究室から出てきたレオルは、首をかしげた。
そのとぼけた様子に、嫌な予感が走る。
「持参金なら断った」
「……断った?」
「ああ。特に必要なかったからな」
リディアは帳簿を抱えた腕に力が籠るのを感じた。頭がカッと熱くなる。
「必要なかったって……! これから二人で暮らしていくのですよ。なぜ相談もなくお断りになったのです?」
「伯爵が、持参金を特別に多く持たせてやると言ってきてな」
「父が?」
「金をたくさんやるのだから、ありがたく思え、という調子だった。少々腹が立ったので、いらないと答えた」
レオルの口調は淡々としていた。
リディアは言い返しかけて、やめた。父の尊大な口ぶりが、容易に想像できてしまったからだ。
それにしても、恩着せがましく申し出たことをあっさり断られて、父はどんな顔をしたのだろう?
研究院の上層部にまで働きかけて、強引に実現させた婚姻である。簡単に破談にするわけにはいかない。そもそも破談にしたところで、レオルを喜ばせるだけなのだ。「持参金を受け取れ」と圧力をかけるというのも、いかにも妙な話である。
「……そうでしたか」
そう言った声には、少し笑いが滲んでいたかもしれない。この風変わりな夫に困惑している父の姿を思い浮かべると、妙に愉快だった。
しかし、面白がってばかりもいられない。リディアは家計簿へ目を落とした。
「それはそれとして、生活はどうしましょう?」
リディアが言うと、レオルも帳簿を覗き込んできた。
「それはたしかに問題だ」
意見が一致したところで、お金が増えるわけではなかった。
◇
領収書の束をもう一度確かめていると、洗濯屋への支払い記録が見つかった。
毎月同じ名前が書かれている。マルタという女性らしい。
ところが、先月分の領収書が見当たらない。
リディアは再び、そそくさと研究室に向かう。
「洗濯屋さんには、もう頼んでいらっしゃらないのですか?」
レオルは支払い記録を覗き込んだ。
「しばらく止めている。結婚すると、何かと金が要ると聞いたからな」
「どなたに?」
「伯爵家の事務官だ。妻を迎えるには支度が必要だと」
リディアは、先ほど整理した領収書を思い出した。
洗濯屋への支払いまで止めて、自分を迎える支度をしていたらしい。
「それでは、お洗濯はどうなさるおつもりだったのです?」
「忘れていた」
予想どおりの答えである。
どうやら、そこで彼の結婚準備は終わっていたようだ。
「とりあえず当面は、私が何とかしますわ」
「そうか、頼もしいな」
「ええ、お任せください。……それと、研究資材の費用ですが」
リディアは帳簿を見せる。
どう言うべきか一瞬迷ったが、ことさら事務的な口調を意識した。
「先月から購入を控えていらっしゃるようですが、今後はどうなさるおつもりですか?」
レオルは数字を見ると、初めて少し真剣な顔になった。
「必要なものは買うつもりだ。特に、この魔石は変換効率の試験に使う。代替品では誤差が出る」
「今月も必要ですの?」
「いや、まだ使い残りがある」
「でしたら、今月は生活費を優先なさってください」
彼は帳簿を見た。
「君が管理してくれるのか?」
「ええ。よろしければ」
「助かる。細かい計算は面倒でな」
「ただし、研究費を勝手に削ったりはしません。相談します」
「そうしてくれ」
話は妙にすんなりまとまった。
リディアは拍子抜けした。父なら、家の金の使い道に口を出すなと言っただろう。以前の婚約者なら、妻が数字を理解しているかどうかから疑ったかもしれない。
この男は、こちらが家計の管理を引き受けると言うと、あっさり任せてしまった。
リディアのことを信用してくれているのか。面倒事が減って喜んでいるだけなのか――。
やはり、よく分からなかった。
◇
夕方になって、リディアは小銭を持って街へ出た。
近くのパン屋で黒パンを買い、食料品店でチーズと生ハムを選んだ。
店の主人はリディアの身なりを見ても、特にかしこまることはなかった。学術都市のリュンベルクは、ほかの街ほど身分に頓着しないのだ。値段を尋ねれば気さくに答え、もっとお得な品まで教えてくれる。
リディアは店主の勧めにうなずきながらも、内心で首をかしげていた。値段はわかっても、その食材をどう料理すればいいのかよくわからない。結局、火を使わずに食べられるものばかり買ってしまった。
屋敷に戻り、テーブルにパンとチーズと生ハムを並べる。黒パンの皮を割ると、香ばしい匂いがした。淡い黄色のチーズは塩気が強い。生ハムは少し分厚く切りすぎたかもしれない。
切って並べただけだが、それなりの朝食らしく見えた。これは夕食だが。
レオルを呼ぶと、彼は意外と素直に席についた。
リディアがまじまじと見つめると、レオルは首をかしげて問いかけてくる。
「何か問題でも?」
「錠剤で済ませるのではありませんでしたか」
「食事があるなら食べる」
リディアは思わず笑いそうになった。
どうやら、この人は、錠剤に対して特別なこだわりがあるわけでもないらしい。食事があれば食べるし、なければ錠剤を飲む。ただそれだけのことなのだ。
パンをかじりながら、レオルは「うまいな」と言った。
「もう料理を覚えたのか」
「買ってきただけです」
「そうなのか」
「ええ」
「良い店を見つけたな」
褒められているのだろうか。
リディアには分からなかった。
それでも、彼の前にもう一切れパンを置くと、レオルは「ありがとう」と言って手に取った。貧相で素っ気なく、妙に穏やかな食事だった。
レオルが席を立つ前に、リディアは声をかけた。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「何だ?」
「私たちは、これからも寝室を別々に使うのですか」
「そのつもりだが」
「……なぜですか?」
尋ねてから、リディアは自分の声が少し硬くなっていることに気がついた。
そんなリディアの様子には頓着せず、レオルはごく普通の調子で答えた。
「君は、自分で望んでここに嫁いできたわけではないだろう。私も望んで結婚したわけではない。無理に寝室を一緒にする理由はないと思うが」
リディアは言葉を失った。
レオルの言っていることは何一つとして間違っていない。リディア自身、内心で痛いほど思っていたことだ。しかし、いざ言葉にされてみると、なぜか常識を壊された気がした。
「……では、今後も私の部屋は、私が自由に使ってよろしいのですね」
「ああ。何か足りないものがあれば言ってくれ」
「分かりました」
昨日の晩、扉の外の物音に耳を澄ませていたことが、急に恥ずかしくなった。
少なくとも、この人は自分が望んでここへ来たわけではないと知っている。それはありがたい。
ただ、こんなに簡単に話を済まされてしまうと、やはり少し拍子抜けするのだった。
◇
食器を片づけ終えた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
廊下の向こうで、紙をめくる音がする。
居間を覗くと、レオルは窓際の古い肘掛け椅子に座っていた。小机には分厚い本とコーヒーカップ、コーヒーポットが置いてある。
深みのある、香ばしい匂いがした。自分でコーヒーを淹れることはできるらしい。
「それはコーヒーですか?」
「ああ」
「砂糖などをお持ちしますか?」
「このままでいい。君は君で好きに過ごしてくれて構わないぞ」
レオルはそう言って一口飲むと、本に目を戻した。屋敷の窓枠は傷んでいたし、椅子の肘掛けも擦り切れている。それなのに、彼はずいぶん満足げな様子だった。
リディアはそんな彼を尻目に、台所へ戻った。まだやるべきことが残っている。
たった二人分の簡単な食事でも、買い物、準備、後片づけと仕事が続く。その上、掃除や洗濯は手つかずだし、明日使う水も汲まなければならない。
屋敷の管理なら教わってきた。使用人の仕事を割り振り、費用を計算し、出来栄えを確認することなら、自信がある。
しかし、肝心の割り振る相手がいない。
自分自身にすべての仕事を割り振ったら、いったい何時間かかるのだろう。
リディアは台所の窓から、坂の下へ続く道を眺めた。夕方に通ったその道の先には、共同井戸があった。桶を持って行き交う女性の姿を何人も見かけたものだ。
この街の人々は、毎日の暮らしをどうやって営んでいるのだろう。
それを知るところから始めた方がいいのかもしれない。
リディアは帳簿の余白に、明日の予定を書き加えた。
『水汲み。洗濯の方法を調べる』
伯爵家で受けた教育の中には、一度も登場しなかった項目である。
※11/7改稿報告 3話との接続位置を変更しました。内容自体に変更はありません。




