結婚式は必要ない
レオル・シェーンブルグは、リディアを玄関に招き入れた後、思い出したように自分も名乗った。
それから馬車の荷物をどうするか尋ね、御者が下ろすと分かると「そうか」と言って廊下の奥へ歩き始めた。どうやら案内をしているつもりらしい。
「あの、レオル様」
「何だ?」
「まずは、お越しくださってありがとう、などとおっしゃるところではありませんか?」
彼は足を止めた。
「ここまで来るのは大変だったか?」
「ええ、まあ」
「それはご苦労だった」
言われたとおりに礼を述べる男を見て、リディアは返答に窮した。
この屋敷に来てまだ五分と経っていないのに、すでに実家へ帰りたくなっていた。
客間に通されたリディアは、まず窓の曇りに気づいた。床はそれほど汚れていなかったが、それは最近掃除したからというより、あまり人が入らないために見えた。
長椅子の上には何冊もの本が積まれ、卓上には見慣れない金属の輪が置かれている。
「これは何ですの?」
「魔力の流れを測る道具だ」
「どうして客間に?」
「昨日ここで使ったからだ」
明快な説明である。なぜ客間でそんなことをしていたのかは不明だが。
レオルは本の山から一冊を引き抜き、そこに挟まっていた封書を取り出した。
「そろそろ役所の人間が来るはずだ。婚姻の書類はそのときに署名すればいいらしい」
「役所の方が?」
「そう聞いている」
「では、式の準備はどちらで?」
「式?」
リディアは、椅子に座りかけた姿勢で止まった。
「結婚式ですわ」
「ああ。必要ないと思うが」
「……必要ない?」
「婚姻登録を済ませれば、法律上の問題はない。あえて人を集める理由があるか?」
「理由って……結婚式ですわよ?」
「それは分かっている」
「分かっていらっしゃらないでしょう!」
つい声が大きくなった。
レオルは少し驚いた様子で、リディアの顔を眺めた。
「君は式を挙げたいのか?」
そう問われると、リディアは返答に詰まった。
挙げたいかといえば、挙げたかった。幼い頃から、結婚式は人生の節目だと思っていた。花や音楽で彩られた大広間。親族や友人からの祝福。新しい家に迎えられるという儀礼……。そのための作法も、何年もかけて学んできたのだ。
だが、今この男と、参列者から同情を受けながら、盛大に式を挙げたいかと言えば――。
「それは……相応の儀礼というものがあるでしょう」
「相応の儀礼をするには金が必要だ」
「当然です」
「この屋敷を見て、金があると思うか?」
リディアは押し黙った。
窓の外には、手入れのされていない庭が広がっていた。今にも外れそうな雨樋も見える。たしかに、お金があるようには見えない。
だが、そういうことではない。リディアとて、父が見送りにすら出なかった時点で、華やかな結婚式など望めないことは薄々分かっていた。
それでも、少しは申し訳なさそうに言ってほしかった。リディアにとっては結婚式が大切なものであることを、せめて理解しようとしてほしかった。
「……もう結構です」
「それならよかった」
彼は封書を机に戻した。
これで話は終わりらしい。
リディアは、自分がずいぶん遠くへ嫁いできてしまった気がした。
◇
間もなく、役所の書記と婚姻手続きの証人がやって来た。証人は研究院の事務官で、レオルとは仕事上の付き合いがあるという。
書類の文面に不当な条件がないことを確認し、リディアは署名した。少なくとも今回は、自分名義の財産を勝手に処分されるような条項はなかった。
レオルも署名した。腹が立つほど達筆だった。「シェーンブルグ」というやけに立派な家名も、もはや皮肉にしか思えない。
彼は相変わらず、古びた上着を着ており、リディアだけが着飾った格好をしている。婚姻の届けに署名するときくらい、せめてそれらしい格好をしてくれないものか。
二人が署名すると、書記は咳払いをし、祝辞を述べた。研究院の事務官も「おめでとうございます」と言った。
レオルは礼を返した。リディアも微笑み、たおやかに頭を下げた。
そして、それで終わりだった。
音楽もなければ、結婚指輪もない。祝福してくれる親族もいない。
長年夢見てきた結婚の儀礼は、役所の人間が書類を鞄にしまう音とともに終わった。
◇
客が帰ったあと、レオルは研究室に戻ろうとした。
「少しお待ちください」
「まだ何かあるのか?」
「これから夫婦として生活するのですから、色々お話ししておかないといけないでしょう?」
「そうだったな。失念していた」
意外にも、彼はすぐ椅子に座り直した。
リディアはそっと息をつく。何もかも不愉快ではあるが、会話に応じるだけの意思はあるらしい。
「まず、私は屋敷のどこを使えばよろしいのでしょう」
「空いている部屋は好きに使ってくれ」
「では、家計や使用人の管理は?」
「君がやりたければ任せる」
「私の交友関係について、何かお考えは?」
「私に報告する必要はないだろう」
「外出するときも?」
「出かけるのは君だ。私ではない」
レオルの答えは、どれもひどく簡潔だった。
リディアは奇妙な感覚を覚えた。結婚相手としてこれほど頼りない男も珍しいだろう。しかし、父や以前の婚約者とは違い、こちらの行動を逐一管理しようとする気配もなかった。
「それでは、あなたのご希望は何ですの?」
「研究を邪魔しないでもらえると助かる」
「ほかには?」
「今のところないな」
「……私には何もお望みにならないのですか」
「何かしてほしいことができたら頼む」
軽く言われて、リディアは妙に腹が立った。
妻になったばかりの人間に対して、もう少し言うことはないのだろうか。この男は、リディアのことを、屋敷に迷い込んだ猫くらいにしか考えていない気がする。
しかし、同時に安堵している自分もいた。少なくとも、この男の機嫌をうかがい続ける暮らしにはならなさそうだった。
「それから、寝室のことですが」
勇気を出して切り出すと、レオルは「ああ」とうなずいた。
「二階の南側に一部屋空いている。寝具も置いてある」
「……それは、私の部屋ですの?」
「そうだ。明るい部屋の方がいいかと思った」
「あなたは?」
「一階の研究室の隣で寝ている」
「それで、よろしいのですか」
「何が?」
リディアは顔が熱くなるのを感じた。
「いえ……その……」
「部屋が気に入らないなら変えよう。ほかにも空いている」
「そこで結構です!」
彼は承知したという顔で立ち上がった。
これ以上話を続ければ、何を尋ねても自分だけが困ることになりそうだった。
リディアにあてがわれた部屋は、屋敷の外観から予想したより悪くなかった。家具は古いが頑丈で、窓からは街並みがよく見えた。寝具もきちんと用意されており、清潔だ。
よかった。少なくとも、寝る場所はある。
リディアは荷物を運び込んでもらおうと思い、廊下に出た。
しかし、誰もいない。
一階に下り、玄関の方も覗いた。台所の奥まで歩いたが、人の気配がない。
研究室らしい扉を見つけると、軽く叩いた。
「何だ?」
「使用人の方は、どちらにいらっしゃるのでしょうか」
「使用人?」
「ええ。執事でも、侍女でも、料理人でも。どなたにお願いすればよいのか分からなくて」
「いないが」
リディアは言葉の意味をしばらく考えた。
「……今日はお休みなのですか?」
「いや、雇っていない」
「お一人も?」
「一人も」
「では、掃除やお料理は、これまでどなたが?」
「必要に応じて外に頼んでいた。あとは自分で何とかしていたな」
何とかしていた、という言葉に、リディアは手入れの行き届いていない屋敷の様子を思い浮かべた。何ともなっていないように思える。
「ご結婚されるのですから、せめて一人くらいは必要ではありませんか?」
「君が必要だと思うなら考えよう。ただし、それにも金がかかるぞ」
「またお金の話ですか!」
「またお金の話だ」
なんて家に嫁いでしまったのだろう……!
目の前が暗くなりかけるリディアをよそに、レオルは再び机に向かおうとした。
しかし、ふと思い出したようにこちらを見た。
「荷物は二階まで運んでおいた。君の寝室の隣だ。箱が三つあったが、合っているか?」
「……ええ」
「ならよかった」
扉が閉まった。
リディアは廊下を引き返し、レオルの言っていた部屋を確かめた。たしかに、馬車から下ろされた箱は、そこにきちんと並んでいた。
気が利くのか、利かないのか。
よく分からない。
ただ、一つだけはっきりしたことがあった。
伯爵令嬢として育った自分は、今日から、使用人の一人もいない屋敷の奥方なのである。
その晩、リディアは持参した菓子パンで夕食を済ませ、用意された寝室で寝支度を整えた。
夜着に替えて髪をほどき、扉の内側に鍵があるのを確かめる。鍵をかけるべきか迷ったが、結局そのままにした。
夫婦になったのだ、と改めて思う。
相手は今日初めて会った、一回り以上も年上の男である。
別々の寝室を与えられたとはいえ、今夜、夫がこちらへ来ないとは限らない。来たらどうするのか。断れるのか。断ったら、その後の暮らしはいったいどうなるのか――。
そんなことを考えているうちに、階下で扉の閉まる音がした。レオルだろう。
しばらく耳を澄ませてみたが、階段を上がってくる足音はない。
どうやら、彼は寝室を訪ねてこないらしい。
リディアはほっとして、掛布団を引き上げた。
望んで嫁いできたわけではない。何も起きないことは、ありがたいことだ。それは間違いなく本心だったが、居所が定まらないような後ろめたさもあった。
ベッド横のテーブルには、魔道具のランプが置かれていた。ランプシェード越しに、淡い光が部屋を照らしている。
実家にも、同じようなランプが枕元に置かれていた。寝る前になると、侍女がそれを消しに来たものだ。
リディアは手を伸ばして自分で灯りを消し、暗くなった部屋で掛布団を引き上げ直す。
寝室に誰も来ないことは、ありがたい。
けれど、今夜は誰からも、「おやすみなさい」とさえ言われなかった。




