第3話 真名を名乗ったら、ステータスが壊れた
しばらく、動けなかった。
ベッドに座ったまま、目の前に浮かんだ画面を見ていた。
氏名:一ノ瀬 朔
真名:カオス・テロス・クルヌギアス
二つ名:始マリノ終焉
職業:終焉ヲ統ベル深淵王
何度読んでも、書いてあることは変わらない。
真名。二つ名。終焉ヲ統ベル深淵王。全部、中学の俺がノートに書いたやつだ。一字一句そのままだ。
そして、その下にこうある。
STR:8(+測定不能/解放率 ???)
測定不能。
意味が分からない。分からないが、分かる。中学の俺は、王のステータスを「測定不能」だの「∞」だのと書いた。最初は全部9999と書いていたのを、弱く見えるからと書き直した記憶もある。
それが、今、俺のSTR8の横に並んでいる。解放率、という見たことのない欄は、なぜか伏せ字になっていた。
心臓がうるさい。
落ち着け。落ち着け一ノ瀬朔。これは夢か、あるいは今日一日で燃え尽きた脳が見せている幻か。
だが、幻にしては文字が鮮明すぎる。「終焉ヲ統ベル深淵王」のカタカナの使い方まで、当時の俺の趣味そのままだ。自分の脳がここまで忠実に黒歴史を再現するとは思えない。
つまり、本物だ。
本物だとしたら、これはどういうことだ。
俺の職業は【厨二病】で、スキル欄は空っぽだった。それが、ノートを読み返した直後にこうなった。
……ノートか。
足元に転がっている†王ノ書†を見る。黒い表紙。塗りムラ。白いペンの文字。
このノートに書いたことが、本当に力になるとしたら。
いや、落ち着け。まずは確かめることからだ。
俺は胡座をかいて、腕を組んだ。
確かめるとなると、場所がいる。自分の部屋では駄目だ。壁が薄い。隣は聖奈の部屋だ。あいつに聞かれたら、人生が終わる。
庭も駄目だ。隣家の窓がある。先月、夕飯の支度の包丁の音が聞こえたと母が言っていた。ということは、声は確実に漏れる。
公園。いや、公園は夜でも人がいる。犬の散歩とか。
河川敷はどうだ。いや、ランナーがいる。
ダンジョンの中はどうだ。金山ダンジョンはF級で無人で、カードをかざせば入れる。人がいなければ、何を叫んでもいい。
いや、未成年は深夜に入れないし、単独潜行は推奨されていない。入退場の記録も残る。今日登録したばかりの奴が夜に一人で入ったら、絶対に何か思われる。
だいたい、仮に場所が見つかったとしてだ。
使えるとして、俺はこれを、あいつらの前でやるのか?
週末には買い物に行って、そのあとは金ダンに潜る約束だ。大沢がいて、山吹がいて、三宅がいて、藤堂がいる。その目の前で、俺は。
我が名はカオス・テロス・クルヌギアス、から始まる、あの五行を。
無理だろ。
俺は両手で顔を覆った。山吹は笑う。大沢は必ず動画を撮る。三宅は意外と乗ってくるかもしれないが、それはそれでつらい。藤堂は何も言わずにメモを取る。一番つらい。
だが、使わなければ俺はSTR8の高校生だ。
使えば黒歴史がバレ、使わなければ弱いまま。どうしろというんだ。
いや、待て。そもそもこれ、戦闘で使えるのか? スキルが一つしかない。『我ガ記シタ言葉ハ、戯言ニ非ズ』。名前からして何をするスキルなのか分からない。使い方の説明もない。
読めば分かるのか。それとも触れればいいのか。
俺は画面に手を伸ばした。
伸ばして、止まった。
消えていた。
真名も、二つ名も、終焉ヲ統ベル深淵王も、測定不能も。
氏名:一ノ瀬 朔
Lv:1
職業:厨二病
HP:22
MP:14
STR:8
AGI:11
INT:13
LUK:7
称号:
スキル:
実績:
真っ白な欄が三つ。今日の昼に見たのと、一字一句同じ画面だった。
「は?」
声が出た。
「いや、は? なんで?」
あわててカードを財布から引っ張り出して、両手で掲げてみた。変わらない。職業は厨二病のままだ。
ノートを拾って、忙しく最初のページを開いた。魔法陣。真名の練習。年表。全部さっきと同じだ。
何も起きない。
もう一度ページをめくってみる。起きない。ノートを開いたままカードを眺めてみる。起きない。
背中が冷たくなってきた。
さっきのは何だったんだ。見間違いか。疲れか。一日で一番優しかった幻覚か。
実のところ、ちょっと泣きそうだった。今日一日で一番ダメージがでかいのが、ギルドでもなく、妹の「キモ」でもなく、この瞬間だった。
一度手に入ったものが消えるのは、最初からないよりつらい。
なんで消えた。なんでさっきは出た。
さっきと今で、何が違う。
ノートは開いていた。カードは財布に入っていた。部屋にいた。ベッドの上にいた。全部同じだ。
違うのは、一つだけだ。
さっきの俺は、声を出していた。
……まさか。
いや、まさかだろ。
だが、他に思い当たるものがない。
俺は部屋のドアを見た。閉まっている。廊下の音はしない。聖奈はたぶん風呂だ。お姉ちゃんは2階で大学の課題をやっている。
布団を頭から被った。
これなら、多少声を出しても大丈夫なはずだ。
深呼吸をした。
「……われが、なは、かおす・てろす・くるぬぎあす」
声が小さい。自分でも引くくらい小さい。布団の中なのに、口の中でもごもご言っただけだった。
何も起きなかった。
画面は出てこない。職業欄は【厨二病】のままだ。
「あれ?」
条件が違うのか。もっとはっきり言えということか。
俺はもう一度息を吸った。
「我が名はカオス・テロス・クルヌ……クルヌギ、アス」
噛んだ。
噛んだうえに、途中で自分の声に耐えきれなくなって、語尾が小さくなった。
やはり何も起きない。
布団の中で、俺は膝を抱えた。
これはあれだ。分かってしまった。分かってしまったが、認めたくない。
さっきの俺は、恥ずかしがっていなかった。ノートを読み返して、懐かしくて、完全に当時の気分に戻っていた。だから自然に口から出た。一切の迷いもなく、あの長い名前を言い切った。
つまり、条件はたぶん、これだ。
本気でやること。
小声で誤魔化しても駄目。照れながらでも駄目。噛んでも駄目。中学2年生のあの日と同じテンションで、真顔で、言い切らないといけない。
世界で一番やりたくない種類の全力だった。
俺は布団の中で、しばらく死んだふりをした。
やるか。
やるしかないか。
目を閉じて、思い出す。ノートを開いていたときの気分。魔法陣を描いていた放課後。窓の外を見て「そろそろか」と呟いていた昼休み。あの頃の俺は、一ミリも恥ずかしがっていなかった。
あの頃の俺に、戻れ。
目を開けた。
「——我が名はカオス・テロス・クルヌギアス」
そこから先は、さっきと同じだった。口が覚えている。
五行。最後の「終焉ヲ統ベル深淵王なり」まで、声は低く、一音も濁らず、布団の中に響いた。
言い切った。
言い切ってから、正気に戻った。
死にたい。
だが、目の前に画面が浮かんだ。
真名:カオス・テロス・クルヌギアス
二つ名:始マリノ終焉
職業:終焉ヲ統ベル深淵王
STR:8(+測定不能/解放率 ???)
スキル:我ガ記シタ言葉ハ、戯言ニ非ズ
戻った。
布団の中で、俺は口を半開きにしたまま固まっていた。
つまり、こういうことか。
一度確かめておきたい。俺は虚しい気持ちで、枕元に置いてある目覚まし時計を引き寄せた。
秒針を見ながら、黙る。
1分。まだある。
5分。ある。
8分を過ぎたあたりで、画面の文字が、ふっと薄くなった。
10分と少しで、綺麗に消えた。職業欄が【厨二病】に戻る。
「——我が名はカオス・テロス・クルヌギアス」
五行、最後まで言い直す。戻る。
もう一度黙る。消える。言う。戻る。
何度か繰り返して、俺は確信した。黙っていられるのは、体感で十分かそこら。それを過ぎると、王のステータスは消える。そして、もう一度言えば、消える前と全く同じ状態で戻ってくる。
減ったりはしない。何度消えても、同じものが戻ってくる。
ただし、本気で言った場合に限る。
試しに、5回目あたりで気を抜いて「我が名はカオス・テロス・クルヌギアス(笑)」くらいのテンションで言ってみたら、何も起きなかった。真顔でやり直したら戻った。
ついでに、一行目だけで止めてみたこともある。これも何も起きなかった。五行、全部言い切らないと駄目らしい。長い。
笑いながらでは駄目らしい。この力は、俺に一切の逃げ道を用意していない。
優しいんだか厳しいんだか分からない仕様だと思う。思うが。
布団の中で、俺はもう一度、現実を確認した。
この力は、厨二病の台詞を、本気で言い続けていないと維持できない。
10分。たったの10分だ。
会話していたら、黙っただけで消える。戦っている途中で、息を整えている間にも消える。そのたびに、また真顔で言い直さなければならない。
照れたら終わり。噛んだら終わり。笑ったら終わり。
つまり、俺が最強でいられるのは。
厨二病を、やり続けている間だけ。
布団をめくって、俺は天井を見上げた。
今朝の俺は、厨二病を卒業したと言った。包帯も眼帯も捨てた。高校からは普通に生きるつもりだった。
その俺に世界が渡してきたのが、これだ。
いや、でも。
天井を見たまま、俺は思った。
使い方さえ考えれば、これ、強くね?
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