その10 将軍からの手紙
国境の砦から王都に戻って、数週間が過ぎた。
王女ディアナ殿下から新たな命令が下ることもなく、ベルは久しぶりに穏やかな日々を過ごしていた。
もっとも、それは表向きの話だ。
いつ家族を盾に脅されるか分からない。殿下の機嫌を損ねれば、どんな命令が飛んでくるかも分からない。
だからベルは、いつもどおり侍女の仕事に励んでいた。
そんなある日の午後。
「ベル、あなた宛てにお手紙が届いているわよ」
同僚の侍女が、一通の封書を差し出した。
「私に?」
貴族の令嬢でもない私に、個人的な手紙を送ってくる人なんていただろうか。
不思議に思いながら封筒を受け取る。
差出人の名前を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
エルンハルト将軍。
国境の砦で出会った、あの堅物将軍からだった。
「……えっ?」
「どうしたの? そんなに驚いて」
「い、いえ! 何でもありません!」
慌てて手紙を胸元に隠す。
同僚は不思議そうに首をかしげたけれど、それ以上は追及せずに仕事へ戻っていった。
ベルは人目につかない場所へ移動し、そっと封を切った。
中に入っていたのは、簡潔な文章が記された便箋だった。
『ベル・ヴァルナー殿
先日は、こちらの手違いで預かっていた品を返しそびれた。手袋はこちらで保管しているが、必要ならば送ろう。
それから、王都で不自由なく過ごしているか。
エルンハルト』
手紙を読み終え、私は瞬きをした。
手袋。
そういえば、砦で将軍に手袋を預けたままだった。あのときは敵の襲撃やら何やらで、すっかり忘れてしまっていたのだ。
でも、わざわざ手紙を送って知らせてくれるなんて。
それに。
『王都で不自由なく過ごしているか』
ベルはその一文を、もう一度読み返した。
たった一言。
社交辞令かもしれない。手袋を返すついでに書いただけかもしれない。
それでも、ベルの胸の奥がじんわりと温かくなった。
エルンハルト様が、私のことを気にかけてくださった。
そう思うだけで、頬が緩みそうになる。
……いけない、いけない。
ベルは頭を振った。
あの方は将軍だ。国境を守るために日々戦い、たくさんの兵士を率いている。私のような侍女一人を気遣うのは、あの方にとって大したことではないだろう。
それなのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
ベルは手紙を折りたたみ、封筒に戻した。
けれど、しばらくすると、また取り出して読んでしまった。
……だめだ。
こんなことでは、仕事に集中できない。
ベルは気合を入れ直し、返事を書くための紙とペンを用意した。
* * *
返事を書くのは、思っていた以上に難しかった。
『お手紙をいただき、ありがとうございます。手袋の件、承知いたしました』
まずはそう書いてみる。
うん、悪くない。
丁寧で、簡潔で、何の問題もない。
……でも、これでは少し冷たくないだろうか。
せっかく手紙をくださったのに、こんな返事では失礼かもしれない。
ベルはしばらく考えてから、続きを書き足した。
『砦では、兵士の皆様にも大変よくしていただきました。あのとき助けていただいたこと、改めてお礼申し上げます』
これも必要だろう。
あの砦で、私は何度もエルンハルト様に助けていただいた。
それだけではない。
私が王女殿下の命令で将軍を騙そうとしていたことを打ち明けたときも、あの方は私を責めなかった。
それどころか、
『よし。じゃ偽の軍事機密を作るぞ』
そう言ってくださったのだ。
あのときのことを思い出すと、胸が少し苦しくなる。
私は、あの方を騙そうとしていた。
それなのに、あの方は私を信じる機会を与えてくれた。
そのことが、嬉しくて、申し訳なくて。
ベルはペンを持ったまま、しばらく動けなくなった。
……もっと、お礼を伝えたい。
でも、何を書けばいいのだろう。
あまり長い手紙を送ったら、迷惑に思われるかもしれない。
あの方は忙しいのだから。
ベルは結局、最初の文章を中心に、当たり障りのない返事にまとめた。
封をする直前になって、ふと手が止まる。
最後に、もう一言だけ。
『将軍も、どうかお身体を大切になさってください』
書き終えた瞬間、顔が熱くなった。
……な、何を書いているの、私は!
まるで、あの方のことを心配しているみたいではないか。
いや、実際に心配はしているのだけれど。
国境の砦は危険な場所だ。敵の襲撃だってある。将軍はいつも最前線で指揮を執っているのだから、怪我をする可能性も高い。
だから、これは当然の気遣いであって……。
そこまで考えて、ベルは口を閉じた。
誰に言い訳をしているのだろう。
ベルは便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に入れた。
そして、手紙を届けてもらうよう手配した。
これでいい。
あとは、返事が来るかどうか。
……返事?
ベルは自分の考えに気づき、慌てて首を振った。
そもそも、返事を期待する理由なんてない。
手袋の確認は済んだのだから、これで終わりだ。
そう自分に言い聞かせながらも、ベルはその日の夕方、何度も郵便の届く場所を確認してしまった。
* * *
数日後。
ベルは再び、エルンハルト将軍からの手紙を受け取った。
今度は封筒を見ても、驚いて取り落としたりはしなかった。
……少しだけ、慣れたのかもしれない。
ベルは前と同じように、人目につかない場所で封を切った。
『ベル・ヴァルナー殿
手紙を読んだ。無事に過ごしているようで何よりだ。
砦の食事を気に入ってくれたのなら、料理長に伝えておこう。あれでも、褒められれば喜ぶ男だ。
兵士たちも、君が無事に王都へ戻ったと聞いて安心していた。
またこちらに来ることがあれば、今度はゆっくり食事をするといい。
エルンハルト』
ベルは手紙を持つ手に、思わず力を込めた。
料理長。
そういえば、砦で食べた料理はおいしかった。王宮の食事とはまた違う、素朴で温かい味がした。
あのときは、任務のことで頭がいっぱいだった。
将軍から情報を聞き出さなければならない。王女殿下の命令に従わなければ、家族がどうなるか分からない。
そんなことばかり考えていた。
それなのに、エルンハルト様は私の何気ない感想を覚えていてくださったのだ。
そして。
『またこちらに来ることがあれば、今度はゆっくり食事をするといい』
ベルはその一文を、じっと見つめた。
また、砦に行ってもいいのだろうか。
あの方に、もう一度会ってもいいのだろうか。
もちろん、社交辞令かもしれない。
将軍は兵士たちのことも書いてくださった。私一人を特別に気にかけているわけではないだろう。
それでも。
「……また、会いたいな」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
ベルは慌てて周囲を見回した。
幸い、誰もいない。
胸に手を当てると、心臓がいつもより速く動いていた。
あの方に会いたい。
任務のためではなく。
情報を聞き出すためでもなく。
ただ、もう一度話をしたい。
砦で食べた料理のこと。兵士たちのこと。将軍が普段どんな生活をしているのか。
そんな、何でもない話をしてみたい。
ベルは手紙をそっと胸に抱いた。
……こんなこと、初めてだ。
今までの私は、家族のために働いてきた。
給金をもらうため。家族が困らないようにするため。王女殿下の命令に逆らって、家族に危害が及ぶのを防ぐため。
自分が何をしたいかなんて、考える余裕もなかった。
なのに今は、誰かに会いたいと思っている。
自分のために。
そのことが、少しだけ怖かった。
もし、この気持ちが大きくなったら。
もし、エルンハルト様が私にとって、かけがえのない人になってしまったら。
私は、あの方を失うことに耐えられるのだろうか。
そもそも、私にはあの方に隠していることがある。
王女殿下の命令で、あの方を騙そうとしたこと。
家族を守るためとはいえ、軍事機密を盗み出そうとしたこと。
エルンハルト様は事情を知って、私を受け入れてくださった。
けれど、それで全てが許されたわけではない。
私はまだ、あの方に胸を張れるような人間ではなかった。
「……いつか」
小さく呟く。
「いつか、何も隠さずにお話しできたらいいな」
そんな日が本当に来るのかどうか、分からない。
それでも、今はそう願っていた。
ベルは手紙を丁寧に折りたたみ、机の引き出しにしまった。
そして、もう一度だけ引き出しを開けて、手紙を確かめた。
……大切にしよう。
そう思った自分を、もう否定する気にはなれなかった。




