その13 身分の低い侍女など
「エルンハルト将軍。わたくし、今日はどうしても確かめたいことがあって参りましたの」
将軍邸の応接室。
ディアナ王女は、優雅に微笑みながら一通の書状を卓上に置いた。
王女付きの侍女である私は、その斜め後ろに控えていた。
書状に記されているのは、国境砦の兵士の配置や補給路に関する情報だ。
王女が私に盗ませたものではない。
将軍が私に渡してくれた、偽の軍事機密だった。
「これは、あなたがわたくしに届けてくださった情報と、まるで違いますわね?」
ディアナ王女の声は穏やかだった。
けれど、青い瞳は少しも笑っていない。
「兵士の配置も、補給物資の搬入経路も、実際の状況と食い違っているではありませんか。これでは、いったい何の役にも立ちませんわ」
「……その情報を、どこで手に入れたのですか?」
エルンハルト将軍は、書状に目を落としたまま尋ねた。
黒髪をきっちりと後ろへ撫でつけた将軍は、軍服の襟元まで隙なく整えている。
いつもなら、そんな姿を見るだけで胸が高鳴る。
けれど、今の私は笑っていられなかった。
将軍は私が渡した偽の情報を、王女が本物だと信じるように仕向けてくれた。
私が王女の命令に逆らえないことも、家族を人質に取られていることも、知ったうえで協力してくれたのだ。
それなのに。
王女は、どうして軍事機密など欲しがるのだろう。
「どこで、ですって?」
ディアナ王女は小首を傾げた。
「そんなこと、今はどうでもよろしいでしょう? わたくしが問題にしているのは、あなたが偽の情報を渡したということですわ」
「どうでもよくはありません」
将軍の声が、わずかに低くなった。
「王女殿下が、なぜ国境砦の軍事機密を必要とされたのか。まずは、その理由をお聞かせいただきたい」
空気が張り詰めた。
将軍は王女に対しても、少しも態度を変えない。
相手が王族であろうと、納得できないことには従わない。
そんなところが、私は好きだった。
……好き?
自分の考えに気づき、私は慌てて目を伏せた。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
「理由など、あなたに説明する必要がありますかしら?」
王女は扇を開いた。
「わたくしは、この国の王女です。国境の状況を把握しておくのは当然のことでしょう?」
「国境の状況を知ることと、軍事機密を手に入れることは別です」
「まあ。随分と融通の利かないお方ですこと」
王女はくすりと笑った。
その笑顔を見て、私は背筋が冷たくなる。
あの笑顔を浮かべた王女が、どれほど恐ろしい命令を下してきたか。
私は知っている。
「それにしても……」
王女はふいに、私のほうを振り返った。
「将軍。あなた、ベルと手を組んでいらっしゃるのではありませんこと?」
心臓が跳ねた。
「あなたはベルに偽の情報を渡した。あなたはそれを承知で、わたくしに掴ませた。そう考えれば、話の辻褄が合いますわ」
「その侍女が、私と手を組んでいると?」
「違いますの?」
「少なくとも、あなたの推測だけで答えを決めつけるのは早計でしょう」
将軍は淡々と答えた。
けれど王女は引き下がらない。
「では、どうしてあの子を庇うのです?」
扇の先が、私を指した。
「わたくしの侍女にしては、ずいぶんとあなたに親しげですもの。まさか……あの子を気に入っていらっしゃるの?」
息が止まった。
将軍は、ほんの一瞬だけ黙った。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
お願い。
どうか、そんなことはないと言わないで。
……いいえ。
何を考えているのだろう、私は。
将軍にとって、私は王女の命令で近づいてきた、信用できない侍女にすぎない。
彼が私を特別に思っているはずなどないのだ。
「まさか!」
将軍の声が響いた。
「身分の低い侍女を気に入るはずがないでしょう」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
……そう、ですよね。
私は侍女で、将軍はこの国の国境を守る英雄だ。
身分も立場も違いすぎる。
それに私は、将軍を騙そうとして近づいた人間なのだから。
彼が私を特別に思う理由など、どこにもない。
「ふふっ。そうですわよね」
王女の楽しげな声が聞こえた。
「あなたほどのお方が、たかが侍女に心を動かされるはずもありませんわ」
たかが侍女。
その言葉が、将軍の言葉と重なった。
私は二人に気づかれないよう、そっと一歩後ずさった。
これ以上、聞いてはいけない。
そう思うのに、足が動かなかった。
「ところで、将軍」
王女の声が再び響く。
「次こそは、正確な情報をいただけますわよね?」
「……王女殿下が何のために必要とされているのか、理由をお聞かせいただければ検討します」
「本当に、頑固なお方」
王女は呆れたように肩をすくめた。
「まあ、よろしいですわ。今日のところは、これで失礼いたします」
椅子が引かれる音がした。
私は慌てて廊下の奥へと身を隠す。
やがて、王女と将軍の声が遠ざかっていった。
私は壁に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
胸が苦しい。
涙が出そうになる。
将軍は、何も間違ったことを言っていない。
私は身分の低い侍女で、彼とは住む世界が違う。
そもそも、彼を騙そうとしていたのは私だ。
彼が私を気に入っているなどと、勝手に期待した自分が愚かなのだ。
それなのに。
どうして、こんなにも悲しいのだろう。
私は目元を押さえた。
泣いてはいけない。
王女に知られたら、何を言われるかわからない。
将軍にも、こんな顔を見られたくない。
……早く、帰らなければ。
私は深く息を吸い、何事もなかったかのように表情を整えた。
王女の侍女として。
身分の低い、ただの侍女として。
私は再び、歩き出した。




