15. 金貨八枚
ファルケン子爵夫人の屋敷は、よく手入れが行き届いていた。門の金具には錆がなく、植え込みは整えられ、玄関までの道には落ち葉ひとつ見当たらない。
リディアは、もう何週間も暮らしているシェーンブルグ家の屋敷を思い出した。あちらも、磨けば見栄えのする建物なのかもしれないが、磨く人間がいないのが難点である。
屋敷を出発する際、珍しくレオルが見送りに出てきた。
どうしたのかと首をかしげたリディアに、彼は一枚の紙片を差し出してきた。
「操作の順番を書いておいた。初めて装置を使うなら、説明書きがあった方がいいだろう?」
「あっ! うっかりしてました。わざわざありがとうございます」
レオルが商談の準備まで気にかけてくれるなんて、思いもしなかった。
リディアは感激しながら紙を受け取り、目を通した。
『魔石接続確認→排水弁閉鎖→貯水→起動紋接触→洗濯開始→第一循環の後に排水……』
「……これを、子爵夫人にお渡しするのですか?」
「そのつもりだったが」
「……参考にさせていただきますわ」
不思議そうな顔をしていた夫を思い出して、リディアは小さく笑った。
「――奥様、こちらでよろしいですか」
荷車を引いた運搬人が尋ねてくる。
「ええ。中庭まで運んでください。横には倒さないようにお願いします」
「三度目ですぜ」
「大事なものですから」
運搬人は苦笑いし、もう一人とともに装置を持ち上げた。
中庭には、子爵夫人に命じられた使用人たちが、何種類もの布を用意して待ち構えていた。油のついたテーブルクロス、泥のついた作業着、厚い寝具……。どれも屋敷で実際に使われているものだった。
リディアも実演用の洗濯物を持参していたが、不要だったらしい。ごまかしの利かない状況に、胸がひやりとした。
「シェーンブルグ夫人ね」
声の方を見ると、少しふくよかな体つきの、柔和な顔立ちをした女性が立っていた。
クラウディア・ファルケン子爵夫人である。夫人は穏やかな微笑みを浮かべて、リディアを見ていた。
「叔母様、こちらがリディアです」
エミリアもそばにいて、なごやかな口調で紹介してくれる。
リディアは深く礼をした。ことさら貴族としての振る舞いを気にして緊張していたが、エミリアとよく似た子爵夫人の面差しを見て、少し肩の力が抜けた。リディアは子爵夫人と丁寧に挨拶を交わし合う。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「エミリアから話を聞いて、とても楽しみにしていたわ。洗濯の魔道具なんて、初めて見ますもの。まずは拝見させていただけるかしら」
「はい、もちろんです」
「こちらでも洗濯物を用意させましたの。普段使っているもので試した方が、使用人たちにも分かりやすいでしょう?」
「ええ。その方が、実際の使い勝手も確かめていただけると思います」
子爵夫人は満足そうにうなずいた。
物腰は柔らかいが、商品についてはしっかり確かめるつもりなのが伝わってくる。
リディアは気を引き締めて、装置の使い方を説明した。
先に布を仕分けておき、水と石鹸を入れる。最後に起動紋に触れれば、洗濯開始だ。
女中頭が説明をメモに書き留めているのが見える。
説明の途中、夫人は何度も質問してきた。
「水はどのように用意するの?」
「使用人が運びます。配管などは付属しておりませんので、水場に設置することをおすすめします」
「洗い終えた布を絞るのは?」
「人の手です」
「それなら、洗濯女の仕事がなくなるわけではないのね」
「ええ。ですが、擦り洗いの大部分を省けます。厚い布ほど、その効果が大きいはずです」
「『はず』というのは、まだ確かめていないということかしら?」
夫人の言葉は穏やかだったが、その穏やかさのままに人を見切りそうな圧も感じる。
リディアは慎重に言葉を選んだ。
「実際に洗った範囲では、という意味ですわ。すべての布に使えるとは申しません」
夫人は目を細めた。
「それならよろしいわ。では、そろそろ始めてくれるかしら」
リディアは洗濯機を起動した。
水が静かに回り始め、布が中でゆっくり動く。
それを見た使用人の一人が、思わず声を漏らした。
「まあ……」
最初の試験は厚手のテーブルクロスだった。
洗い終わると、洗濯係の女中頭が布を調べた。角を広げ、汚れを確かめ、何度も指で触れる。
「きれいになっております、奥様」
「あら、本当? 私にも見せてちょうだい」
夫人はテーブルクロスを手に取り、しげしげと眺めた。その横からエミリアも覗き込んでいる。
次の試験は泥のついた作業着。こちらも、おおむねうまくいった。
しかし三度目、油のしみついた布を洗うと、汚れが少し残った。
使用人たちの間に、気まずい沈黙が流れる。
リディアは無理に取り繕わず、平静な声で説明した。
「油汚れは、先に石鹸をなじませることをおすすめします。完全に手間がなくなるわけではありません」
「なるほど。油汚れには、少し手間がかかるのね」
夫人は布を女中頭に返すと、リディアに向き直った。
「では、この装置を買ったら、具体的には何が変わるのかしら? 洗濯女たちの仕事がどれくらい楽になるのか、聞かせていただける?」
それはむしろ、リディアが待ち構えていた質問だった。手帳を開き、何度も練習した説明を始める。
「このお屋敷では、ご来客が多いことから、何人も洗濯女を雇っていらっしゃると伺いました。洗濯の多い時期には、臨時の洗濯女を雇うこともあるとか?」
「そうね」
「洗濯女一人を通年で雇えば、給金や食費などで月に銀貨二十枚ほどかかるのが相場です。こちらの装置で洗濯の手間を減らせれば、人件費も抑えられるでしょう」
夫人は少し首をかしげた。
「それは、洗濯女を一人減らせるという意味かしら?」
「水運びや仕分け、干す仕事は残りますし、洗えない布もあります。ですから、必ず一人減らせるとは申しません。けれど、三人でやっていた仕事を二人で済ませたり、臨時の洗濯女を雇わずに済んだりするかもしれません。仮に毎月銀貨十枚の人件費を削減できれば、長い目で見れば大きな価値があります」
夫人は手帳を受け取り、数字に目を通した。
「維持費はどのくらいかかるの?」
「魔石の充填が必要です。使用頻度によりますが、月に銀貨一枚か二枚を見込んでおります。長期間にわたる稼働はまだ実績がありませんので、これは夫の概算です」
「まだ実際の数字ではないのね」
「はい。申し訳ありません」
夫人は軽くうなずくと、リディアに手帳を返した。
「新しい道具には、そういう問題がありますわよね。それで、お値段はいかほど?」
「金貨八枚です」
声は震えなかった。
事前にエミリアから値段を聞いていたのだろう。夫人は驚かなかったが、即答もしなかった。
少し離れたところで、使用人たちがひそひそ話をしている。エミリアは口を挟まずに立っていた。
リディアは固唾をのんで、子爵夫人の答えをじっと待った。




