栄養失調にはならない
結婚して最初の朝、リディアは空腹で目を覚ました。
眠れない夜になるだろうと思っていたが、思いのほか疲れていたらしい。寝室は古いながらも静かで、寝具も清潔だった。窓を開けると、冷たい空気と遠くの鐘の音が入ってくる。
部屋を出て階段を下りると、足音がやけに響いた。屋敷の中はひっそりしている。新婚の朝というのは、もう少し違うものだと思っていた。
しかし、まず考えなければならないのは朝食だ。昨夜は実家で侍女が持たせてくれた菓子パンで済ませたが、今日はそうもいかない。
台所に入ったリディアは、棚を開けた。
コーヒー豆の袋。用途の分からない小瓶。茶葉らしいものが入った缶。少し硬くなったパン。小麦粉も見つかったが、これがいつからあるのか、どう使えばいいのかも分からない。
鍋や皿はある。ただし、きちんと揃っているとは言いがたかった。
リディアはパンを手に取り、首をかしげた。
パンは端が乾いていて、指先で押すとぱらぱら欠けた。実家なら、こんなものが食卓に出る前に、誰かが新しいパンを焼いていただろう。しかし、贅沢は言っていられない。
なんせ、ここの台所には、誰もいないのだ。誰も料理を作ってくれないし、今から何をすればよいのかも、誰も教えてくれない。
とりあえず湯を沸かそうとして、リディアは立ち尽くした。
そこにあるのは、昔ながらの原始的な炉だった。
薪がある。火打ち金もある。ということは、これで火をつけるのだろう。しかしリディアには、実際の使い方がよく分からなかった。
実家の台所には火の魔道具があった。魔石をセットするだけで簡単に火が点く装置だ。貴族の屋敷ではそれほど珍しいものでもないのに、ここには見当たらない――。
「何をしている?」
声に振り返ると、レオルが立っていた。
あまり寝ていないのか、目の下にうっすら隈がある。上着も昨日と同じものを羽織っているようだった。
「朝食の準備をしようと思いまして」
「朝食?」
「ええ。あなたも召し上がるでしょう?」
「ああ、そうか。君は食事をするのだったな」
リディアは眉を寄せた。
一般的な貴族令嬢は食事を取る生き物である。
「あなたは召し上がらないのですか?」
「私はこれでいい」
レオルは上着のポケットから、小さなガラス瓶を取り出した。中には白い錠剤が入っている。
「お薬……ですか?」
「似たようなものだ。栄養錠剤。必要な栄養をほぼ補える」
「それを食べるのですか?」
「食べるというより、飲むものだ」
彼は妙にまじめな調子でそう言うと、一粒を口に入れ、水を飲んだ。
「これだけで済むのですか?」
「一日に三粒だ。栄養失調にはならない」
リディアは瓶を見つめた。
結婚式はない。使用人もいない。食事まで錠剤で済ませる。
この男との生活には、いったい何が残っているのだろう。
「味は?」
「ほとんどしないな」
「食事の楽しみは?」
「食べたくなれば食べるが」
「では、普段は?」
「これで事足りる」
彼は瓶を差し出した。
「君も飲むか?」
「結構です!」
思わず強く断ってしまった。
レオルは気を悪くした様子もなく、瓶をしまった。
「それは、どちらでお求めになったのです?」
「研究院の近くの薬屋だ。研究官はわりとこの薬を利用する」
「わりと?」
王立魔法研究院には、それほど無味乾燥な人材が多いのだろうか。そう思って尋ねると、レオルは少し計算するような顔つきになった。
「私の知っている範囲では、ほかに三人ほど利用している」
「ごく一部ではありませんか!」
「言われてみれば、そうかもしれない」
少し頭が痛くなってきたが、リディアは気を取り直して質問を続ける。
「おいくらですの?」
「ひと瓶で金貨一枚程度だ」
「金貨一枚?」
「ああ。一か月ほど持つ」
リディアは反射的に計算した。
金貨一枚は銀貨二十枚。決して安い金額ではない。
しかし、料理人を雇えば、最低でもひと月に銀貨十五枚はかかる。食材費や燃料費も別途必要だ。
一人暮らしの研究者が、食事の支度に手間や時間を費やさずに済むことを考えれば、合理的な支出と言えないこともなかった。
しかし、だからといって、そんな食生活を受け入れられるはずもない。
「ずいぶん高くありませんか?」
「安くはないな」
「それなのに、なぜお買いになるのです?」
「食事を用意する時間も人も要らないからだ」
「……」
レオルは当然のことのように答えた。
たしかに、彼一人ならそれでもよかったのかもしれない。だが、今は事情が違う。
「ですが、今後は私もおりますのよ」
「ああ」
「私までそれを飲めば、ひと月に金貨二枚になります」
「君は飲まないのだろう?」
「飲みません!」
思わず力説してしまったが、そういう問題ではない。
「でも、私だけ普通の食事をするなら、別に食材を買わなければなりませんでしょう?」
「そうだな」
「それでしたら、二人分まとめて作った方が安上がりです。手間だって、それほど変わりません……たぶん」
誰かがそんなことを言っていた気がする。
その程度の曖昧な根拠に語尾が萎んだが、レオルは「なるほど」とうなずいた。
リディアはかえって調子が狂ってしまう。
しかし、いくら栄養錠剤が便利だろうと、毎日味のしない薬だけ飲んで暮らすなど、リディアには到底考えられない。料理人を雇えないなら、自分で作るしかないだろう。この夫を当てにできないことはたしかだった。
「私が料理を覚えます」
「そうか。それは助かるな」
礼を言われたのに、少しも勝った気がしなかった。
彼はそれで話が済んだと判断したらしく、研究室に戻ってしまった。
残されたリディアは、手に握ったままだった硬いパンを見つめる。
レオルに炉の使い方を聞けばよかったと気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。
◇
その日の午前中、リディアは家計を調べることにした。
せめて数字の話なら、自分にも分かる。
書斎には帳簿が一冊あった。収入と支出が品目ごとに記録されており、金額もきちんと計算されている。
ただし、最後に記入された日付は三か月前だった。
その後の領収書は、紐で適当に束ねられている。日付の順にもなっていない。
「レオル様、家計簿が三か月前で止まっていますけれど」
研究室の扉越しに尋ねると、しばらくして返事がした。
「ああ、まとめてつけることにしている」
「いつおつけになるのです?」
「領収書が溜まったらだな」
「もう十分溜まっていると思いますけれど」
「まだ大丈夫だ」
「……そうですか?」
本人としては、そういう認識らしい。
リディアは書斎に戻ると机を片づけ、領収書を日付順に並べた。その後で、まずは帳簿に記録された収入と支出を確かめていく。
王立魔法研究院からの給与は月に金貨六枚。家屋はシェーンブルグ家の所有なので家賃はかからない。下級貴族の俸給としては悪くない。
支出はまず、栄養錠剤に一枚。そのほかに燃料代、税の積立、屋敷の修繕、衣服の補修、日用品……。さまざまな項目が並ぶが、どれも貴族としては控えめな数字だ。
なんだ、意外と余裕があるじゃないか。
そう思いかけて、リディアは目を見張った。
個人的な研究資材として、月におよそ金貨三枚。魔石や金属部品だけでなく、用途の分からない材料まで、さまざまなものを購入している。
しかも、魔石をまとめて買う月には収支が赤字になっている。そのときは以前の貯えを取り崩していた。
年間を通してみると、赤字にはなっていない。しかし、ほとんど貯蓄のない生活をしていた。
「独身の男性貴族ってこういうものなのかしら? ……いえ、そんなはずないわよね」
リディアはため息をつき、今度は直近の領収書を整理して記入していく。
そこでリディアは、妙なことに気づいた。
研究資材の支出が、先月から急に減っているのだ。毎月のように購入していた魔石も、今月はほとんど買っていない。
その代わりに、見慣れない支払いがいくつかあった。
寝具の新調、家具の修繕、部屋の清掃……。
どれも、今回の縁談が決まったあとの日付だった。
リディアは、二階に用意されていた自分の寝室を思い出した。古いながらも、きちんと整えられた部屋。寝具も清潔で、家具も不自由なく使えている。
どうやらレオルは、研究費を抑えて、自分を迎える支度をしていたらしい。
これでは新しい使用人を雇う余裕などない。特に今月は、明確に赤字が出ている。
「……たしかに結婚式どころじゃないわね。何の慰めにもならないけど」




