伯爵令嬢の末路
婚姻契約書というものは、もう少し夢のあるものであってよいのではないか。
リディア・ヴェルナーは、目の前の書類を眺めながら、そんなことを考えていた。
上質な羊皮紙、立派な封蝋、両家の紋章。外見だけなら申し分がない。問題は中身である。
「この条項は受け入れられません」
リディアが指で示したのは、婚姻後の財産管理に関する一節だった。
「母から相続した財産を含め、私の名義である個人資産について、夫に無期限の処分権を認める、とあります。夫婦であることを理由に、財産管理を委ねることはわかります。でも、それと勝手に処分してよいことは別でしょう」
向かいに座る婚約者、ラーデン侯爵家の次男ヴィクトルは、困ったように微笑んだ。
「君をないがしろにするつもりはない。夫妻の財産を一体として扱うのは、よくあることだよ」
「でしたら、私にもあなたの財産を同じ条件で処分する権利をいただけるのですか?」
微笑みが止まった。
「それとこれとは話が違う」
「どこが違うのでしょう?」
その日の交渉は、そこで終わった。
最終的に交渉が終わったのは、三週間後のことである。それも、「破談」という形で。
リディアはあれから、契約の修正案を二度提出し、いずれも父から突き返された。ヴィクトルからは、とりあえずは現状の形で婚姻契約を結んで、具体的なことは結婚後に考えればよいという手紙が来た。
「結婚後に考えるための権利を、結婚前に奪われそうになっているのが問題なのだけど」
リディアは手紙を読んで、そう独り言をこぼした。
そんなことさえ理解してくれない相手と、これから何十年も暮らすのか。考えるだけで憂鬱になった。
もっとも、リディアにもまったく落ち度がなかったとは言い切れない。
特に、二度目の交渉の席で「私の署名が欲しいのでしたら、私の意見も聞くべきです」と言ってしまったのは、少々まずかったかもしれない。侯爵家の人々は、その場で一斉に顔をしかめていた。
だが、署名とは本来、そういうものではないのか。
その疑問に答えてくれる者は、誰もいなかった。
「おまえは、家にどれほどの損害を与えたか分かっているのか!」
父であるヴェルナー伯爵は、執務室の机を叩いた。
「侯爵家との縁談が破談になったのだぞ。あちらの融資も、土地の共同事業も、すべて白紙だ!」
「私の財産を担保にする予定だったのでしょう。白紙になってよかったではありませんか」
「口を慎め!」
父の怒声に、リディアは唇を結んだ。
父の言い分も、まるで分からないわけではない。
伯爵家は決して貧乏ではないが、昔ほど豊かでもなかった。領地からの収益は減り、屋敷の財政は傾く一方だ。家の帳簿を手伝ってきたリディア自身、それはよく知っていた。
侯爵家との縁組によって資金繰りが改善することも、間違いではないだろう。
リディアとて、伯爵家の一員としての自覚はある。しかし、亡き母は、リディアが自分の裁量で使えるようにと財産を残してくれたのだ。それを何食わぬ顔で取り上げようとする侯爵家の態度は、やはり受け入れがたかった。
「おまえのために、次の嫁ぎ先を決めてやった」
父は分厚い書類を机に置いた。
リディアは、嫌な予感がした。
「レオル・シェーンブルグ。三十八歳。王立魔法研究院の三級研究官だ。シェーンブルグ家は古い家柄で、爵位こそ低いが、婚姻先としての体面は保てる」
「三十八歳?」
「年齢が問題か?」
「いいえ。ほかの点も問題になる予感がしただけです」
父は返事をしなかった。
リディアは書類を手に取った。
爵位は男爵。両親が早逝しており、家督を継いだのは十年以上前。所領はなし。研究院では長年、同じ階級にとどまっている。研究業績の欄には、難解な論文名が並んでいた。どれもリディアには何のことか分からない。
「三級研究官というのは、立派なお立場なのでしょうか」
「王立研究院の正式な職員だ」
「それは答えになってないのでは?」
「……身分も職もある。それ以上、何を望む」
どうやら、立派なお立場ではないらしい。
リディアは書類をめくり、最後のページで手を止めた。
そこには、「婚姻歴なし」と書いてあった。何度も結婚されていても困るが、三十八歳になる貴族男性が今の今まで独身だったというのも、それはそれで不安である。
「この方、どうして今まで結婚なさらなかったのでしょう」
「研究に夢中なのだろう」
「ほかに理由は?」
「変わり者だという話はある」
「どの程度?」
「噂になる程度だ」
父の言葉に、リディアはため息をついた。
父がこの縁談を持ち出した理由は、分かりやすかった。
リディアをいつまでも屋敷に置いておけば、破談の噂が繰り返し話題になる。侯爵家との関係も、硬直したままになってしまうかもしれない。
その点、古い家柄の男にリディアを嫁がせれば、伯爵家として一応の体面は整う。一方で、伯爵令嬢から一回り以上も年上の「変わり者」の男爵夫人へとリディアが転落すれば、侯爵家もある程度溜飲を下げるだろう。
要するに、厄介払いである。
リディアはいま、二十五歳。伯爵家の娘としては、そろそろ嫁ぎ遅れだと囁かれる年齢だ。
縁談がなかったわけではない。しかし、父の持ってくる話には、決まって母の遺産の扱いがついて回った。リディアが条件を確かめようとするうちに、まとまらなくなった話も多い。
これまでずっと、よい結婚をするために学び、振る舞い、努力してきた。舞踏会での立ち居振る舞いも、家政の計算も、相手の顔色を読む会話も、そのために身につけた。家の帳簿を手伝うようになったのも、いつか自分が管理する家を持つときのためだった。
その結末が、見たこともない中年研究者の妻だなんて……。
「お断りしたら?」
「次の縁談を探すつもりはない」
「では、この家に残っても?」
「おまえの今後については、自分で考えなさい」
言葉は穏やかになったが、その答えはむしろリディアを突き放すものだった。
伯爵家の跡取りとしては、すでに兄がいる。伯爵令嬢としてふさわしい生活をリディアにさせるのにも、それなりの金がかかる。厄介者扱いされるようになった彼女が、いつまでも実家に居座れるはずもなかった。
父は書類を閉じた。
「先方は承諾している」
「……どうして?」
リディアの嫌な予感はさらに高まったが、父は平然とうなずいた。
「研究院の上層部を通じて話をした。相手も、断れば後々面倒になることくらい分かるだろう」
「圧力をかけたのですか」
「娘の縁談をまとめるのは親の務めだ」
「親の務め」には、結婚する二人の意思を尊重することは含まれないらしい。
嫁入りの支度は、驚くほど簡単に済んだ。
持参できる衣装は限られ、宝飾品の大半は伯爵家に残された。母の形見の指輪と、わずかな私物を箱に詰めると、長年暮らした部屋にはほとんど自分のものがなくなった。
侍女の一人が、旅立ちの朝に泣いてくれた。リディアは泣かなかった。少なくとも、この家の人々の前では泣きたくなかった。
姿見の前で、蜂蜜色の髪をいつもどおりに編み上げる。飾り櫛は残していくが、結い方まで変える理由はない。青い目をした鏡の中の女は、少なくとも表向きには、昨日までと同じ伯爵令嬢に見えた。
馬車が門を出るとき、父は姿も見せなかった。兄とは少し会いたかったが、あいにく王都へ出払っていた。
窓から見える石畳が、やがて見慣れない道へと変わっていく。
リディアは膝の上で手を握りしめた。
悲しいというより、腹立たしかった。
自分の意見を述べただけで、どうしてこんなことになったのだろう。あの契約に署名していれば、立派な侯爵家の一員となり、社交界での地位も保証されていたはずだ。そう考えると、後悔がまったくないとは言えない。
だが、結婚してから一生、署名したことを後悔する可能性もあった。
どちらの後悔が小さいかなど、今の自分には分からない。
◇
シェーンブルグ家に着いたのはお昼過ぎだった。
その屋敷は、伯爵領のほど近くにある学術都市リュンベルクの、中心部から少し離れた場所にあった。想像していたより小さく、想像していたより古い。
石造りの二階建て。庭は庭師の手が入っているとは思えず、門扉には錆が浮いている。蔦の這う壁は趣があると言えなくもないが、どちらかと言えば修繕費の不足を感じさせた。
「……歴史がありそうなお屋敷ですね」
御者が苦しげにそう言った。今にも崩れそうな歴史である。
馬車から降りたリディアは、背筋を伸ばした。
何がどうあれ、今日から、ここが自分の家になるのだ。
ならば、まずは主人と挨拶を交わし、使用人たちに紹介してもらい、屋敷の管理状況を確かめよう。できることはあるはずだ。
御者が玄関の扉を叩いた。
返事はない。
もう一度叩くと、家の奥から物音が聞こえ、しばらくして扉が開いた。
そこに立っていたのは、背が高い瘦身の男だった。
銀灰色の髪は適当に整えられ、上着もずいぶん着古している。あまり年齢を感じさせない見た目で、顔立ちも悪くない。それだけに、もう少し身なりに気を遣えばいいのにと思わずにはいられなかった。
男はリディアを見た。続いて荷物を見た。それから、何かを思い出すように深緑の目を細めた。
「君が結婚相手か」
リディアは、作法どおりに膝を折る。
「リディア・ヴェルナーと申します。本日より、どうぞよろしくお願いいたします」
「そうか、今日だったな」
男はあっさりと言った。
リディアは、膝を折った姿勢のまま、しばらく顔を上げられなかった。
――これが後に、「洗濯貴族」と呼ばれる夫婦の出会いであった。
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