第10話 死にかけたら、恥ずかしさが消えた
恥ずかしいとか、そういう感情は、もうどこにもなかった。
あったのは、痛みと、血の味と、目の前に迫る錆びた刃だけだ。
人間、本当に死ぬときは照れない。
息を吸った。肋骨が悲鳴を上げた。それでも、声は出た。
「――劫初に先んじ、劫末に後る」
岩の巣に、声が響いた。
一音も濁らなかった。噛むわけがない。この言葉を、俺は三年間書き続けた。
錆びた大剣が、振り下ろされる。
横に転がった。肋骨が軋む。刃が、さっきまで頭があった岩を叩き割った。
「――虚無すら無き冥漠に萌し、神を啖い、刻を鎖す」
前髪が、一筋だけ伸びた。
体が、ほんの少し軽くなる。
二撃目。今度は、さっきより見えた。半歩ずれて、刃の横をすり抜ける。
「――葬りし劫は幾兆。悉皆、我が背の灰燼」
右目が、黒く染まっていくのが分かった。
ゴブリンが三体、左右から跳びかかってくる。一体目の顎を、拳で打ち上げた。さっきまでとは、手応えが違った。
「――遍く次元よ、宇宙よ、劫よ。稽首し、其の名を刻め」
左目が、白くなった。
世界が、遅くなり始める。
飛びかかってきた二体目と三体目が、空中で止まって見えた。
「――始マリノ終焉、還ラズノ地ノ主」
言い切った。
世界が、完全に遅くなった。
振り下ろされていた三撃目の大剣が、止まって見える。
前髪が、視界の端で揺れた。痛みは消えていないのに、体が勝手に動いた。
そこから先は、よく覚えていない。
断片だけは、残っている。
最初に覚えているのは、床を蹴った感触だ。
岩が砕けた。踏み込んだだけで、足元の岩が砕けた。
数メートル先に転がっていた槍まで、一歩だった。
柄を掴んだ瞬間、青い光が手の中で膨れ上がった。さっきまでの、ぼんやりした明るさじゃない。目を開けていられないくらいの蒼だった。
「――薙ぎ払え」
振り向きざまに槍を走らせた。
三体が、同時に飛んだ。壁まで届いて、当たる前に砂になった。
声は、止めなかった。
止めたら消える。それだけは、頭のどこかが覚えていた。
「我が前に立つな。我が前に立つということは、終わるということだ」
言っている意味は自分でも分からない。だが、口は勝手に動いた。中学三年間、このノートを書き続けた口だ。台詞のストックだけは無限にある。
(見える)
視界が、やけにはっきりしている。
ゴブリンの動きが、一つ残らず読める。どいつが次に跳ぶのか、どいつが逃げようとしているのか、見れば分かる。
背後から一体。振り向かずに、石突を後ろへ突き出した。当たった。
「背後を取ったつもりか。我に背後など無い」
右から二体。踏み込んで、穂先で一体を貫いたまま、そのまま横へ振り抜く。刺さっていた一体が、もう一体を巻き込んで消えた。
「――一なる終焉は、二つを分かたぬ」
(突いて、抜いて、薙ぐ。突いて、抜いて、薙ぐ)
頭の中では、そればかり繰り返していた。口から出ているのは、まったく別の言葉だった。
「嘆くがいい。汝らの悲鳴は、我が凱歌の伴奏にすぎぬ」
誰かが叫んでいた。たぶんゴブリンだ。
その悲鳴が、群れ全体に広がっていくのが分かった。
逃げようとした個体もいた。壁際へ走っていく背中が見えた。
「――逃さぬ」
俺は槍を投げた。
「穿て、神喰らう蒼閃の槍」
穂先は背中を貫いて、そのまま岩壁に突き刺さって、次の瞬間には俺の手の中に戻っていた。
戻ってくる。本当に戻ってきた。
この頃の俺が「願いが込められているから還る」とか書いていた、あの一行のせいで。
「我が手を離れた槍が、我が手に還らぬ道理は無い」
言いながら、自分で自分に寒気がした。寒気がしたが、止まれない。
そこから先は、もっと曖昧だ。
突いて、薙いで、投げて、また手の中にある。何度繰り返したかは分からない。
二十体は数えた。そこから先は数えていない。
一度、通路のほうへ逃げようとした一団がいた。十体以上まとまって、入口に向かって走っていた。
追いついた。
槍を投げて、一番後ろを貫いて、戻ってきた穂先で次を薙いだ。それだけで半分が消えた。残りが振り返って、悲鳴を上げて、散った。
散ったほうへ走った。
「――どこへ行く」
壁際に追い込んで、まとめて薙いだ。
そこからは、向こうが崩れ始めた。
群れが、群れとして動かなくなった。前に出るやつと逃げるやつが混ざって、互いにぶつかって、勝手に転んでいる。
恐慌だ。
その中を、俺は歩いた。
歩きながら、届く範囲を全部薙いだ。
抵抗は、ほとんどなかった。棒が体に当たる感触はあるが、痛くない。そういう強度の攻撃じゃなくなっている。
何十体消したのか分からない。
分からないが、床のドロップが増えていくのは見えていた。牙が、毛皮が、踏むたびに足の下で散らばっていく。
そして、錆びた大剣が横から来た。
あの上位種だった。
さっきまで、視界いっぱいに膨らんで見えた影。俺を一撃で壁まで飛ばした相手。
その一撃が、今は、ゆっくり見えた。
(遅い)
「――遅い」
口が、同じ言葉を吐いた。
受けなかった。下をくぐった。
道場では習っていない動きだ。体が勝手にやった。
「汝は強い。この階層において、汝は間違いなく最強であろう」
懐に入る。槍を両手で握り直す。
「だが、汝の最強は、この岩の中だけのものだ」
下から上へ、突き上げた。
硬いものに刺さる感触。
そこで初めて、その巨体が声を上げた。
「我が知る終焉は、汝の知る全てより永い」
青い雷が弾けて、視界が真っ白になった。
白が晴れたとき、まだ立っていた。片腕で俺を掴もうとして、届かずに空を切った。
「――沈め」
もう一度突いた。
「沈め。沈め。汝の名は、誰の記憶にも残らぬ」
それから、また突いた。何度も突いた。
言葉も、止めなかった。何を言っていたのかは覚えていない。ただ、口だけは動き続けていた。
相手が動かなくなっても、しばらく気づかなかった。
気がついたら、俺は膝をついていた。
岩の巣は、静かだった。
緑色のものは、一体も動いていない。壁際にも、岩棚にも、奥の暗がりにも。
床一面に、小さな牙と毛皮の切れ端が散らばっていた。ドロップだ。数えられないくらいある。
そして、目の前。
一段高い岩の下に、それは落ちていた。
黒い、拳くらいの大きさの結晶。中で赤い光が脈打っている。
左目が、勝手に読んだ。
ゴブリンエンペラーの魔核
倒したのか。
俺が。
その瞬間、全身から力が抜けた。
痛みが一斉に戻ってくる。肋骨、腕、背中、頬。息をするだけで胸が軋む。
手から槍が滑り落ちて、青い光が消えた。
ああ、ドロップしてる。ってことは、勝ったんだ。
勝ったなら、いいか。
そこで、意識が切れた。
次に目を開けたとき、最初に思ったのは「寒い」だった。
岩の床は冷たい。体のあちこちが固まっていて、起き上がるのに二回失敗した。
周りは相変わらず暗い。ドロップが散らばったままだ。
どれくらい寝ていたんだろう。
ポケットからスマホを出す。ダンジョン内は圏外だが、時計は動く。
画面を見た。
午前6時42分。
「は?」
入ったのは、昨日の午前10時だ。
20時間、経っている。
血の気が引いた。痛みとは別の理由で、指先が冷たくなった。
そして。
長時間戻らない場合は、自動で通報される。
三島さんの声が、やけに鮮明に蘇ってきた。
俺は転がっていた魔核とドロップをかき集めて、痛む体を引きずって通路を戻った。隠し通路を抜けて、1階層に出て、出口のゲートへ。
外はもう明るかった。
そして、フェンスの外に、人が集まっていた。
ギルドの制服が何人か。見たことのない大人たち。そのうちの数人は、明らかに装備を固めている。救助用の担架まで用意されていた。
捜索隊だ。
誰を探しているのかは、考えるまでもない。
ゲートをくぐった瞬間、認証音が鳴った。
全員が、こちらを向いた。
「いた! 出てきた!」
「一ノ瀬朔さんですね! 怪我は!」
声が飛んでくる。人が駆け寄ってくる。俺は反射的に一歩下がった。
その人だかりの中から、一人が真っ先に抜け出してきた。
フル装備の、探索者だった。
黒い戦闘服に、見るからに高そうな防具。その辺の新人とは格が違うのが、素人目にも分かる。
顔を見て、俺は固まった。
姉だった。
お姉ちゃんだった。部屋着のパーカーでもなければ、すっぴんでもない。
上位ランクの探索者が、そこにいた。
「朔」
低い声だった。
「20時間、どこにいたの?」
俺は、全身の痛みも忘れて、その場に立ち尽くした。
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