その18 会いたい人~中編~
◇
その日の夕方。
私は王宮の廊下を歩いていた。
ディアナ王女から命じられた仕事を終え、ようやく自室に戻れるところだった。
今日は、ずいぶん疲れた。
早く休みたい。
そう思っていたとき。
廊下の向こうから、見覚えのある人影が現れた。
黒い軍服。
広い肩。
背筋の伸びた姿。
「……将軍?」
思わず声が漏れた。
エルンハルト将軍だった。
彼は私に気づくと、足を止めた。
「ベル?」
「ど、どうしてこちらに?」
「王宮に報告することがあってな。先ほどまで陛下に謁見していた」
「そう、だったんですね……」
会ってしまった。
会いたくないと思っていたのに。
会いたかった人に、偶然会ってしまった。
胸が苦しくなる。
「君こそ、こんな時間まで仕事か?」
「はい。王女殿下のお仕事が、少し長引いてしまって」
「そうか」
将軍は、いつものように頷いた。
けれど。
私は、ふと気づいた。
顔色が悪い。
いつもなら、もっとしっかりと前を見ているのに、今日はわずかに視線が揺れている。
それに、右手が時折、左肩のあたりに触れていた。
「……将軍?」
「何だ?」
「お体の具合が悪いのですか?」
「いや。何でもない」
即答だった。
けれど、声に少しだけ疲れが滲んでいた。
「でも……」
「本当に大したことはない。気にするな」
将軍は、そう言って歩き出そうとした。
その瞬間。
ほんのわずかに、体が傾いた。
「危ない!」
私は咄嗟に駆け寄り、彼の腕を支えた。
「将軍!」
「……っ」
将軍は驚いたように私を見下ろした。
私も驚いていた。
将軍の腕は、思っていたよりずっと熱かった。
「申し訳ない。少し、疲れが出ただけだ」
彼はすぐに姿勢を正した。
「本当に大丈夫だ。君はもう帰りなさい」
「ですが……」
「心配はいらない」
そう言って微笑む。
いつもの、落ち着いた笑顔。
でも。
その笑顔が、今日はどこか痛々しく見えた。
私は、彼の腕を支えた手を離せなかった。
「……将軍」
「何だ?」
「大丈夫だとおっしゃるなら、無理にお聞きしません」
将軍が、わずかに目を見開いた。
「ですが、せめて座って休んでください」
「いや、しかし……」
「お願いします」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
将軍はしばらく私を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……わかった」
私は近くの休憩室へ案内した。
◇
休憩室には、窓際に長椅子が置かれていた。
将軍はそこに腰を下ろすと、背もたれに体を預けた。
「すまない。君の帰りが遅くなってしまったな」
「いいえ。私も、少し休みたかったところですから」
本当は、早く帰るつもりだった。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
私は近くにあった水差しから水を注ぎ、グラスを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
将軍は水を飲んだ。
その横顔を見ていると、胸が締めつけられた。
この人は、いつも誰かを守る側にいる。
国境で兵士たちを率い、魔物と戦い、国を守る。
きっと、誰かに弱音を吐くことにも慣れていないのだろう。
「……今日は、国境から戻られたばかりなのですか?」
「いや。今日は王宮に報告があっただけだ」
「では、最近はずっとお忙しかったのですか?」
「まあな。魔物の出現が増えている。兵士たちの配置を見直さなければならない」
そう言って、将軍は肩を回した。
その動きが、途中で止まる。
やはり、痛むのだ。
私は何も言わず、彼のそばに腰を下ろした。
「ベル?」
「はい?」
「……君は、帰らなくていいのか?」
「もう少ししたら帰ります」
「そうか」
将軍は、何か言いたそうにした。
けれど、結局、何も言わなかった。
私も、無理に尋ねなかった。
ただ、彼が水を飲み終えるのを待った。
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいた。
いつもなら、こんな時間まで将軍と一緒にいることなどなかっただろう。
けれど、不思議だった。
沈黙が苦痛ではない。
何か話さなければと思うこともない。
ただ、彼がそこにいる。
それだけで、よかった。
「……ベル」
「はい」
「君は、不思議な人だな」
「えっ?」
思わず顔を上げた。
将軍は、窓の外を眺めていた。
「普通なら、面倒なことに巻き込まれたくないと思うだろう。私のような人間に関われば、余計な心配も増える」
「……」
「それなのに、君はこうして残っている」
私は、どう答えればいいのかわからなかった。
だって。
放っておけなかったから。
それだけなのだ。
将軍だからでも、英雄だからでもない。
ただ、疲れているように見えたから。
苦しそうだったから。
「……お疲れのようでしたので」
ようやく、それだけ答えた。
「それだけか?」
将軍がこちらを向いた。
真剣な眼差しだった。
私は戸惑った。
「そ、それだけと言いますか……」
「いや。すまない。困らせるつもりはなかった」
将軍は苦笑した。
その表情が、いつもの厳しい顔とは違って見えた。
私は、少しだけ笑った。
「将軍だって、疲れることくらいありますよね」
「ああ。もちろんだ」
「でしたら、たまには休んでもいいと思います」
「……そうだな」
将軍は、静かに頷いた。
それから、しばらく何も話さなかった。
私は、彼の横顔を見つめた。
こんなふうに、誰かと静かに過ごす時間が好きだと思ったのは、いつ以来だろう。
将軍のそばにいると、心が落ち着く。
でも同時に、胸が苦しくなる。
もっと一緒にいたい。
もっと話したい。
もっと、彼のことを知りたい。
……駄目。
私は、そっと目を伏せた。
これ以上好きになったら、きっと苦しくなる。
だから、そろそろ帰らなくては。




