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第19話 助けた瞬間、口が勝手に...

 帰ろう、と思った。


 試したいものは試した。時間も、魔眼も、剣も、銃も。収穫としては十分すぎる。


 外套を鞄に押し込んで、通路を戻る。第1階層の入口はもうすぐだ。


 バスの時間を調べようとスマホを出したところで、聞こえた。


 悲鳴だった。


 女の声。距離は、たぶん100メートルもない。通路の奥、俺が来たほうとは別の枝道だ。


 足が、止まった。


 人がいたのか。


 考えてみれば、駐輪場に自転車が二台あった。俺の他にも、誰かが潜っていたということだ。


 もう一度、声がした。


 今度は言葉になっていた。


「――っ、来ないで!」


 完全に、やばいやつだった。


 俺は通路の壁に背中を預けて、2秒だけ考えた。


 助けに行けば、見られる。


 今の俺は素のLv69で、素のままでも多少は戦える。だが「多少」だ。何がいるか分からない状況で、素で飛び込むのは自殺行為に近い。


 王になれば助けられる。だが王になれば、顔が変わって、口が勝手に喋る。


 見ず知らずの他人の前で、厨二病を全開にすることになる。


 いや。


 考えるまでもなかった。


 2秒も使ったのが恥ずかしいくらいだ。


 鞄から外套を引き出して、羽織る。


 フードを深く被る。視界の上半分が影に沈む。


 息を吸う。


「――劫初(ごうしょ)に先んじ、劫末(ごうまつ)に後(おく)る」


 五行を、一息で言い切る。


 走った。


 世界が遅くなる。足が地面を蹴るたび、土が弾け飛ぶ。100メートルが、数秒だった。


 枝道を曲がった先。


 開けた場所に、人が倒れていた。


 女の子だ。若い。たぶん20歳前後。動きやすそうな軽装備で、腰に細身の剣を吊るしている。


 片足が、床に沈んでいた。


 罠だ。土の床が、くるぶしの上まで飲み込んでいる。もがいているが、抜けていない。


 そして、その周囲を囲んでいるもの。


 蛙だった。ジャイアントフロッグ。


 一体や二体じゃない。10体以上が、じりじりと距離を詰めている。


 左目を向けた。


 罠:捕縛沼(作動中)

 周囲個体数:十四


 十四。


 罠に落ちた獲物を、群れで囲んで喰う。そういう作りになっているらしい。


 女の子がこっちを見た。


 目が合った。


 助けを呼ぼうとしたのか、口が開いて、そして固まった。


 ああ、そうだ。


 今の俺は、黒い外套に深いフードで、ダンジョンの奥から現れた何かだ。


 向こうからすれば、蛙より怪しい。


 大丈夫ですか、と言おうとした。


 言えるわけがなかった。


「――案ずるな」


 自分の声が、低く響いた。


 あ、やばい。


「汝の終わりは、今日ではない」


(黙れ)


 頭の中で叫んだが、口は止まらなかった。


 なんでこんなときに、一番かっこつけたやつが出てくるんだ。「大丈夫か」でいいだろ。四文字で済むだろ。


 蛙が一斉に跳んだ。


 考えるより先に、体が動いていた。


 一番手前の一体を蹴り飛ばす。素手だ。


 だが、Lv69の王の拳は、蛙一体を壁まで飛ばすには十分すぎた。


 着地と同時に半身になる。左から二体。因果ノ魔眼が、舌の軌道を線にして見せる。


 線の隙間に体を通して、二体まとめて蹴り払った。


 砂になって消える。


「――下がっていろ」


 言うつもりはなかった。だが言った。


 女の子が、何度も頷いていた。


 残り十一体。


 囲まれているのは俺じゃない。彼女だ。だから、内側から外へ弾き出す形で動く必要がある。


 彼女の前に立った。


「――我が背に、何人たりとも至らせぬ」


 本当にやめてくれ。


 全力で恥ずかしいのに、全力で体は動いた。踏み込んで、殴って、蹴って、また踏み込む。蛙が一体ずつ砂になっていく。


 1分もかからなかった。


 最後の一体が消えたとき、開けた場所には、俺と彼女だけが残っていた。


 彼女の足元にしゃがみ込む。


 土が、固まって足首を掴んでいた。指でつついてみると、思ったより硬い。


 罠の解除方法なんて知らない。知らないので、力で割った。


 乾いた音がして、土の塊が砕ける。


「あ、」


 足が抜けた。彼女がバランスを崩しかけたので、腕を掴んで支えた。


 怪我はしてないか、と聞きたかった。


「――歩けるか」


 まだマシな部類だった。ぎりぎり、人間の言葉だ。


「……はい。あの、ありがとうございます」


 声が震えていた。当然だと思う。


 彼女が顔を上げる。フードの奥を覗き込もうとして、届かずに視線をさまよわせた。


 そこで、俺は気づいた。


 彼女の胸元。小型のカメラが、こちらを向いている。


 赤いランプが、点いていた。


 え、待って。撮られてる。


 配信だ。この子、配信しながら潜っていたのか。


 体が固まりかけたが、王の状態がそれを許さなかった。俺の背筋は勝手に伸びたままだった。


 落ち着け。フードは被っている。だが、どう映っているかは分からない。


「あ、あの!」


 彼女が一歩前に出た。


「お名前を、伺ってもいいですか。助けていただいたので、その、ちゃんとお礼を」


 名前。


 名前は言えない。一ノ瀬朔とは言えないし、もう一つのほうはもっと言えない。


 だから俺は、黙ることにした。


 黙って、背を向けて、歩き出せばいい。それが一番いい。


 そう思った。


 思ったのだが。


「――名乗るほどの者ではない」


 言ってしまった。


 しかも、なんか、決まってしまった。


 決まってしまったのが、一番きつい。


「我が名は、汝が知る必要のないものだ。ただ一つ覚えておくがいい」


 やめろ。


「この地は、汝が立つべき場所ではない。次は、もっと浅きところから始めよ」


 言い切って、俺は歩き出した。


 振り返らなかった。振り返れる状態じゃなかった。


 通路を曲がって、姿が見えなくなったところで、俺は壁に手をついた。


 王を解く。


 前髪が戻る。体が重くなる。


 そして、正気も戻ってきた。


「うわああああああ……」


 声を殺して、その場にしゃがみ込んだ。


 名乗るほどの者ではない。


 次は、もっと浅きところから始めよ。


 言った。全部言った。初対面の女の子に、真顔で。


 しかも、カメラが回っていた。


 終わった。


 いや、待て。名前は言っていない。それだけは確かだ。


 顔は、どうだろう。


 フードは被っていた。被っていたが、どこまで隠れていたのかは分からない。しゃがみ込んだときに覗き込まれたかもしれないし、腕を掴んだときに近づきすぎたかもしれない。


 思い返すほど、自信がなくなっていく。


 確かめる方法が、一つだけある。


 その配信を、見ればいい。


 俺は震える手でスマホを出して、バスの時間を調べた。次は17分後だった。


 その17分が、人生で一番長かった。

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