その11 将軍にだけは、誤解されたくない~前編~
王都に戻ったエルンハルト将軍の功績を称え、王宮では盛大な祝賀会が開かれることになった。
国境を長年守り続け、敵国Fの侵攻を幾度となく退けてきた将軍である。その働きをねぎらうため、王侯貴族が一堂に会するのだという。
ベルは侍女として、会場の隅で給仕の補助をしていた。
華やかな音楽が流れ、磨き上げられた床には幾千もの灯りがきらめいている。豪華なドレスをまとった貴婦人たちが、宝石を揺らしながら談笑していた。
その中でもひときわ目を引くのは、ディアナ王女殿下だった。
淡い金色のドレスには、星屑のような宝石が散りばめられている。首元には大粒の真珠、髪には王家に伝わるという宝冠。
まるで絵画から抜け出してきたかのような美しさだった。
……いいなあ。
ベルは自分の侍女服を見下ろした。
何度も洗濯を繰り返し、襟元も袖口もくたびれている。髪留めだって、どこにでもある安物だ。
もちろん、侍女なのだから仕方がない。
仕方がないのだけれど。
せめて、今日くらいはもう少し綺麗な服を着てみたかった。
そんなことを考えていたときだった。
「エルンハルト将軍、ご到着です!」
広間の入口から、よく通る声が響いた。
ざわめきが一斉に静まる。
ベルは反射的に顔を上げた。
そして――息を呑んだ。
入口に立っていたのは、エルンハルト将軍だった。
いつもの無精ひげはきれいに剃られ、艶やかな黒髪は整えられている。仕立てのよい軍服には金糸の刺繍が施され、胸元には国境での功績を示す勲章が輝いていた。
鍛え上げられた体躯に、凛々しい顔立ち。
普段の無骨な姿も素敵だと思っていたけれど、今日の将軍は、まるで別人のようだった。
周囲から、感嘆の声が漏れる。
「まあ、なんて立派な方……」
「さすがは国境の英雄ね」
「お髭を剃ると、あんなにお若く見えるのね」
女性たちの囁き声が、あちらこちらから聞こえてくる。
……分かる。
分かります。
私だって、今すぐ近くで眺めていたい。
けれど、こんなに華やかな場所で、私のような侍女が将軍を見つめているわけにもいかない。
そう思って視線を逸らそうとした、その瞬間。
将軍と目が合った。
ほんの一瞬。
けれど、将軍は私に気づくと、わずかに目を細めた。
そして、こちらへ歩いてきた。
えっ。
ちょ、ちょっと待って!
どうしてこちらへ?
まさか、こんな大勢の人がいるところで話しかけるつもりなの?
ベルは慌てて背筋を伸ばした。
しかし、将軍が向かった先は、ベルの隣を通り過ぎた先だった。
そこには、ディアナ王女殿下が立っていた。
……そうよね。
当然だわ。
王女殿下にご挨拶なさるに決まっている。
ベルは胸の奥に生まれた小さな落胆を、そっと押し込めた。
「王女殿下。このたびは、祝賀の宴を催していただき、ありがとうございます」
将軍が恭しく一礼する。
「エルンハルト将軍。国境での長年の警備、ご苦労様です。あなたのおかげで、我が国は平穏を保つことができました」
「身に余るお言葉です」
「ところで、これからは王都にいらっしゃるの?」
「いいえ。ひと月ほど滞在したのち、また国境へ戻ります」
「あら。では、王都に残される恋人は寂しいでしょうね?」
王女殿下が、意味ありげに微笑んだ。
ベルは思わず耳をそばだてた。
恋人?
将軍に、恋人がいらっしゃるの?
「恋人はいません」
将軍は、何でもないことのように答えた。
王女殿下の顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ! それなら、昔のようにダンスのお相手をしてくださいな」
「かしこまりました。無骨な私にダンスを教えてくださった王女殿下には、感謝しております」
将軍が微笑む。
王女殿下も、嬉しそうに笑った。
……昔のように?
ダンスを教えていただいた?
ということは、お二人はずっと以前から親しい間柄だったのだ。
王女殿下は将軍のことをよくご存じで、将軍も王女殿下に気兼ねなく話しかけていらっしゃる。
それに、あの笑顔。
将軍があんなふうに微笑むところを、私は見たことがあっただろうか。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
王女殿下は美しく、身分も高く、将軍の隣に立っても少しも不自然ではない。
それに比べて私は……。
いったい、何を考えているのだろう。
ベルは慌てて首を振った。
将軍は私の恋人でもなければ、婚約者でもない。
私が勝手に憧れているだけなのだ。
それなのに、どうしてこんなに落ち着かないの?
「ベル、どうしたの?」
近くにいた侍女に声をかけられ、ベルははっとした。
「い、いいえ。少し寒くなってきたので、羽織るものを取ってまいります」
そう言い残し、ベルはその場を離れた。
とにかく、今は将軍と王女殿下を見ていたくなかった。
自分の気持ちに名前をつけるのが、怖かったのかもしれない。
ベルは人々の間を縫うように進み、広間の端へ向かった。
そのとき。
「ベル殿! 待ってくれ!」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、エルンハルト将軍がこちらへ歩いてくる。
手には、何かを持っていた。
「部屋に忘れていった手袋と髪留めだ。返そうと思っていたのだが、なかなか機会がなくてな」
……え?
手袋と、髪留め?
その瞬間、周囲の空気が変わった。
「今、ベルとおっしゃった?」
「部屋に忘れ物ですって?」
「あのベル・ヴァルナーが、将軍と?」
「まあ、また醜聞かしら」
「アルバ侯爵の次は、将軍というわけ?」
「将軍まで色仕掛けに引っかかったのかしらね」
ひそひそと交わされる声が、耳に突き刺さった。
胸が冷たくなる。
まただ。
また、私は噂されている。
アルバ侯爵との婚約破棄以来、私を見る人々の目は変わった。
誰も事情を知らない。
私がなぜ、あんなことをしたのか。
何を守るために、あんな言葉を口にしたのか。
そんなことは誰も知ろうとせず、面白おかしく噂するだけ。
そして今度は、将軍まで巻き込んでしまった。
ふと、視線を感じた。
ディアナ王女殿下が、こちらを見ていた。
美しい顔に浮かんでいるのは、明らかな不快感だった。
まずい。
王女殿下の機嫌を損ねたら、また何を命じられるか分からない。
それに、将軍にまで迷惑をかけるわけにはいかない。
「しょ、将軍! こちらへ!」
「ん?」
私は将軍の手を取ると、返事を待たずに歩き出した。
「ベル殿? どうした?」
「いいですから!」
人々の視線を背中に感じながら、私は広間に面したバルコニーへと将軍を連れ出した。




