その1「婚約を破棄してください」
「何? 婚約を破棄してくれだと?」
アルバ侯爵の声を聞いた瞬間、ベルは胸の奥が重く沈むのを感じた。
「……はい」
なんとか声を絞り出す。
「なぜ?」
「申し上げられません」
言えるはずがなかった。
アルバ様を誘惑するよう命じられたことも。
婚約を結ぶよう命じられたことも。
そして今度は、自分から婚約を破棄しろと命じられたことも。
すべてを話せば、家族がどうなるか分からない。
「私が何かしたのか?」
「いいえ」
「では、なぜ婚約を破棄したい?」
「……申し訳ありません」
「謝罪が欲しいわけではない」
アルバ様の声が少し低くなった。
「理由を聞いている」
「……分かっています」
ベルは俯いた。
本当に申し訳なかった。
この人は何も悪くない。
自分を疑う理由など、何一つない。
それなのに、自分はアルバ様を騙した。
最初から恋人になりたかったわけでもない。
ただ、命令されたから近づいた。
家族を守るために。
「君から私に近づいてきたのではなかったか?」
「……はい」
「私に好意があるようなことも言った」
「……はい」
「私との婚約を喜んでいたように見えたが?」
「…………」
返事ができなかった。
あれが全部演技だったとは言えない。
嬉しかったのは本当だ。
侯爵であるアルバ様に認めてもらえたこと。
家族を養えるだけの立場を得られたこと。
そして、自分のような侍女を一人の女性として扱ってくれたこと。
ただし、それは恋ではない。
だからこそ、余計に申し訳なかった。
「……騙していました」
ベルは小さく呟いた。
「何?」
「私は、アルバ様を騙していました」
「…………」
「申し訳ありません」
「何を騙した?」
答えられない。
「ベル」
「……申し訳ありません」
「それでは分からない」
「はい」
「私を嫌っているのか?」
「いいえ」
それだけは、はっきりと言えた。
「では、私との婚約が嫌なのか?」
「……はい」
「なぜ?」
「…………」
ベルは唇を噛んだ。
嫌なのではない。
ただ、このままではいけない。
アルバ様は、自分が本当に好意を持って近づいてきた女性だと思っている。
その誤解を抱えたまま婚姻することだけは、できなかった。
「アルバ様には、もっと相応しい方がいます」
「それを君が決めるのか?」
「……そういう意味ではありません」
「ならば、誰に決められた?」
心臓が跳ねた。
「…………」
「今の沈黙は何だ?」
「何でもありません」
失敗した。
これ以上話せば、命令の存在まで知られてしまう。
そうなれば――。
父が。
弟が。
妹が。
「ベル」
アルバ様の声が、今度は少しだけ優しくなった。
「私は君を責めたいわけではない」
その言葉に、胸が痛んだ。
責めてください。
そう思った。
そのほうが、ずっと楽だった。
騙されたと怒ってくれればいい。
自分を嫌ってくれればいい。
そうすれば、アルバ様は自分から離れてくれる。
「……私を嫌ってください」
「なぜ?」
「そのほうが……」
言葉が詰まる。
「そのほうが、アルバ様のためです」
「君が私のために婚約を破棄しろと言っているのか?」
「……はい」
「随分と勝手な話だな」
「……申し訳ありません」
「またそれか」
アルバ様が小さく息を吐いた。
怒っている。
当然だ。
ベルはさらに深く頭を下げた。
「本当に……申し訳ありません」
謝ることしかできない。
家族のために、アルバ様を騙した。
そして今度は、アルバ様を傷つけてでも命令に従おうとしている。
どちらを選んでも、誰かを傷つける。
だからせめて――。
「どうか、私を捨ててください」
ベルは頭を下げたまま、目を閉じた。
これでいい。
これで、いいはずだった。




