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伯爵令嬢リディアの魔道具商売 ~望まぬ結婚をしたら、夫から洗濯機をもらいました~  作者: 長月


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2/11

結婚式は必要ない

 レオル・シェーンブルグは、リディアを玄関に招き入れた後、思い出したように自分も名乗った。


 それから馬車の荷物をどうするか尋ね、御者が下ろすと分かると「そうか」と言って廊下の奥へ歩き始めた。どうやら案内をしているつもりらしい。


「あの、レオル様」

「何だ?」

「まずは、お越しくださってありがとう、などとおっしゃるところではありませんか?」


 彼は足を止めた。


「ここまで来るのは大変だったか?」

「ええ、まあ」

「それはご苦労だった」


 言われたとおりに礼を述べる男を見て、リディアは返答に窮した。

 この屋敷に来てまだ五分と経っていないのに、すでに実家へ帰りたくなっていた。


 客間に通されたリディアは、まず窓の曇りに気づいた。床はそれほど汚れていなかったが、それは最近掃除したからというより、あまり人が入らないために見えた。

 長椅子の上には何冊もの本が積まれ、卓上には見慣れない金属の輪が置かれている。


「これは何ですの?」

「魔力の流れを測る道具だ」

「どうして客間に?」

「昨日ここで使ったからだ」


 明快な説明である。なぜ客間でそんなことをしていたのかは不明だが。

 レオルは本の山から一冊を引き抜き、そこに挟まっていた封書を取り出した。


「そろそろ役所の人間が来るはずだ。婚姻の書類はそのときに署名すればいいらしい」

「役所の方が?」

「そう聞いている」

「では、式の準備はどちらで?」

「式?」


 リディアは、椅子に座りかけた姿勢で止まった。


「結婚式ですわ」

「ああ。必要ないと思うが」

「……必要ない?」

「婚姻登録を済ませれば、法律上の問題はない。あえて人を集める理由があるか?」

「理由って……結婚式ですわよ?」

「それは分かっている」

「分かっていらっしゃらないでしょう!」


 つい声が大きくなった。

 レオルは少し驚いた様子で、リディアの顔を眺めた。


「君は式を挙げたいのか?」


 そう問われると、リディアは返答に詰まった。


 挙げたいかといえば、挙げたかった。幼い頃から、結婚式は人生の節目だと思っていた。花や音楽で彩られた大広間。親族や友人からの祝福。新しい家に迎えられるという儀礼……。そのための作法も、何年もかけて学んできたのだ。


 だが、今この男と、参列者から同情を受けながら、盛大に式を挙げたいかと言えば――。


「それは……相応の儀礼というものがあるでしょう」

「相応の儀礼をするには金が必要だ」

「当然です」

「この屋敷を見て、金があると思うか?」


 リディアは押し黙った。

 窓の外には、手入れのされていない庭が広がっていた。今にも外れそうな雨樋(あまどい)も見える。たしかに、お金があるようには見えない。


 だが、そういうことではない。リディアとて、父が見送りにすら出なかった時点で、華やかな結婚式など望めないことは薄々分かっていた。


 それでも、少しは申し訳なさそうに言ってほしかった。リディアにとっては結婚式が大切なものであることを、せめて理解しようとしてほしかった。


「……もう結構です」

「それならよかった」


 彼は封書を机に戻した。

 これで話は終わりらしい。


 リディアは、自分がずいぶん遠くへ嫁いできてしまった気がした。


◇


 間もなく、役所の書記と婚姻手続きの証人がやって来た。証人は研究院の事務官で、レオルとは仕事上の付き合いがあるという。


 書類の文面に不当な条件がないことを確認し、リディアは署名した。少なくとも今回は、自分名義の財産を勝手に処分されるような条項はなかった。


 レオルも署名した。腹が立つほど達筆だった。「シェーンブルグ」というやけに立派な家名も、もはや皮肉にしか思えない。


 彼は相変わらず、古びた上着を着ており、リディアだけが着飾った格好をしている。婚姻の届けに署名するときくらい、せめてそれらしい格好をしてくれないものか。


 二人が署名すると、書記は咳払いをし、祝辞を述べた。研究院の事務官も「おめでとうございます」と言った。


 レオルは礼を返した。リディアも微笑み、たおやかに頭を下げた。


 そして、それで終わりだった。


 音楽もなければ、結婚指輪もない。祝福してくれる親族もいない。


 長年夢見てきた結婚の儀礼は、役所の人間が書類を鞄にしまう音とともに終わった。


◇


 客が帰ったあと、レオルは研究室に戻ろうとした。


「少しお待ちください」

「まだ何かあるのか?」

「これから夫婦として生活するのですから、色々お話ししておかないといけないでしょう?」

「そうだったな。失念していた」


 意外にも、彼はすぐ椅子に座り直した。

 リディアはそっと息をつく。何もかも不愉快ではあるが、会話に応じるだけの意思はあるらしい。


「まず、私は屋敷のどこを使えばよろしいのでしょう」

「空いている部屋は好きに使ってくれ」

「では、家計や使用人の管理は?」

「君がやりたければ任せる」

「私の交友関係について、何かお考えは?」

「私に報告する必要はないだろう」

「外出するときも?」

「出かけるのは君だ。私ではない」


 レオルの答えは、どれもひどく簡潔だった。


 リディアは奇妙な感覚を覚えた。結婚相手としてこれほど頼りない男も珍しいだろう。しかし、父や以前の婚約者とは違い、こちらの行動を逐一管理しようとする気配もなかった。


「それでは、あなたのご希望は何ですの?」

「研究を邪魔しないでもらえると助かる」

「ほかには?」

「今のところないな」

「……私には何もお望みにならないのですか」

「何かしてほしいことができたら頼む」


 軽く言われて、リディアは妙に腹が立った。


 妻になったばかりの人間に対して、もう少し言うことはないのだろうか。この男は、リディアのことを、屋敷に迷い込んだ猫くらいにしか考えていない気がする。


 しかし、同時に安堵している自分もいた。少なくとも、この男の機嫌をうかがい続ける暮らしにはならなさそうだった。


「それから、寝室のことですが」


 勇気を出して切り出すと、レオルは「ああ」とうなずいた。


「二階の南側に一部屋空いている。寝具も置いてある」

「……それは、私の部屋ですの?」

「そうだ。明るい部屋の方がいいかと思った」

「あなたは?」

「一階の研究室の隣で寝ている」

「それで、よろしいのですか」

「何が?」


 リディアは顔が熱くなるのを感じた。


「いえ……その……」

「部屋が気に入らないなら変えよう。ほかにも空いている」

「そこで結構です!」


 彼は承知したという顔で立ち上がった。

 これ以上話を続ければ、何を尋ねても自分だけが困ることになりそうだった。


 リディアにあてがわれた部屋は、屋敷の外観から予想したより悪くなかった。家具は古いが頑丈で、窓からは街並みがよく見えた。寝具もきちんと用意されており、清潔だ。


 よかった。少なくとも、寝る場所はある。


 リディアは荷物を運び込んでもらおうと思い、廊下に出た。


 しかし、誰もいない。

 一階に下り、玄関の方も覗いた。台所の奥まで歩いたが、人の気配がない。


 研究室らしい扉を見つけると、軽く叩いた。


「何だ?」

「使用人の方は、どちらにいらっしゃるのでしょうか」

「使用人?」

「ええ。執事でも、侍女でも、料理人でも。どなたにお願いすればよいのか分からなくて」

「いないが」


 リディアは言葉の意味をしばらく考えた。


「……今日はお休みなのですか?」

「いや、雇っていない」

「お一人も?」

「一人も」

「では、掃除やお料理は、これまでどなたが?」

「必要に応じて外に頼んでいた。あとは自分で何とかしていたな」


 何とかしていた、という言葉に、リディアは手入れの行き届いていない屋敷の様子を思い浮かべた。何ともなっていないように思える。


「ご結婚されるのですから、せめて一人くらいは必要ではありませんか?」

「君が必要だと思うなら考えよう。ただし、それにも金がかかるぞ」

「またお金の話ですか!」

「またお金の話だ」


 なんて家に嫁いでしまったのだろう……!

 

 目の前が暗くなりかけるリディアをよそに、レオルは再び机に向かおうとした。

 しかし、ふと思い出したようにこちらを見た。


「荷物は二階まで運んでおいた。君の寝室の隣だ。箱が三つあったが、合っているか?」

「……ええ」

「ならよかった」


 扉が閉まった。


 リディアは廊下を引き返し、レオルの言っていた部屋を確かめた。たしかに、馬車から下ろされた箱は、そこにきちんと並んでいた。


 気が利くのか、利かないのか。

 よく分からない。


 ただ、一つだけはっきりしたことがあった。

 伯爵令嬢として育った自分は、今日から、使用人の一人もいない屋敷の奥方なのである。


 その晩、リディアは持参した菓子パンで夕食を済ませ、用意された寝室で寝支度を整えた。

 夜着に替えて髪をほどき、扉の内側に鍵があるのを確かめる。鍵をかけるべきか迷ったが、結局そのままにした。


 夫婦になったのだ、と改めて思う。


 相手は今日初めて会った、一回り以上も年上の男である。

 別々の寝室を与えられたとはいえ、今夜、夫がこちらへ来ないとは限らない。来たらどうするのか。断れるのか。断ったら、その後の暮らしはいったいどうなるのか――。


 そんなことを考えているうちに、階下で扉の閉まる音がした。レオルだろう。

 しばらく耳を澄ませてみたが、階段を上がってくる足音はない。


 どうやら、彼は寝室を訪ねてこないらしい。


 リディアはほっとして、掛布団を引き上げた。

 望んで嫁いできたわけではない。何も起きないことは、ありがたいことだ。それは間違いなく本心だったが、居所(いどころ)が定まらないような後ろめたさもあった。


 ベッド横のテーブルには、魔道具のランプが置かれていた。ランプシェード越しに、淡い光が部屋を照らしている。

 実家にも、同じようなランプが枕元に置かれていた。寝る前になると、侍女がそれを消しに来たものだ。


 リディアは手を伸ばして自分で灯りを消し、暗くなった部屋で掛布団を引き上げ直す。


 寝室に誰も来ないことは、ありがたい。

 けれど、今夜は誰からも、「おやすみなさい」とさえ言われなかった。



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