14. 貴族令嬢の商談
売りたいものがある。だから買ってくれそうな人に会いに行く。
理屈だけなら簡単だった。
しかし、リディアは、エミリア・ローゼンの屋敷の前まで来て、三度目のためらいを覚えた。
最初のためらいは、訪問を申し込む手紙を書いたとき。次は、返事が届いたとき。そして三度目の今は、門番に来訪を告げようとしている直前だ。
以前のリディアなら、友人の家を訪ねることに何のためらいもなかった。だが、今日は客として歓待されるために来たのではない。夫が作った道具を売り込もうとしているのだ。
今日リディアが身にまとっているのは、数少ない外出着だ。伯爵令嬢らしい優雅な装い。蜂蜜色の髪も久しぶりにきっちり結った。
ただ、以前と同じ装いをしても、手袋の下には洗濯で荒れた指がある。しかし、リディアは以前ほど、その指を恥ずかしいと思わなくなっていた。
ここで帰れば、何のために来たのか分からない。
リディアは気持ちに踏ん切りをつけると、門番に声を掛けた。
門番はリディアの名を聞くと、丁寧に頭を下げてくる。
リディアは背筋を伸ばし、中へ入った。
◇
応接室には花が飾られ、茶器の横には焼き菓子が並んでいた。
エミリアは以前と変わらず、柔らかい笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃい、リディア。お手紙をいただいて嬉しかったわ」
「急にお願いしてごめんなさい」
「構わないわ。あなたから相談があるなんて、珍しいことですもの」
「あら、そうだったかしら?」
「愚痴や議論なら多かったけれどね」
「もう!」
茶が運ばれ、二人はしばらく互いの近況を話した。
エミリアは次の季節の舞踏会に出席する予定で、仕立て屋に新しいドレスを頼んでいるという。
リディアは、自分も以前なら、衣装の色や宝飾品の組み合わせについて何気なく話していたことを思い出した。
かすかな引け目と羨ましさが頭をもたげる一方で、どこか不思議な心地もする。
「――それで、ご相談って何かしら?」
エミリアが本題について尋ねてきた。
リディアは我に返って姿勢を正し、手帳を取り出した。
「洗濯をする魔道具について、お話を聞いていただきたいのです」
「洗濯?」
「ええ。主人が発明いたしました」
エミリアは目を瞬かせた。
「レオル様が? ご研究の一環なの?」
「魔力の変換と制御をご研究なさっていますから、その応用ですわ」
「洗濯にまで魔法を使うのね」
「そこが面白いところです。普通の魔道具とは違うのです」
リディアは膝の上の手帳を開いた。
装置は腰高の樽ほどの大きさで、魔石を使って水を動かすこと。布を手で擦らなくても、多くの汚れを落とせること。水は運ばなければならず、繊細な布には向かないこと……。
手帳を時折見ながら、できるだけ正確に説明した。
エミリアは初め熱心に聞いていたが、次第に不思議そうな顔になっていった。
「それは、便利なの?」
「もちろんですわ!」
「ええと、洗濯は女中がしているでしょう? わざわざ魔道具を買う必要があるのかしら」
リディアは一瞬言葉に詰まった。
エミリアの疑問は、以前ならリディア自身も抱きそうなものだった。
「……女中の仕事が減ります。大きなお屋敷なら、臨時に雇う洗濯女も少なく済むかもしれません」
「そうなのね。でも、うちは今いる人たちで何とかしているわ。その魔道具の置き場所だって必要でしょう?」
エミリアは少し考えた。
「それで、おいくらするの?」
「金貨八枚を考えております」
エミリアは茶器を置いた。
「八枚?」
「ええ」
「それは、ちょっとした宝飾品より高いじゃない。我が家のシャンデリアだって、金貨十枚ほどだった気がするわ」
「毎日の仕事が楽になるのです。大きなお屋敷でしたら、一年から二年ほどで支出に見合う効果を得られると思いますわ」
「どなたが計算なさったの?」
「それは……私です」
「そう」
エミリアはじっとリディアを見た。
その視線は、前に街で会ったときと少し違っていた。心配というより、何かを見定めようとしているように見える。
「本気なのね」
「ええ」
「生活にお困りなの? もし暮らしが苦しいなら、そんなふうに商品を売り歩かなくても……」
「困っていないとは申しません。でも、お金を恵んでいただきたいわけではないのです」
リディアは、思わず強い口調になった。
エミリアが口をつぐむ。
気まずい沈黙が落ちた。
リディアは、自分がまた同じ失敗をしてしまったことを悟った。ただやんわりと否定するだけでいいところで、つい言葉を尖らせてしまう。相手は心配してくれているのに――。
「ごめんなさい。言い方がよくありませんでした」
「いいえ。私の方こそ、失礼だったわ」
エミリアは菓子皿を少し押し出した。
二人は華奢なクッキーをつまみ、お茶を飲む。
そっとティーカップを置いて、エミリアが再び口を開いた。
「でも、八枚なら私は買わないと思う。少なくとも、実際に動くところを見ないと」
「ごもっともです」
「それに、うちでは仕事を減らせても、すぐに人を辞めさせるつもりはないもの」
「ええ。そういうお屋敷には、あまり利益がないかもしれません」
言いながら、リディアは相手に売り込むより先に、売れない理由を自分が並べていることに気がついた。
使い道のないものを無理やり買ってもらっても、後で困るだけだ。そうは思っても、少し情けない気持ちになった。もっと売り文句を練習してくればよかったかもしれない。
しかし、そんなリディアを見て、エミリアは微笑んだ。
「不思議ね。昔のあなたなら、もっと強引に説得したでしょうに」
「昔の私なら、洗濯をしたこともございませんでした」
そう返すと、エミリアは少し驚き、それから笑った。
「それはそうね」
しばらく考えてから、彼女は指を一本立てた。
「私の叔母なら、興味を持つかもしれないわ」
「叔母様?」
「クラウディア・ファルケン子爵夫人よ。別邸と市内のお屋敷を行き来していて、お客様も多いの。客室用のシーツやテーブルクロスを大量に洗わせているから、いつも使用人の仕事が追いつかないとぼやいているわ」
リディアは手帳を開いた。
「その方をご紹介いただけますか?」
「紹介はできるけれど、購入していただけるかどうかは別よ。それに叔母様は、納得できないものにお金を出す方ではないわ」
「それで構いません」
「実物をお見せできる?」
「もちろんです」
答えてから、リディアは気づいた。
実物を見せるには、あの装置を屋敷まで運ぶか、子爵夫人にレオルの屋敷まで来てもらわなければならない。どちらも簡単ではない。
「……お日にちは、少々ご相談させてください」
エミリアは笑った。
「分かったわ。叔母様には、面白い発明があるとだけ伝えておきましょう」
商談というには、あまりに不確かな約束だった。
それでも、リディアは胸が弾むのを感じた。自分の提案を、誰かが別の誰かへつないでくれる。まだ諦める必要などないのだ。
帰り際、エミリアが声をかけてきた。
「リディア。次に来るときは、商売の話がなくても構わないのよ」
リディアは振り返った。
「ええ。ありがとう」
それからエミリアは、少し躊躇いがちに口を開いた。
「あなた、ちょっと変わったわね」
「そうかしら?」
「ええ。以前より、ずいぶん話しやすくなったわ」
「……それは褒め言葉ですか?」
「もちろんよ。昔のあなた、ときどき怖かったもの」
二人は声を立てて笑った。
しかし、馬車に乗るのではなく、歩いて帰る立場になったことは、やはり胸に引っかかった。
リディアは背中にエミリアの視線を感じながら、せめて背筋だけでも伸ばそうと、前を見た。
屋敷へ帰る途中、リディアは店先の看板を見た。
布地屋、製本屋、鍛冶屋。どの店も何かを売り、代わりにお金を受け取っている。
それまで当たり前だった街並みが、今日は少し違って見えた。
帰宅すると、リディアは研究室の扉を開いた。
「レオル様。洗濯機に興味を持ってくださる方が見つかるかもしれません」
「そうか」
「それで、実物をお見せしたいのですが」
「持っていくなら、魔石をいったん外しておくといい。ただ、重いぞ」
「ええ。運送屋さんにお願いするつもりです」
「それがいい」
リディアは手帳に『運搬費』と書き加えた。
研究室を出ると、リディアは廊下を歩きながら、頭の中で実演の順番を組み立てた。
まずは、普通の衣服を洗って見せる。次に、厚手の布。汚れの落ち方を比較できるよう、洗う前の状態もきちんと見せておこう。
考えることは次々に出てきた。
ひとまず、子爵夫人からの返事を待つ間に、できる準備は全部しておこう。今度はもっと上手に洗濯機の魅力を伝えなくては――!
クラウディア・ファルケン子爵夫人から招待の手紙が届いたのは、それから三日後のことだった。




