10. 魔導洗濯機の完成
その魔道具が完成したのは、雨の降る朝だった。
そのとき、リディアは台所でパンを切っていた。今では刃物を扱う手つきにも少し慣れてきた。野菜の煮込みだけでなく、肉や卵を焼くくらいなら、どうにか失敗せずに作れる。
包丁を置くと、リディアは窓の外を眺めて、ため息をついた。
朝から雨だと困る。
洗濯物が乾かないし、井戸まで行く道も滑りやすい。しかも、立て付けが悪い窓からは、雨粒が細く吹き込んでくるのだ。
「できたぞ」
背後から声がした。
振り返ると、レオルが木製の大きな樽を抱えていた。服の袖は濡れ、髪には細かい木屑がついている。
「何がですか?」
「洗濯だ」
「……あなたはまだ一枚も洗濯できていないでしょう?」
「ああ。正確には、洗濯する装置だな。『魔導洗濯機』とでも言うべきか」
「洗濯機、ですか」
リディアはパンを置き、手を拭いた。
「また実験をなさるのですか?」
「いや。今度は使えるはずだ」
「以前もそうおっしゃっていました」
「以前とは構造が違う」
「それも毎回伺っています」
レオルは少し考え、容器を床に置いた。
「使ってみればわかる」
今度の装置は、前の試作品より大きかった。お腹のあたりまである樽に、蓋と排水口がついている。側面には魔石を収める小さな箱があり、その周りを細かな術式が刻まれた金属帯が囲んでいた。
飾り気のない姿だ。高価な魔道具によくある宝石や金細工はなく、大きな酒樽を無理やり改造したように見える。
「これで動くのですか」
「水と布を入れればな」
「石鹸は?」
「要る」
「水は自分で汲まなくては?」
「当然だろう。水を生成する魔道具ではない」
「……それでは、浴室に運んでいただいても?」
「ああ」
レオルに装置を運んでもらうと、浴室の給水ポンプから桶に水を取り、洗濯機に水を満たした。次に布を仕分け、洗うものを選んだ。細かな刺繍のある衣服は、まだ怖いので除外する。
まずは普段着のシャツと布巾を入れ、レオルから渡された石鹸を加える。
「蓋を閉めて、ここの印に指を触れる。すると魔石が起動する」
レオルに言われたとおりにすると、容器の底から低い音がした。
そして、中で水が動き始めた。
最初はゆっくり。やがて一定の速さになり、ときおり流れの向きが変わる。布は水の中でほどけるように動き、絡まることがない。
「前より静かですわね」
「容器を揺らす力を減らした」
「なぜ最初からそうなさらなかったのです?」
「最初から完璧に作れるなら、実験する必要はない」
ぐうの音も出ない正論である。
しばらくして、装置が止まった。
「洗い終わりだ。あとは排水して、水を入れ直す」
「また水を入れ直すのですか?」
「不満か?」
「桶で水をいちいち入れるのも大変なのです」
「配管をつなげれば水を直接入れられるかもしれんが、すぐには用意できない」
リディアは口を尖らせたが、納得せざるをえなかった。
それに、給水ポンプと洗濯機を直接つなげてしまったら、今度はお風呂への水入れに苦慮することになる。
レオルと一緒に桶から水を入れ直すと、次の工程が始まった。
装置の中を清水が巡り、布に残った石鹸を洗い流していく。やがて動きが止まり、排水口から泡の混じった水が流れ出した。自分で布を擦る必要も、泡がなくなるまで何度も濯ぐ必要もない。
最後に布を取り出すと――汚れが落ちていた。
リディアは窓辺まで持っていき、光にかざす。
袖口の黒ずみがない。襟の汚れも、ほとんど分からない。布を広げても、裂けたところは見当たらなかった。
「……きれいですわ」
「そうだな」
「本当に、きれいになっています!」
「それならよかった」
水汲みの不満も忘れて、リディアは声を弾ませた。
濡れた布を何度も確かめる。汚れの落ち具合が信じられない。
何日もかけて洗濯の方法を覚え、冷たい水で手を荒らし、布の種類ごとに力加減を変えることまで教わった。それでも、朝から何枚も洗えば腕がだるくなった。
その仕事が今、目の前の樽ひとつで終わってしまったのだ。
「こんなに簡単になるなんて……」
「簡単かどうかは、術式を作る側の問題だな」
「洗う側にとっては簡単です!」
「ふむ……」
レオルは蓋を開け、内側の金属帯を調べ始めた。
彼にはまだ確かめたいことがあるらしい。リディアがいくら感激していても、本人は水の流れの安定性や魔石の消耗に興味を向けている。
「どうして、こんなものが作れるのです?」
リディアは思わず尋ねた。
「私が魔術師だからだが」
「それなら、ほかの魔術師の方にもできるのでしょうか」
「似たことはできるだろうな。ただ、精密に制御しなければ、魔力がすぐに尽きるし、水流が乱れる」
レオルは容器の側面を指で叩いた。
「これは少しずつ魔石から魔力を取り出し、損失を抑えながら水の流れに変えている。向きを自動で切り替える制御も、少し面倒だ」
「少し、ですか」
「ああ」
「きっと、とても難しいことなのでしょうね」
「何と比べるかによる」
リディアは、それ以上追及するのをやめた。
レオルは王立研究院の三級研究官である。本人の魔力量はそれほど強くないというし、特別な名声もない。専門家の世界でどの程度の力を持った魔術師なのか、リディアにはよく分からなかった。
それでも彼が、目の前の魔道具を自力で作り上げたことは事実だった。それはやはり、凄いことに思える。
リディアは、濡れたシャツを物干しにかけた。
雨の日でも屋根の下なら干せるが、乾くのには時間がかかる。いや、晴れの日でも干す手間は変わらない。水汲みの負担も残っている。
だからといって、魔道具の価値が減るわけではなかった。洗濯という作業のうち、最も長く、最も手の痛む部分が消えたのだから――。
レオルにとっては、手の届くところに興味深い問題があったから、解いてみただけなのかもしれない。
だが、リディアにとっては違う。朝の時間が、まるまる戻ってきたような気がするのだ。
◇
昼食には、挽き肉と葱を混ぜ込んだ卵を小鍋で焼いた。簡単なオムレツもどきである。
表面がふくらんだところで火から下ろし、切り分ける。前に焼いたときは黒くなったが、今日は黄色いままだった。
浴室に行ってレオルを呼ぶと、彼は装置を研究室へ持ち帰ろうとしていた。リディアは慌てて止める。
「それは、浴室に置いておいてください」
「まだ確認したいところがある」
「では確認が終わったら、浴室に戻してください。明日も使いたいのです」
「そうか、明日も使うのか」
「ええ、毎日!」
レオルは妙に納得した顔をした。
リディアは食卓につき、夫の皿にも料理を取り分ける。
「今日は、ずいぶん助かりました。ありがとうございます」
「何が?」
「洗濯のことです」
「ああ。うまくいってよかったな」
「私のために作ってくださったのでしょう?」
レオルは皿を見ながら考えた。
「きっかけはそうだな。途中からは水流の制御が面白くなった」
「……そうですか」
いくらでも気の利いた言い方がありそうなのに、本心を馬鹿正直に言う人である。
リディアは少しだけ唇を尖らせたが、すぐに頬が緩んでしまった。
皿の横に置いた自分の指を見る。昨日までは洗濯が済むたびに痛んだ指だった。
「それに、あの術式は、ほかにも使い道があるかもしれん」
レオルはそう言うと、卵料理を口に運んだ。
「今日は焦げていないな」
「以前の失敗を、いつまで覚えていらっしゃるのですか」
「忘れるまでだ」
リディアは呆れて、そして笑った。
◇
その日の午後、リディアは屋敷の帳簿を開いた。
マルタに洗濯に依頼していたころの支出。石鹸代。そして、自分で洗うために失っていた時間。初めて家事を覚えたころには、時間を金銭に換算する発想などなかった。
しかし、いまは少し違う。
もし、あの道具がある家とない家があったら、生活はどれほど変わるのだろう。
マルタの洗濯場を思い浮かべた。朝から積み上がる大量の衣服、何度も水を運ぶ女性たち、赤くなった手。彼女たちに洗濯機を見せたら、何と言うだろう。
あんな便利な魔道具を作れる人が、世の中にどれほどいるのだろうか。
まったく見当もつかない。
そう考えてから、リディアは机に置いた紙へ、試しに数字を書き始めた。
魔石の値段。木材と金属部品の費用。職人を雇う場合に必要な手間賃。もちろん、分からない項目ばかりである。
それでも、計算をやめる気にはなれなかった。
屋敷の外では雨が続いている。
研究室からは、レオルが何か金具をいじる音が聞こえてきた。
リディアは数字の横に大きく線を引き、しばらく考えた。
自分はこの数週間、洗濯に苦労してきた。
もしあの装置が買えるものだったら、いったいいくら払っただろう。
金貨五枚。いや、六枚でも惜しくないかもしれない。家事に時間を奪われている人間なら、なおさらである。
リディアは顔を上げた。
そして、誰もいない書斎で、思わず声に出していた。
「これ……売れるのではありませんか?」




