新橋の裏路地
「円安って最高だな」
とジェイクは言った。
新橋の、ガード下から少し外れた裏路地の小さな店。提灯がいくつもぶら下がっている。観光サイトには載っていないが、こういう場所こそ“本物”だと、彼は信じていた。
「安いし、誰も英語わかんねーしな」
隣でマットが笑う。二人はわざと大きな声で話した。半分は冗談、半分は優越感だった。
「見ろよ、あのオヤジ。絶対何言ってるかわかってないぜ」
カウンターの向こうでは、年配の店主が黙々と魚を焼いている。手際は正確で、無駄がない。だが視線は一度もこちらに上がらない。
ジェイクは肩をすくめた。
「な? だから言ったろ。ここじゃ俺たちが王様だ」
ビールが運ばれてきた。泡はきめ細かく、グラスは冷えている。運んできた若い店員は、軽く頭を下げて、何も言わずに去った。
マットが英語でつぶやく。
「チップもいらねーしな。楽園だよ、ここ」
二人は笑った。
隣の席には、スーツ姿の男が一人で座っていた。スマートフォンも見ずに、静かに箸を動かしている。会話には一切反応しない。
ジェイクはその無関心が少し気に入らなかった。
「なあ、日本人ってさ、こうやって黙ってんのが礼儀なんだろ? 便利だよな。文句も言わない」
「言えない、の間違いだろ」
また笑いが起きた。
店の奥で、炭がぱち、と弾けた。
料理が運ばれてくる。焼き鳥。焦げ目のついた皮、滴る脂。ジェイクは一口かじって、思わず目を細めた。
「……うまいな」
「だろ? でもさ、こういうのも結局さ——」
言いかけて、マットはビールをあおる。
「全部安いからだよな。円安様様ってやつ」
ジェイクは頷きながら、わざと声を張った。
「サンキュー、ジャパン!」
誰も反応しない。
店主は焼き続ける。店員は静かに皿を片付ける。隣の男は、ただ箸を動かす。
音だけがある。炭の音、食器の触れ合う音、遠くの車の走る音。
会話は、どこにも引っかからないまま、空中で消えていく。
ジェイクは、少しだけ違和感を覚えた。
——本当に、通じていないのか?
だがすぐに打ち消した。気にすることじゃない。
彼は最後の一串を食べ、立ち上がった。
「行こうぜ」
会計を済ませる。
店員は丁寧に礼をする。
完璧な無関心。
完璧なサービス。
店の外に出る直前、ジェイクは振り返った。
なんとなく、何かを置いてきた気がした。
その時だった。
隣にいたスーツの男が、立ち上がる。
ゆっくりと、自然な動きで。彼はジェイクたちの方を見た。
初めて目が合う。
そこには何もなかった。ただ、澄んだ水面のような静けさ。
男は、流れるような発音で言った。
"You enjoyed the food, I hope."
ジェイクの背中に、冷たいものが走る。
理解していたのか。全部。
男は、ほんのわずかに呼吸を整えた。
それから、一歩だけ距離を置くようにして、続けた。
"Wabi-Sabi Fuck."
意味は、わからなかった。
だが、その言葉は怒鳴り声よりも重く、笑い声よりも鋭かった。
空気が、そこで区切られた気がした。
これ以上は、入ってはいけない。
そう言われた気がした。
マットが何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
ジェイクは笑おうとして、やめた。
「……行こう」
二人は店を出た。
外の空気は冷たく、やけに現実的だった。
しばらく歩いてから、マットが言った。
「今の、なんだったんだ?」
ジェイクは答えなかった。
頭の中で、あの言葉が繰り返される。
意味はわからない。
でも、わかってしまった気がする。
あれは、拒絶だった。
でも、怒りじゃない。
線だった。
静かで、動かない線。
ジェイクは振り返らなかった。
ただ、自分たちの声がやたらと小さくなっていた。




