夜の使徒
「邪神よ。私はミナと申します。どうかこの屋敷を、あなたの御座所とお定めください」
邪神は、見向きもされなかった。
細く長き御体をゆらりと揺らし、窓辺の高みへとスッとお移りになる。
その御眼は、遠き虚空を見据えておられた。
私には、窓からは何が見えているのかは知れない。
されど邪神には、確かに、何かが見えているのであろう。
邪神には、二つのお顔がおありであった。
昼のお顔。
暖かき陽光の差し込む刻、邪神はすべてを赦された。
私が身を粉にして果たしたお役目の成果を、あの方は決まって散らし、世界を揺るがすほどの御声でお唸りになる。私はその振動に魂を揺さぶられ、他の何事も考えられなくなるのだった。
夜のお顔。
深更の刻、邪神は目覚められる。
轟音と共に、棚の上の聖具が落とされる。積み上げた書物が崩され、廊下では何かが転がりだす。夜明けには、邪神は再び日向で御眠りになっていた。
何事も、なかったかのように。
私は一度、その詳細を記録したことがある。
香炉、水差し、私が長い年月をかけ読み進めたこの世の理を示す書物など。
されど、その記録は今、手元にない。
いつの間にか、邪神がそれを、破り散らしておられたのである。
邪神は、時に捧げ物をされることがあった。
ある朝、臥所の枕元に、骸が置かれていた。
その亡骸は、どこか丁寧に、整えられていた。
私はしばらく、それを見つめた。
これが、この方なりの言葉であると、しかし、凡庸な私には到底理解ができない、この世の理であった。
邪神は私如きには解読のかなわぬ目をお持ちなのであろう。
瞬きひとつ、鼻先のひとつの動きに、途方もない意味が宿っているのかもしれない。
私はその骸を丁寧に扱うよう命じ、躯は庭の日当たりのよい土へと還した。
邪神は、その様子を、じっと御覧になっていた。
その夜、漆黒の空間で、私は目を覚ました。
何も見えない。
——私の心臓が、跳ねあがる。
見つめられている。
闇の中から、突然オリオンの輝きが生じた。
私の胸に、重力が生まれる。
邪神が、私の胸にその手を置いている。
その御眼が、暗闇の中で仄かに光っていた。
私は、その重圧に耐えた。
けして動いてはならない、その確信だけがあった。
邪神はしばらくそのままでいらっしゃり、やがて静かに、そのお顔を私の首筋へと近づけられた。冷たく、乾いた鼻先が触れる。
それだけだった。
邪神はまた、闇へとお戻りになった。
私はひとり、目をつぶり、朝日を待った。
何が起きたのか、私には分からない。
ただ、何かを—— 確かめに来られたのだと、思った。
この屋敷で、邪神に使えて、もうすぐ二十年になる。
邪神が何をお望みなのかを、私はいまだ理解できていない。
されど確かなことがひとつある。
朝、目覚めた私の足元で、邪神が丸くなっていらっしゃる。
それだけで、この世界が始まるのだ。
——我が邪神、クロ、享年二十二歳。
みっともなく泣いた。




