その3 国境の将軍様
馬の背にまたがった瞬間、ベルは顔をしかめた。
「……痛い」
昨日まで侍女として働いていた私が、どうして馬に乗っているのだろう。
原因は、王女ディアナの命令だった。
――エルンハルト将軍に近づき、軍事情報を手に入れなさい。
そのために私は今朝から、急いで馬術を覚えさせられていた。
「もっと背筋を伸ばして!」
「は、はいっ!」
侍女仲間に叱られ、慌てて背筋を伸ばす。
すると、股の付け根がずきりと痛んだ。
鞍に擦れているのだ。
昨日まではアルバ侯爵様を傷つけ、今日は馬に乗って国境へ向かう。
我ながら、ひどい人生だと思う。
けれど、泣き言を言っている暇はない。
弟たちの顔が浮かんだ。
私は歯を食いしばった。
***
数時間後。
私は兵士の服を借り、国境近くの砦に立っていた。
大きな石壁。
その上には見張り台があり、鎧を身につけた兵士たちが行き交っている。
ここに千人もの兵士が駐屯しているという。
その全員を束ねているのが、エルンハルト将軍。
私は胸の奥が重くなるのを感じた。
千人を率いる将軍。
そんな人を、私はこれから騙さなければならない。
どうして私ばかり……。
俯きそうになったところで、兵士に声をかけられた。
「お前、新入りか?」
「は、はい」
「将軍がお呼びだ」
心臓が跳ねた。
***
通された執務室には、一人の男がいた。
「……何の用だ」
低い声だった。
私は思わず息を呑んだ。
窓から差し込む光の中に立つ、その人は――美しかった。
整った顔立ち。
鋭い目。
無造作にまとめられた黒髪。
鍛えられた身体は軍服の上からでもわかるほど逞しい。
けれど、華美な装飾は一切ない。
ただ静かに立っているだけなのに、近寄りがたい威圧感があった。
この人がエルンハルト将軍。
私は慌てて頭を下げた。
「本日よりこちらに配属された兵士です」
「そうか」
「はい」
「名前は?」
「ベルです」
「何の役目だ」
「……偵察を」
「そうか」
会話が終わった。
沈黙が怖い。
私は何か言わなければと思い、用意していた嘘を口にした。
「私は以前、国境付近で暮らしておりました。ですから、こちらの地理にも詳しく――」
「嘘だな」
「え?」
顔を上げる。
エルンハルト将軍は私をじっと見ていた。
「その手では、まともに剣を握ったことがない」
心臓がどくんと鳴った。
「そ、それは……」
「それに」
エルンハルト将軍が一歩近づく。
「兵士にしては、歩き方が妙に上品だ」
ぞくりとした。
全部、見られている。
私は慌てて視線を逸らした。
「申し訳ありません……」
「何を謝っている?」
「……」
言えない。
あなたを騙しに来ました。
王女様に命令されたからです。
家族を人質に取られているから。
そんなこと、言えるはずがない。
「……何でもありません」
エルンハルト将軍はしばらく私を見つめていた。
そして、ふいに視線を外した。
「そうか」
その声には、怒りよりも――何か別のものが混じっていた。
疑っている。
でも、追及するつもりはないらしい。
どうして……?
私なんかに。
私は自分でも嫌になるほど、自己評価が低かった。
私は美人でもない。
頭がいいわけでもない。
特別な才能もない。
ただ、家族を養うために王宮で働いているだけ。
そんな私が、将軍に興味を持たれるはずなんてない。
きっと気のせいだ。
そう思った、そのときだった。
「……ところで」
エルンハルト将軍が机の上に置かれていた封書を手に取った。
王家の紋章が押された、ディアナ王女からの書簡だった。
「これは王女からの命令書だな?」
「は、はい」
「お前を俺のもとへ寄越す、とある」
「……はい」
エルンハルト将軍は書簡を読みながら、わずかに眉を寄せた。
「妙だな」
「え?」
「ディアナは、俺のところへ女を寄越すような真似を、以前にも何度かしている」
「……!」
私は思わず顔を上げた。
「以前にも?」
「ああ」
エルンハルト将軍は淡々と答えた。
「俺が誰かと親しくしていると聞けば、相手の身元を調べさせる」
「…………」
「俺に縁談が持ち上がったときなど、王女本人が口を出してきたこともある」
それは……。
まるで。
まるで――。
「王女さまは……将軍のことを、お嫌いなのでは?」
「そう思うだろうな」
エルンハルト将軍は苦笑した。
「俺も最初はそう思っていた」
「では……?」
「だが、嫌っているだけなら、あそこまで俺の女関係を気にする理由がない」
ベルは目を瞬いた。
エルンハルト将軍は、どこか疲れたように息を吐く。
「俺に女ができたと聞くたびに機嫌を悪くする。
俺が王都へ行けば、誰と会ったのか尋ねる。
なのに本人に聞けば――」
少し間を置いて、
「『あんな無骨な男、誰が好きになるものですか』だ」
ベルは思わず首を傾げた。
それは……。
もしかして。
嫌いなのではなくて――。
「……王女さま、将軍のことがお好きなのでは?」
「まさか」
エルンハルト将軍は即答した。
「俺が?」
「でも……」
「ありえん」
あまりにもきっぱり言うので、ベルはそれ以上言えなくなった。
けれど、胸の中には小さな疑問が残った。
ディアナ王女。
エルンハルト将軍。
二人の間には、私の知らない何かがあるのだろうか。
それとも――。
王女様は、自分でも気づいていないだけで、この人を……?
考えていると、エルンハルト将軍が書簡から目を離した。
「それで?」
「え?」
「お前は何を命じられてここへ来た?」
心臓が跳ねた。
まただ。
この人は、私の嘘を見抜こうとしている。
「……その」
私は慌てて視線を逸らした。
「王女様から、将軍のお傍に仕えるように、と」
「そうか」
エルンハルト将軍は私をじっと見つめた。
そして――。
「ならば、王女への報告には」
片頬をわずかに歪めた。
「『怪しいところはない』と書け」
「え?」
「お前は俺を監視するために寄越されたのだろう?」
「……!」
やっぱり、この人には嘘が通じない。
私はどう答えればいいのか分からず、黙り込んだ。
そのときだった。
「――敵襲!」
砦の外から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
直後。
「敵国の軍勢です!」
怒号が飛び交った。
兵士たちが一斉に動き出す。
「将軍! 北側より敵兵が侵入!」
「兵を回せ」
「はっ!」
エルンハルト将軍は一瞬で別人のようになった。
「第一隊は北門へ。第二隊は城壁上へ。弓兵は待機!」
低く落ち着いた声が砦中に響く。
私は呆然とした。
これが……千人の兵士を率いる人。
さっきまで私を見ていた目とは違う。
迷いがない。
恐怖もない。
私はその姿に、思わず見惚れてしまった。
――格好いい。
胸が、小さく跳ねた。
その直後。
「逃げろ!」
誰かの叫び声がした。
砦の門が破られた。
敵兵が雪崩れ込んでくる。
「きゃっ!」
私は腰の剣を抜こうとした。
けれど、手が震えてうまく抜けない。
怖い。
怖い。
足が動かない。
敵兵が私に気づいた。
「いたぞ!」
「ひっ……!」
剣が振り上げられる。
私は思わず目を閉じた。
――死ぬ。
そう思った瞬間。
ガキィン!
金属音が響いた。
目を開ける。
私の目の前に、エルンハルト将軍が立っていた。
「下がれ!」
敵兵の剣を受け止め、そのまま弾き飛ばす。
そして一閃。
敵兵が倒れた。
「怪我は?」
「……ありません」
声が震えた。
エルンハルト将軍は私の顔を見つめた。
「そうか」
そして、私の腕を掴んだ。
「なら、ここにいろ」
力強い手だった。
その温もりが、妙に胸に残った。
怖かった。
なのに――この人のそばにいると、安心する。
そんな感情が、自分の中に芽生えたことに驚いた。
私は、エルンハルト将軍を見上げた。
近くで見ると、やっぱり綺麗な顔をしている。
けれど、その目は怖いくらい真っ直ぐだった。
――この人を騙したくない。
初めて、そう思った。
「将軍……」
「何だ?」
「私……」
言いかけたときだった。
エルンハルト将軍が、私の手首を見た。
侍女の仕事でできた小さな傷。
そして、兵士の服からわずかに覗く白い肌。
彼は何かに気づいたように眉を寄せた。
「……お前」
低い声。
「本当に兵士か?」
「……!」
私は息を止めた。
エルンハルト将軍は、私の顔をじっと見ている。
さっきまでの警戒とは違う。
そこには、明らかな興味があった。
「なぜ、そんな顔をする?」
「え……?」
「まるで、誰かに怯えているようだ」
胸が締めつけられた。
その瞬間。
私は悟った。
この人には、嘘が通じない。
そして――
「……家族を人質に取られているのか?」
その言葉に、私の身体が凍りついた。
どうして……。
どうして、そこまで分かるの?
エルンハルト将軍は私から目を逸らさなかった。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「やはり、そうか」
その目には――
私への、確かな興味が宿っていた。




