その25 責任を負わない有能な宰相
翌日、王宮は朝から慌ただしかった。
昨夜の婚約発表会で起きた火災について、原因の調査と被害の報告が進められていたからだ。
ディアナ王女のドレスは裾が焼け焦げ、王宮の絨毯にも焦げ跡が残った。幸い、ほかに大きな怪我をした者はいなかったものの、王女が火傷を負ったのだから、ただの小火で済ませるわけにはいかない。
私は王女付きの侍女として、朝から書類を運んだり、お茶を用意したりと忙しく働いていた。
「ベル、こちらの報告書を宰相閣下の執務室へ届けてちょうだい」
「はい!」
同僚の侍女から書類を受け取り、私は宰相の執務室へ向かった。
扉の前まで来ると、中から複数の男性の声が聞こえてきた。
「まずは、火災が発生した場所と時刻を正確に記録しなさい。ドレスの保管場所から会場まで、誰が運び、誰が管理していたのかも確認すること」
イルマー宰相の声だった。
「はっ。衣装係と会場の管理担当者を呼び、事情を聴取いたします」
「それだけでは足りません。火元となり得るものが近くに置かれていなかったか、衣装に異常がなかったかも調べるのです。事故と決めつけず、可能性を一つずつ確認しなさい」
「承知いたしました」
私は扉をノックしようとして、思わず手を止めた。
なるほど。原因を調べるにも、ただ関係者に話を聞くだけでは駄目なのね。
宰相は感情的に誰かを責めることなく、必要な調査を次々と指示していた。
これなら、原因もすぐに判明するかもしれない。
私は少し感心しながら扉を叩いた。
「失礼いたします。ご報告の書類をお持ちしました」
「入れ」
中に入ると、イルマー宰相の前には数人の役人が並んでいた。机の上には、すでに複数の報告書が広げられている。
私は書類を差し出し、壁際に控えた。
「では、衣装の管理状況については、そなたが調査を担当しなさい」
宰相が一人の役人に告げた。
「はっ。しかし、衣装が燃えた原因が判明しなかった場合、どのように報告すればよろしいでしょうか」
「原因が特定できなければ、確認できた事実と、確認できなかった事項を分けて報告すればよい。推測だけで結論を出してはなりません」
「承知いたしました」
「調査の範囲については、そなたが現場の管理状況を最もよく知っているはずです。必要な人員を手配し、責任を持って進めなさい」
役人は深く頭を下げた。
宰相はさらに別の役人へと視線を移す。
「会場の備品については、こちらの担当者が調べること。衣装の調査と情報を共有し、食い違いがあれば確認しなさい」
「かしこまりました」
次々と仕事が割り振られていく。
誰が何を調べるのか。どの資料が必要なのか。何をもって調査結果とするのか。
宰相は曖昧な点を残さず、役人たちが迷わないように道筋を示していた。
やっぱり、仕事ができる方なのね。
そう思ったのだけれど。
「宰相閣下。もし衣装係の不注意が原因だった場合、処分についても私が判断するのでしょうか?」
衣装の管理を任された役人が、少し不安そうに尋ねた。
イルマー宰相は、穏やかに答えた。
「まずは事実を明らかにすることです。処分が必要かどうかは、その結果を見て判断すればよい。そなたの調査結果を踏まえ、適切に対処しましょう」
「はっ」
役人は安堵したように頭を下げた。
それからも宰相は、調査の進め方について具体的な助言を与えていた。
ところが、最終的な調査の範囲や判断を決めるのは、いつも担当する役人たちだった。
宰相は必要な情報を整理し、選択肢を示す。しかし、自ら細かな決定を下すことはない。
それでも、仕事は滞りなく進んでいく。
役人たちは指示に従って動き出し、宰相の執務室から次々と退出していった。
「これでよし。報告が届き次第、次の対応を決めましょう」
イルマー宰相は満足そうに書類を整えた。
「ありがとうございます、宰相閣下!」
役人たちは、感謝の言葉を残して去っていった。
私は空になった茶器を片付けながら、ふと考えた。
宰相は、何でもお見通しなのね。
何を調べればよいのか、どこに問題があるのか、どうすれば調査が進むのか。それを判断するのが、とても上手なのだ。
でも……。
私は昨夜の火災を思い出した。
あのときも、宰相は真っ先に周囲へ指示を出した。
自分で王女を助けに行くのではなく、ほかの人々を動かしていた。
そして今日も、調査の道筋を決めるのは宰相なのに、細かな判断は担当者に任せている。
もちろん、すべてを宰相一人で行う必要はない。むしろ、部下に仕事を任せるのは有能な上司の証なのかもしれない。
私だって、侍女の仕事を一人で全部こなせと言われたら困ってしまう。
……うん。きっとそういうことなのだろう。
「ベル、どうしたの? ぼんやりして」
隣で茶器を片付けていた侍女に声をかけられ、私は慌てて首を振った。
「何でもないわ」
「それにしても、宰相閣下は本当にお仕事が早いわね。あれだけの騒ぎがあったのに、もう調査の手配まで済ませてしまわれたのだから」
「そうね。とても有能な方だと思うわ」
私は素直に頷いた。
実際、宰相の指示は的確だった。調査が進めば、火災の原因も明らかになるだろう。
それなのに、胸の片隅に小さな疑問が残っている。
宰相は、何でも自分で判断できるほど優秀な方なのに、なぜ最後の決定だけは他人に任せるのだろう。
考えすぎかもしれない。
私はそれ以上考えるのをやめ、片付けを終えて王女のもとへ戻った。
その後、イルマー宰相は関係者からの報告を受け、王宮の混乱を手際よく収束させていった。
周囲の人々は、彼の有能さを称賛していた。
私も、そう思う。
けれど。
昨夜の火災と今日の調査。
二つの出来事を思い返すたびに、私は同じことを考えてしまうのだった。
――イルマー宰相は、他人を動かすことには長けている。
けれど、自分自身が直接動く場面は、思いのほか少ないのではないだろうか。




