勇者誕生 神速にして混沌なり
その御子が城へ降臨されたのは、春のことであった。
王国は歓喜に沸いた。
されど重鎮は知っていた。
この御方は、決して人の理のみにて測れる存在ではないと。
「女神よ。感謝します。我らの命を懸けてこの子を守ることを誓います」
静かな王室の中、王と妃は祈りを捧げた。
それから、百の昼と夜が巡り――洗礼の刻を迎える。
教会を満たす厳かな光の中、神官の祝福を受けられたその刹那。
眠りから覚めた小さき君の御手が、神官の持つ世界樹の枝をしっかりと捉えた。
神聖なる枝を握って離さないその小さな掌――何かを感じ取ったのか、神官は驚きに目を見張り、そのまま王子へと枝を託した。そう、この幼き王子はすでに、強大なる魔力を有していたのである。
ある日のこと。
王子は不思議な言葉を口になされた。
「……だっ」
わずか一音。されどその一言は、波動となって王国全土を震わせた。
この世界はかつて、神の言葉によって創造されたとされている。
「ああ……新たな光が、いま世界を照らしてゆく」
神官はこの大いなる奇跡に、震えながら感謝の祈りを捧げた。
その日、王国の食糧庫が解放された。
それからしばらくの間、王子は大地に身を伏せるようになられた。
まるで、大地から紡がれる言葉をじっと理解されるかのように。
そして、クルリと転がられたかと思えば、今度は天からの言葉を全身に浴びられる。
その大いなる言葉をすべて理解されたのであろうか、やがて次の地へ、大地の声を確かめるように全身を這って進み始められた。
その修練が、実を結ぶのは、あまりにも早すぎた。
やがて王子は、大地だけでは飽き足らず、城壁そのものへと興味を示されるようになった。大人たちの預かり知らぬ間に、ひとつの秘術を習得されていたのである。
——壁移動である。
壁がある場所は、すべて王子の領域となった。
棚の下、机の角。扉の隙間、そして——あろうことか、寛いでいた獣の尻尾。
王子はおあらゆる場所へ、壁や調度品を伝って果敢に進軍された。
「王子!お待ちください!」
護衛や侍女たちは翻弄され、その後を必死に追うこととなったのである。
***
「本当によろしいのですか?」
「ええ、構いません。王子と言えども、避けては通れぬ試練。しかと受けさせます」
妃の断固たる決意を受け、古の錬金術師が一斉に動き出した。大地の祝福から錬金されたし、その聖なる領域に賢者が陣を刻む。それは遠方より、厳重な戦車に護衛され、王城へと運び込まれた。
試練の日がやってきた。
その小さな背には、ずしりと重き「白き聖典」が括り付けられる。
王としての器を示すための、過酷なる儀礼。
王子は、自ら召喚された「魔導車」の前に立たれた。その小さな御手でしっかりと手綱を掴むと、背後から圧し掛かる聖典の重圧に抗うかのように、一歩、また一歩と前進されたのである。
「おおおおおお……っ!!!」
王国の未来が、いま確かにその足で歩み始めたのだと、一同は確信した。
だが、歓声は突如として悲鳴に似た驚愕へと変わる。
静止させようとする護衛の手をすり抜けると、王子は禁じられた「試練の間」へと歩を進められたのである。あまりにも早すぎるそのご決断。人々は幼き王子の背に、ただ祈りを捧げるほかなかった。
暗がりの奥から、小さな足音が再び響きだした。
その小さき御手には、世界を塗り替える象徴『聖筆』が、固く握りしめられていた。
その夜、王子の祝賀が開催された。
遠方の同盟国たる諸王からも、多種多様なる財宝や祝いの品が次々と運び込まれる。
集まった一同は何度も王子を褒めたたえた。
祝賀の宴が終わり、満月が西の地平へと傾こうとするころ。
静寂に包まれていた王城に、突如として激しい咆哮が響き渡った。
——王子が暴走する。
王と王妃は直ちに駆けつけ、封印されし精霊の器を開いた。
白き煙が立ちのぼり、湧き出したのは、精霊王のしずく。
「王子、どうかお飲みください!」
さされど王子は頑なに首を横に振られた。
王子の眼から放たれた大粒の雫は、光の粒となり、床一面へと激しく飛び散った。
力尽きた二人に代わり、精鋭たる側近たちが立ち上がる。
護衛長が必死にもがき苦しむ王子の身体を抱き上げる。
聖女が、魂を凪ぐための古き歌を捧げる。
これこそが、いにしえより受け継がれし『鎮めの連鎖』。
しかし――王子はさらに強く反発なされた。
その強大な力の前に護衛長は倒れ、聖女の歌声は王子の凄まじい叫びによって掻き消された。
万策尽きたか。
なすすべもないのかと、城内は騒然となる。
——その時である。
闇の眷属である「黒き獣」が音もなく王子の頬へと近づいた。
先ほどまで嵐のように荒れ狂っていた王子は、その黒き毛並みへと小さな手を伸ばされると、憑き物が落ちたかのように、そのまま深い眠りにつかれたのである。
***
歳月が流れた。
ある朝。侍女は尋ねた。
「王子、今日は何をして遊ばれるのですか?」
王子は、一言だけ答えられた。
「……べつに」
王子はそう言うと、自室に戻られた。
侍女たちはその夜、台所の小さなテーブルに集まると、ヒソヒソと話しながら静かに酒を飲んだ。
皆が去った後、侍女長は一人、冷たい茶を飲んだ。
——昨日まで追いかけていたのに、と思いながら。




