第18話 誰もいない場所で、色々試す
翌日、俺は港区にいた。
南陽町。市街地から西へ外れた、田畑の多い地域だ。名古屋市内だと言われてもピンと来ない景色が広がっている。
目当ては、南陽ダンジョン。
D級。推奨レベル100まで。
アプリで調べて分かったのだが、ここは人が少ない。理由は単純で、駅から遠いからだ。バスで15分。バス停からさらに歩いて10分。
D級はそれなりに稼げるが、わざわざここまで来る人間は少ない。同じD級なら、地下鉄で行ける千種のほうが便利だ。
つまり、俺にとっては最高の立地だった。
着いてみると、想像以上だった。
田んぼと空き地に挟まれたアスファルトの上に、黒い扉が一枚立っている。フェンスと認証ゲート。それだけ。
人が、いない。
駐輪場に自転車が二台。それだけだ。
「完璧だ!」
ゲートにカードをかざす。
認証音が鳴って、扉が開いた。
Dランクになったおかげで、D級の扉が開く。この感覚は、正直に言うと、めちゃくちゃ気持ちよかった。
昨日、芝崎さんの電話を切ったあと、地下街の真ん中で小さくガッツポーズをしたくらいだ。
中は、水の音がした。
岩ではなく、湿った土の通路だった。壁に苔が生えていて、天井から水が滴っている。光っているのは苔のほうらしく、青白い。
千種とも金山とも違う。同じD級でも、中身はまるで別物だ。
苔に触ってみた。ひんやりしている。当たり前だが、これも光っている。
こういうのが、いい。
ダンジョンごとに全部違う。同じものが一つもない。地上でこんな体験ができる場所があるなら、教えてほしいくらいだ。
人の気配はない。
通路を5分ほど進んで、脇道の行き止まりに入った。
ここで、準備をする。
鞄から、昨日買った外套を取り出した。
広げると、それだけで空気が重くなった気がした。黒。膝下丈。深いフード。
羽織る。
裾が、足首のあたりで揺れた。
フードを被る。視界の上半分に影が落ちる。
いける。
これは、いける。
深呼吸をして、俺は息を吸った。
「——我が名はカオス・テロス・クルヌギアス」
声が、湿った通路に響いた。
続きを、最後まで。五行を言い切った。
前髪が伸びる感覚。視界が遠くなる感覚。世界が、少しだけ遅くなる。
水たまりを覗き込んだ。
黒い外套。深いフードの影。その下で、左目だけが白く光っている。
顔は、ほとんど見えない。
完璧だった。
正体を隠すという目的において、完璧だった。
同時に、完璧にこの頃の俺の絵だった。
いや、これはもう仕方ない。そう言おうとした。
「——否。これは必然である」
だから違うんだって。
誰もいない通路で、俺は一人、自分の口と戦っていた。
まず確かめたのは、時間だった。
最初に試したときは、黙っていられるのは10分だった。Lv1のときの話だ。
今の俺はLv68。
スマホのストップウォッチを起動して、口を閉じた。
10分。消えない。
20分。消えない。
30分を過ぎたあたりで、俺は待つのをやめた。
少なくとも、10分ということはない。体感で、一時間近くは持ちそうだ。
戦闘中に切れる心配は、もうしなくていい。
いや、待て。
黙っていても一時間持つということは、逆に言えば、一時間しゃべらずに済むということだ。
人前でも、名乗ったあとは黙っていればいい。
その発想に至った瞬間、俺は少しだけ救われた気がした。弱くはなるが、黙っていれば厨二病だとバレる確率は下がる。
黙っていれば、の話だが。
次は、魔眼だ。
四つ解放されて、一つも実戦で使っていない。
左目に意識を向ける。
「——開け、我が左眼。世界の裏側を映せ」
通路の壁に、文字が浮かんだ。
南陽ダンジョン 第1階層
難易度:D
推奨レベル:51〜100
真理ノ魔眼。相変わらず、隠されているものが見える。
そして、その隣に別の表示も出ていた。
罠:落とし穴(3メートル先、通路中央)
看破ノ魔眼だ。
3メートル先を見る。土の通路にしか見えない。何の違和感もない。
石を投げてみた。
土が、崩れた。
人一人分の穴が、音を立てて開いた。深い。底が見えない。
こっわ。
これ、魔眼がなかったら落ちてた。
D級ともなると、こういうものが普通に仕掛けてあるらしい。千種では出なかったが、あれは整備された人気ダンジョンだったからだろう。
冷や汗が出た。出たが、同時に思った。
これがある限り、俺は罠で死なない。
この頃の俺が「隠されたものを見抜く目」を書いていたおかげで。
モンスターは、すぐに出てきた。
蛙だった。
人間くらいの大きさの、灰緑色の蛙。長い舌が、口の端から垂れている。
左目が読む。
ジャイアントフロッグ
難易度:D
向こうがこちらを見た。
次の瞬間、舌が飛んできた。
速い。
速いのだが。
見えた。
舌が伸びるより早く、視界に細い線が走っていた。舌が通る道筋が、そのまま線になって空中に描かれている。
因果ノ魔眼。
だが、それで十分だった。
線の外へ半歩ずれる。舌が、耳の横を通り過ぎた。
「フッ……鈍いな」
言ってから、俺は自分の口を恨んだ。
さっき決めたばかりだ。人前では黙っていよう、と。決めた本人が、蛙相手に鼻で笑っている。
しかも「あぶな」でも「速っ」でもなく、「フッ……鈍いな」である。
鼻で笑う音を、わざわざ声に出した。
王の口調に変換されるとかいう以前の問題で、俺はそもそも黙っていられない人間だった。
三年間かけて、そういう口にしてしまった。
踏み込む。
素手だ。武器は降ろしていない。王になっている以上、他のものは呼べない。
だが、Lv68の王の拳は、想像より重かった。
蛙の胴に叩き込むと、湿った音がして、体が半分潰れた。
一撃だった。
砂になって消えて、緑の皮が一枚落ちる。
Lv:68 → Lv:69
※獲得経験値は半分です(王の力を使用中)
半分。相変わらずだ。
だが、今は経験値が目的じゃない。
確かめることが目的だ。
王を解いた。
体が重くなる。世界の速度が戻る。左目の文字が消える。
外套だけが、残った。
Lv69の素の状態。STRは50を超えている。この時点で、そこらの新人よりよほど強い。
ここからは、武器だ。
武器の書には、刀も剣も槍も銃もある。ロマン武器という分類不能の一群もある。
俺が呼んだことがあるのは、無銘と、神喰らう蒼閃の槍。二本だけだ。
残りは、まだ一度も出していない。
まず、剣。
剣のページは、武器の書の中でも一番ページ数が多い。当時の俺は、剣に一番憧れていた。
そのぶん、盛り方もひどい。
一本目に書いてあるのは王の相棒の剣で、これは呼べる気がしない。二本目も三本目も、設定が重すぎて怖い。
俺が選んだのは、もっと下のほうにあるやつだった。
「——灰よ、形を成せ」
手のひらに、重さが生まれた。
細長いロングソードだった。灰色で、刃に細かい傷が無数に入っている。
【灰被リノ剣】。
この剣の由来を、俺は嫌というほど覚えている。当時、三ページ使って書いたからだ。しかも文体まで変えた。
中二の夏、俺は死にゲーにどっぷりハマっていた。
何度も死んで、同じ場所で死んで、それでも進む。あのジャンルの、断片的にしか語られない世界観にやられた。武器の説明文に、持ち主だった誰かの人生が三行だけ書いてある。そういうのが、たまらなく良かった。
この剣は、ちょうどその時期に書いたやつだ。
武器の書をめくっていくと、たまにこういうページがある。前後とは明らかに文体が違って、名前も説明も、やたらと思わせぶりになっている一群。
その少し前は別のゲームにハマっていて、そのあとはまた別のものにハマった。だからページごとに影響元が違う。名前の付け方も、説明の書き方も、その時々でころころ変わっている。
一冊の中に、俺の三年間が地層みたいに積もっている。
——かつて、火を継ぐ者たちがいた。
彼らは名を捨て、顔を捨て、己が命を薪として炉にくべた。何のためであったかは、もはや誰も語らぬ。ただ、燃やさねばならなかった。
火は尽きる。人も尽きる。
残ったのは灰だけであった。
灰は積もり、踏まれ、風に散り、それでもなお形を求めた。幾度も崩れ、幾度も集まり、そうして一振りの剣となった。
この剣は、鍛えられたのではない。集まったのだ。
ゆえに、これを鍛えた者はいない。ゆえに、これを所有した者もいない。
剣は、ただ待っている。命が燃え尽きようとする、その瞬間を。
こういうのを、真顔でノートに書いていた。
しかも、途中で「である」調に変えている。雰囲気を出すために。
だが、認めたくないことが一つある。
今読み返しても、これは悪くない。
振ってみた。
軽い。無銘より少し重い程度で、細身のぶん取り回しがいい。
次のジャイアントフロッグに試したら、胴を両断した。
抵抗が、ほとんどなかった。
いいな、これ。
無銘は重さがないぶん速いが、こっちは振り抜いたときの通りがいい。手首に残る感触が全然違う。
武器が変わると、同じ相手でも戦い方が変わる。
それが、面白くて仕方ない。
設定によれば、この剣は命を燃やすことで刃に炎をまとうらしい。燃やすほど炎は強くなり、燃やし尽くせば持ち主も灰になる。
試す気には、まったくならなかった。
命を燃やして戦うとか、この頃の俺は何を考えていたんだ。
ちなみに、現状の性能は「よく切れる細身の剣」だった。炎は出ない。命も燃えない。
それはそれで、少し寂しい。
次は、銃だ。
これが、一番気になっていた。
銃のページは、正直に言うと知識が足りていなかった。この頃の俺は銃に詳しくなかったので、弾の種類とか、装填の仕組みとか、そういうものを一切書いていない。
その代わり、由来だけは無駄に長かった。
——とある文明が、崩壊の危機に瀕していた。
化け物が来る。もう止められない。それでも彼らは、持てる英知の全てを注ぎ込んで、一対の銃を鍛えた。
間に合わなかった。
文明は滅び、作った者も、守られるはずだった者も、全て消えた。
誰の手にも渡らなかった銃だけが、長く宇宙を漂っていた。
そして王が、その世界線ごと全てを取り込んだとき、手元に残った。
守るために作られ、何一つ守れなかった銃。
名を【救ワレヌ者共】。読みは、アソートス。
「——間に合わなかった祈りよ、今ここに。来たれ、救ワレヌ者共」
両手に、同時に重さが生まれた。
二丁だった。
そうだ、これは二丁で一対だ。この頃の俺は、片方ずつではなく、二つで一つの武器として書いていた。だから降ろすと、両手に出る。
大口径のハンドガン。黒い。
思っていたより、ずっと大きい。手のひらに収まるようなものじゃない。銃身が長くて、重い。両手で構えると、それだけで腕に負担が来る。
そして、銃身にびっしりと、魔術回路が刻まれていた。
文様、と呼ぶには細かすぎる。線と円と記号が、隙間なく彫り込まれている。この頃の俺が定規とコンパスで、何時間もかけて描いていたやつだ。実物になると、彫りが深くて、思った以上にそれっぽい。
構えてみる。
グリップの感触はある。だが、弾倉がどこにあるのか分からない。というより、弾倉という概念が存在しない。
左目は使えない。王じゃないからだ。
仕方なく、通路の壁に向けて引き金を引いた。
音は、しなかった。
反動も、なかった。
代わりに、拳大の白い光が飛んで、壁にぶつかって弾けた。
土が、抉れた。
あれ。普通だ。
いや、普通に威力はある。壁に人の頭くらいの穴が開いている。だが、想像していたのと違った。
俺が期待していたのは、もっとこう、闇を撃ち出すやつだ。黒い光が虚空を裂いて、当たったものが無に還る、みたいなやつ。
出てきたのは、白だった。
設定を思い出す。この銃について、この頃の俺はこう書いていた。
——この銃は、持ち主の魔力量と属性によって、弾の大きさとタイプが変わる。
つまり、出てくるものは銃が決めるんじゃない。撃った人間が決める。
そして今の俺は、王じゃない。
銃を降ろしている以上、俺はただの一ノ瀬朔で、MPは61。属性はたぶん無属性。
つまりこれ、俺の実力がそのまま出るタイプの武器だった。
道理で拳大なわけだ。
もし王の状態で撃てたなら、たぶんとんでもないものが出る。王の内側には終わらせてきたもの全ての残滓が沈んでいる、とか書いた記憶がある。
だが、王のときは武器が持てない。
この頃の俺、そこまで考えてなかっただろ。
もう一度引いた。また飛んだ。左手のほうも引いた。飛んだ。
弾数の概念はないらしい。減るのはたぶんMPのほうだ。
「これ、地味に強くない?」
言ってから、気づいた。
強い。弾切れがないのは、それだけで強い。
だが、問題が二つある。
一つ、光る。音がしないぶん、暗いダンジョンで撃つと光だけが走る。めちゃくちゃ目立つ。
二つ、構えが決まりすぎる。
二丁拳銃である。大口径で、魔術回路がびっしり刻まれた、黒いハンドガンの二丁拳銃である。
これを両手に構えた高校生が、暗い洞窟で白い光を撃っている。
鏡がなくてよかった。あったら正視できなかったと思う。
人前では、絶対に使えない。
結局、俺が人前で使えるのは、無銘くらいしかないのだった。
帰り道、バス停でバスを待ちながら、俺はさっきの自分を思い返していた。
黙っていればいい、と思った。
思った3分後に「フッ……鈍いな」と言っていた。
つまり、あの案は最初から成立していない。俺は、口を開けば何か言う。言わずにいられない。
だったら、考え方を変えるしかない。
黙るのが無理なら、何を言うかだ。
たとえば、意味深なやつ。
短くて、それっぽくて、聞いた人間が「何か深い理由があるのかもしれない」と勝手に解釈してくれるようなやつ。
「——フッ、見えているぞ」
バス停で、俺は小さく口に出してみた。
何も見えていない。田んぼしかない。
だが、悪くない気がした。
この一言なら、何にでも使える。敵の攻撃が見えたときにも使えるし、見えていないときにも使える。聞いた相手が勝手に「何かを見抜いている」と思ってくれる。
問題は、これを人前で言えるかどうかだ。
言える気は、まったくしなかった。
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