その6 王室専属顧問魔術師の書庫~前編~
「できるだけ奥の書庫から、何でもいいから一冊盗んで来なさい」
ディアナ王女は、まるでお茶菓子でも買ってこいと言うような気軽さで命じた。
「……奥の、書庫でございますか?」
「聞こえなかったの? 何でもいいと言ったでしょう。あなたのような魔力ゼロの役立たずでも、それくらいはできるわよね?」
にっこりと微笑む王女。
もちろん、その笑顔に優しさなど欠片もない。
「もし失敗したら……あなたの弟がどうなるか、分かっているわね?」
「……はい。承知いたしました」
私は深々と頭を下げた。
王女の命令に逆らうことなどできない。失敗すれば家族が危険にさらされるのだから。
けれど。
王宮の魔術書庫といえば、王室専属顧問魔術師が管理する場所だ。
王宮に勤める者でさえ、自由に出入りできるわけではない。ましてや、魔術師でもない私が盗みに入るなんて。
……どう考えても、捕まる未来しか見えない。
でも、捕まれば。
牢屋に入れられてしまえば、少なくとも王女の命令を聞かずに済むのではないだろうか?
もちろん、家族のことは心配だ。
それでも、毎日いつ何を命じられるか怯えながら暮らすよりは……。
いやいや、何を考えているの、私!
とにかく、今は一冊盗んで帰るしかない。
私は王宮の奥、魔術書庫へと続く廊下を歩いていた。
二番書庫は、一番書庫のさらに奥にあった。
そして、その突き当たりにも扉がある。
私は息を整えながら、一番書庫の奥へと進んだ。
王女は「できるだけ奥」と言った。
つまり、何が何でも最奥まで行けという意味ではないはず。
……ない、と思いたい。
「最初は手前から二番目くらいでいいか」
何事も、無理は禁物だ。
奥へ行きすぎて、危険な魔法に触れてしまったら大変だもの。
それに、王女は「何でもいいから一冊」と言ったのだ。だったら、適当な本を一冊持ち出せば条件は満たせる。
そう。これは盗みというより、ちょっとした借用……。
いや、やっぱり盗みだわ。
自分で自分に言い訳をしながら、私は扉のノブに手をかけた。
バチッ!
「ひゃっ!」
指先に痛みが走ったような衝撃があった。
思わず手を引っ込める。
今のは何?
扉に触れた瞬間、何かが弾けたような気がしたけれど……。
周囲を見回しても、誰もいない。
「……気のせいよね」
私は恐る恐る、もう一度ノブを握った。
今度は何も起こらない。
カチャリ。
扉は、拍子抜けするほど簡単に開いた。
中は、想像していたよりもずっと普通の書庫だった。
壁一面の本棚。整然と並べられた背表紙。中央には閲覧用の机があり、窓から差し込む光が床に四角い模様を落としている。
危険な魔法陣が床一面に描かれている、なんてこともない。
これなら、何とかなるかもしれない。
私は本棚の間を歩き、適当な一冊を引き抜いた。
分厚い革表紙の本だ。
題名は……『運命の子のすべて』。
まあ、題名なんてどうでもいい。
私は本を胸に抱え、そっと扉へ向かった。
その瞬間。
キィィィィィン!
耳をつんざくような高音が響き渡った。
「えっ!?」
書庫の壁に刻まれた紋様が、一斉に青白く光り始める。
机の上の羽根ペンが震え、本棚の奥から低い唸り声のような音が聞こえた。
な、何これ!
何もしていないのに!
……いや、本を盗もうとしているのだから、何もしていないわけではないのだけれど!
私は慌てて本を抱え直し、扉を飛び出した。
廊下の向こうから、複数の足音が聞こえてくる。
「第二書庫で警報だ!」
「侵入者か!?」
「誰か、奥へ回れ!」
まずい。まずいまずいまずい!
捕まる!
そう思った瞬間、私は反射的に廊下の奥へ走っていた。
第一書庫に戻るどころではない。今さら引き返せば、追いかけてくる人たちと鉢合わせしてしまう。
第三書庫、第四書庫、第五書庫……。
次々と扉を通り抜けて奥へ進んだ。
そのたびにドアノブから火花のような刺激を受けた。
そして、私は七番と刻まれた扉の前で足を止めた。
ここが最奥だ。
王女の命令には、これ以上ないほど忠実に従ったことになる。
問題は、中に入れるかどうかだけれど。
背後から、足音が迫ってくる。
ええい、もうどうにでもなれ!
私は扉に手をかけた。
バチッ!
また、指先に小さな衝撃が走った。
けれど、今度も扉は何の抵抗もなく開いた。
「……え?」
私は目を瞬かせた。
どうして?
簡単に開いてしまった。
まさか、この書庫の扉は全部、鍵がかかっていないのだろうか。
そんなわけないわよね。
疑問を抱えたまま中へ滑り込んだ、その直後。
「動くな」
背後から、低い声がした。
「ひっ!」
振り向くより早く、淡い光が私の身体を包み込んだ。
手足が、ぴたりと動かなくなる。
まるで見えない縄で全身を縛られたようだった。
私は抱えていた本を取り落としそうになり、必死に身体をこわばらせた。
「な、何を……!」
「それはこちらの台詞だ」
声の主は、ひとりの青年だった。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
整った顔立ちに、涼しげな目元。魔術師らしい長衣をまとい、片手をこちらに向けている。
その指先から、私を拘束する魔法の光が伸びていた。
青年は私を頭の先から足元まで眺めると、眉をひそめた。
「……魔力が、ない?」
「え?」
「いや、待て。魔力がないのに、どうやってここまで来た?」
青年の目が、私の背後にある扉へと向けられた。
「七番書庫には、魔力★11以上の最上級魔術師しか入れないセキュリティ魔法がかかっている。魔力のない人間が、正面から入れるはずがないんだが……」
(後編へつづく)




