その12 将軍にだけは、誤解されたくない~後編~
扉が閉まる。
ようやく、噂話から逃れられた。
「……ベル殿」
将軍が不思議そうに私を見た。
「なぜ、逃げるように出てきたのだ?」
「なぜって……!」
ベルは思わず声を上げた。
「部屋に髪留めを忘れたなんて、あんな大勢の前でおっしゃるからです!」
「忘れ物を返しただけだが」
「それが問題なんです!」
将軍は、ますます不思議そうな顔をした。
どうして分からないのだろう。
あんなふうに言われたら、誰だって誤解する。
まして私は、アルバ侯爵との一件で、すっかり悪女扱いされているのだ。
「……とにかく、わざわざありがとうございます」
ベルはようやく、礼を述べた。
将軍は懐から手袋を取り出し、もう片方の手で、布に包んだ髪留めを差し出した。
「髪留めは、傷つかないように包んでおいた」
「……ありがとうございます」
布を受け取る。
何でもないことのはずなのに、なぜだか胸がいっぱいになった。
髪留めなんて、安物だ。
なくしたところで、困るほどの品ではない。
それなのに将軍は、わざわざ布に包み、私に返してくれた。
そんなことが、嬉しかった。
でも。
広間から聞こえてきた、あの声が頭から離れない。
『将軍まで色仕掛けに引っかかったのかしら』
ベルはうつむいた。
「……申し訳ありません」
「何がだ?」
「私のせいで、将軍まで変な噂を立てられてしまって」
「噂?」
将軍は一瞬きょとんとしたあと、呆れたように息を吐いた。
「気にするな。たかが暇人の娯楽だ。嘘だらけだぞ」
「でも……」
「俺も、ディアナ王女と婚約間近だと噂されたことがある」
ベルは思わず顔を上げた。
……それは、王女殿下が流した噂なのでは?
いえ、口には出さないけれど。
将軍は、ベルの疑いを知ってか知らずか、平然と続けた。
「あの頃は、舞踏会に出席するたびに王女殿下のダンスのお相手をしていたからな。周囲が勝手に勘違いしたのだろう」
なるほど。
確かに、今日の様子を見れば、そんな噂が立っても不思議ではない。
けれど、将軍は少しも気にしていないようだった。
「他人の口を塞ぐことはできん。ならば、気にしても仕方がない」
将軍はそう言って、バルコニーの手すりに片手を置いた。
……噂なんて、気にしなくていい。
将軍は、そう言ってくださっているのだろうか。
私のことも、噂だけで判断しないでいてくださるの?
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
けれど、その温かさはすぐに不安に変わった。
もし、将軍が本当のことを知ったら?
アルバ侯爵との婚約を、私がどんなふうに破棄したのか。
王女殿下の命令で、禁書を盗もうとしたこと。
家族を守るためとはいえ、私はたくさんの嘘をついてきた。
そんな私を知ったら、将軍はどう思うだろう。
軽蔑するだろうか。
もう二度と、あんなふうに優しく声をかけてくださらないだろうか。
それに……。
ベルは、広間の方をそっと振り返った。
あそこには、ディアナ王女殿下がいらっしゃる。
将軍と昔から親しく、誰もが憧れるほど美しい王女殿下。
あの方なら、将軍の隣に立つのにふさわしい。
私なんかとは、比べものにならない。
……って、何を考えているの、私は!
そもそも、将軍と私がどうこうなるはずがないでしょう!
ベルは慌てて首を振った。
すると、将軍がこちらを見た。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「そうか」
将軍はそれ以上、何も尋ねなかった。
ベルも、何を話せばいいのか分からなかった。
沈黙が落ちる。
広間からは、楽しげな音楽と人々の笑い声が聞こえてくる。
バルコニーの外には、澄み渡った夜空が広がっていた。
星が、ひとつ。
また、ひとつ。
宝石を散りばめたように輝いている。
「……星がきれいですね」
ベルは、ようやくそれだけ言った。
「ああ」
将軍は短く答えた。
それきり、会話は途切れた。
けれど、不思議と居心地は悪くなかった。
将軍は立ち去ろうとしない。
ベルも、戻ろうと言い出せない。
ただ二人で、夜空を見上げていた。
こんな時間が、もう少し続けばいいのに。
そう思った自分に気づき、私は胸の奥を押さえた。
……いけない。
これ以上、期待してはいけない。
私は将軍に隠し事をしている。
それに、私はただの侍女なのだから。
「星がきれいですね。……おや?」
突然、明るい声が割り込んだ。
振り向くと、黒髪に黒い眼鏡をかけた青年が、バルコニーの入口に立っていた。
ハリーさんだ。
「これはこれは、エルンハルト将軍。こんなところで何をなさっているんです?」
「ハリー……さん」
ベルは思わず声を漏らした。
ハリーさんは私を見ると、にこりと笑った。
「おや、ベルさんも一緒でしたか」
「ええ、まあ……」
「ちょうどよかった。少し気になっていたんですよ」
ハリーさんは、いつもの調子で私に近づいてきた。
「ディアナ王女に、いじめられていませんか? 困ったことがあったら相談してくれって言ったのに、音沙汰がないものですから」
「そ、そんな! お忙しいハリーさんに、相談なんて……!」
「遠慮はいりませんよ。僕、こう見えて結構頼りになりますから」
そう言って、ハリーさんは眼鏡の位置を直した。
ベルは苦笑した。
ハリーさんは、いつもこうだ。
軽口ばかりで、どこまで本気なのか分からない。
でも、気にかけてくれているのは確かだった。
「……お二人は、親しいのか?」
低い声がした。
ベルは、はっとした。
将軍が、こちらを見ている。
「え?」
「ハリー殿と、ベル殿は付き合っているのか?」
「ち、違います!」
私は反射的に叫んだ。
すると、ハリーさんが肩をすくめた。
「僕は、そうなっても構いませんけどね」
「ハリーさん!」
思わず睨みつける。
この人は、本当に!
どうして、こんなときに余計なことを言うのだろう。
ハリーさんは涼しい顔で笑っている。
私は将軍の方を見た。
誤解されたくない。
そう思ったのに、何を言えばいいのか分からなかった。
将軍は、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
短く、それだけだった。
そして、手すりから手を離した。
「お邪魔だったようだな。失礼する」
「しょ、将軍!」
呼び止めようとしたけれど、将軍は振り返らなかった。
扉が開き、華やかな音楽が一瞬だけ大きくなる。
そして、扉が閉じた。
ベルは、その場に立ち尽くした。
……誤解された。
ハリーさんと私が、親しい関係だと思われたのだろうか。
それとも、私が誰にでも色目を使う女だと、改めて思われたのだろうか。
そんなことを考えると、胸が苦しくなった。
「おやおや。ずいぶんと慌てていましたね」
隣で、ハリーさんが楽しそうに言った。
「ハリーさんのせいです!」
「僕のせいですか? いやあ、困ったな」
まるで困っていない顔で、ハリーさんは笑った。
「……もう!」
私は頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑うことなどできなかった。
将軍の、最後の表情が頭から離れない。
どうして、あんなに気になるのだろう。
ハリーさんに何と思われようと、こんなに胸がざわつくことはない。
周囲の人々に何を噂されても、ここまで焦ることはない。
なのに、将軍にだけは。
将軍にだけは、誤解されたくなかった。
軽蔑されたくなかった。
できることなら、私のことを信じてほしい。
私がどんな人間なのか、噂ではなく、私自身を見てほしい。
……どうして?
ベルは、ぎゅっと手を握りしめた。
手の中には、布に包まれた髪留めがある。
将軍が、わざわざ返しに来てくださったもの。
それを大切に握りしめながら、私はようやく気づいた。
私は、もう一度、将軍に会いたい。
もっと話がしたい。
今度は、嘘をつかずに。
そして、できることなら――。
私のことを、嫌いにならないでほしい。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
これが恋なのだろうか。
だとしたら、私はどうすればいいの?
だって私は、将軍に知られてはならない秘密を、まだいくつも抱えているのだから。




