その2 王女様の命令
アルバ侯爵が去ってから、どれほど経っただろう。
安宿の二階に残された私は、しばらく扉を見つめていた。
胸の奥が、ずきりと痛む。
あんな顔をさせたかったわけじゃない。
それでも、仕方がなかった。
私は王宮へ戻ると、いつも通り王女宮へ向かった。
侍女としての仕事をこなし、何事もなかったように振る舞う。
そうしなければならない。
私には、家族がいるのだから。
「ベル。王女殿下がお呼びです」
同僚の侍女にそう告げられた瞬間、心臓が跳ねた。
まさか。
私は小さく息を吸い、王女の私室へ向かった。
「失礼いたします」
「入りなさい」
聞き慣れた、優しい声。
私は顔を上げた。
窓辺に立っていたのは、王女ディアナ殿下だった。
淡い金色の髪。
透き通るような白い肌。
いつ見ても美しく、気高い。
私が幼い頃から憧れていた女性。
この方に仕えることができるなら、どんな苦労も耐えられる。
そう思っていた。
「昨日の件、ご苦労でした」
「……はい?」
ディアナ殿下が振り返った。
その顔には、微笑みが浮かんでいた。
「アルバ侯爵との婚約の件です」
血の気が引いた。
どうして。
どうして殿下が、そのことを――。
「……ご存じだったのですか?」
「もちろんです」
ディアナ殿下は、まるで天気の話でもするように答えた。
「私があなたに命じたのですから」
「……」
頭の中が真っ白になった。
あの婚約も。
クロードと一緒に歩いたことも。
アルバ侯爵を傷つけたことも。
全部、この方の命令だった。
「なぜ……」
声が震えた。
「なぜ、私にあんなことをさせたのですか?」
「あなたならできると思ったからです」
「ですが……アルバ侯爵は……」
「それが何か?」
ディアナ殿下は首を傾げた。
あまりにも平然としていた。
私は言葉を失った。
私が仕えるこの方は、そんな人ではないと思っていた。
困っている者には手を差し伸べる。
身分の低い者にも優しい。
慈愛に満ちた王女。
それが、私の知っているディアナ殿下だった。
けれど。
今、目の前にいる人は違う。
「……私、アルバ侯爵を傷つけました」
「ええ」
「殿下の命令だったからです」
「ええ」
「それを……何とも思わないのですか?」
ディアナ殿下は少しだけ目を細めた。
「ベル」
「はい」
「あなたには家族がいるでしょう?」
心臓が凍った。
「……はい」
「お父上は働けない。弟妹もまだ幼い」
「……」
「あなたが王宮を辞めれば、どうなるかしら?」
それだけだった。
脅しの言葉すらなかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「……分かりました」
私は頭を下げた。
「私に、次のご命令を」
ディアナ殿下は満足そうに微笑んだ。
「話が早くて助かります」
机の上に、一枚の紙が置かれた。
「次はエルンハルト将軍です」
「……エルンハルト将軍?」
私は紙に目を落とした。
そこには、王国軍を率いる将軍の名が記されていた。
「この方に近づきなさい」
「何を……?」
「あなたなら分かるでしょう?」
ディアナ殿下は微笑んだ。
「アルバ侯爵のときと同じです」
胸の奥が冷たくなった。
「エルンハルト将軍から、軍事情報を聞き出しなさい」
「……軍事情報」
「ええ」
「それを、誰に渡すおつもりですか?」
一瞬。
ディアナ殿下の笑顔が消えた。
「あなたは、知る必要はありません」
「……」
「知れば、余計なことを考えるでしょう?」
私は唇を噛んだ。
悔しい。
怖い。
逃げたい。
けれど――。
家族の顔が浮かんだ。
怪我をした父。
まだ幼い弟と妹。
私が働かなければ、あの子たちは食べていけない。
「……承知しました」
「よろしい」
ディアナ殿下は、再び優しい笑顔を浮かべた。
その笑顔が、今は恐ろしく見える。
「期待していますよ、ベル」
「……はい」
私は深く頭を下げた。
部屋を出る。
扉が閉じた。
私は廊下の壁に背を預けた。
力が抜けそうになる。
私がずっと憧れていた王女様。
私が忠誠を誓っていた人。
その人が、アルバ侯爵を騙すよう命じた。
そして今度は、エルンハルト将軍を騙せという。
「……どうして」
小さく呟く。
答えてくれる人はいない。
それでも私は、歩き出した。
家族のために。
また誰かを騙すために。
――このときの私は、まだ知らなかった。
エルンハルト将軍との出会いが、私の運命を大きく変えることになるなんて。
そして。
私を狙っているのが、王女ディアナだけではないことも――。




