第30話:『外部有識者の特別視察と、一番前の仏』
「――それでは、これより五時間目の授業を始めます」
月曜日の昼下がり。担任の先生が、いつもより三倍は張り詰めた声でそう告げた瞬間、教室内には冷たい緊張感が張り巡らされた。
ついに来てしまったのだ。教頭先生の睡眠時間を二時間まで削り取った、あの”外部有識者の特別視察”の本番当日が。
新学期の席替えにより、廊下側の一番前という最も大人の目に留まるハザードゾーンに配置された佐藤は、今や完全に魂の抜けた彫刻のようになっていた。
スマホ没収の一ヶ月延長と放課後四時間の特訓室刑に怯える彼は、制服の第一ボタンを喉元までギチギチに閉め、背筋を直角に伸ばし、前方の黒板だけを凝視して完全に”仏”のフリをして震えている。
その前後左右を、学級委員長の白雪さんと、几帳面な高橋くん、そして教頭先生と担任がセレクトした真面目な生徒たちがガチガチに包囲していた。
だが、窓際の一番後ろという聖域を手に入れた忠敬の耳には、教室の最前線から、小人たちの尋常じゃない悲鳴が届いていた。
『おい!大人の本隊が廊下を歩いてくるぞ!』
佐藤のズボンのベルト穴で、キーホルダーの小人がガタガタと震えながら叫ぶ。
『うちのご主人(佐藤)、さっきから「仏の佐藤……俺は仏像……」ってブツブツ呟きながら、緊張のあまり右手でシャーペンを思いきりノックし続けてる! 』
『このままだとバネが限界突破して、視察団の目の前で部品が四散するぞ!』
『何だと!? シャーペンの自爆は我が班の規律に反する!』
高橋くんの筆箱の小人が、机の隙間から必死に手を伸ばした。
『高橋様! 前方の危険因子へ、予備の滑らかな鉛筆をパスするのです!』
――コトッ。
次の瞬間、高橋くんがその慎重な性格ゆえに、佐藤の異常なノック音と無意識の貧乏揺すりにいち早く察知した。先生の目を盗んで、スッと自分の予備である綺麗な鉛筆を佐藤の机へと滑り込ませる。「これ使いなよ」という無言のフォローだ。
『ふぅ……鉛筆の滑らかな芯により、ノックの爆発ハザードは回避されたわ!』
白雪さんのお弁当のフタ裏から口コミを聞いた、彼女の歴史ノートの小人もホッと胸をなでおろす。
『白雪様も今、わざと床に消しゴムを落とすフリをして、佐藤くんのバッグの紐が通路に飛び出しているのを足先で綺麗に押し戻したわ! 完璧な連携ね!』
(……なるほど。一番前の防衛線は、白雪と高橋のおかげで完璧に機能してるな)
教室の一番後ろの席からその様子を静かに眺め、佐藤の尻ぬぐいをしなくていいことに忠敬は安堵していた。これなら今日の視察も、自分は遠くから高みの見物ができる。教頭先生の残り少ない胃壁も、これでなんとか守られるはずだった。
ガラガラ、と教室の後ろのドアが静かに開いたのは、まさにその時だった。
校長先生と、教頭先生を先頭に、黒い高級スーツに身を包んだ白髪の”外部有識者”の老人たちが、三人揃ってぞろぞろと教室の後ろから入ってきたのだ。
教頭先生のネクタイの小人が『教頭の睡眠時間は今日も一時間半だ! 限界突破している!』と悲鳴を上げている。
視察団の大人たちは、一番後ろのドア付近――つまり、忠敬のすぐ真横のスペースに立ち、厳しい目で授業の様子を見つめ始めた。
だがその瞬間、忠敬の左手首がすっと微かに熱を帯びた。
『――主。スピーカーの集音マイクをプライベートモードに切り替えた。……お隣、三列目の一番後ろの席の林田に、異常なバイタルを検知。彼女の持つ電子辞書の小人が、今まさに絶望的な叫び声を上げているよ』
(林田……? 佐藤じゃなくて、林田がどうしたんだ?)
忠敬はさりげなく斜め右の席の林田さんへと視線をやった。
すると、彼女の電子辞書の液晶の隙間から、小さな小人が涙目で必死にこちらを向いて手を振っていた。
『誰か! 誰か助けて! ご主人(林田)が、休み時間にやってたスマホのゲームアプリを閉じるのを忘れてて、画面がそのままだからペアリングされてるの! 校長先生たちが入ってきたことで慌てたご主人が、誤タッチで【電子辞書とスマホの連動Bluetooth・最大音量テスト再生ボタン】を押しちゃったの! 接続が完了したら、この教室の一番後ろで、凄まじい爆音のゲームBGMがスピーカーから鳴り響いちゃうわ!! あっ! あと十秒!!!』
『何だって!? 大人の検閲班の真ん前で爆音再生だと!?』
周囲の教科書の小人たちも一斉に青ざめる。
(林田お前、何てことをしてくれたんだ……!)
忠敬は内心で凄まじい戦慄を覚えた。
今まさに、自分のすぐ真横には、眉をひそめた視察団の老人たちと、冷や汗で顔を真っ青にした教頭先生が立っているのだ。
ここでそんな爆音ハザードが発生すれば、林田さんが処されるだけでは済まない。教頭先生の胃壁は完全に粉砕され、学校全体が文字通り大パニックの連座に巻き込まれる。
カウントダウンはあと五秒。
自分の真横で爆弾が炸裂するのを黙って見届けるわけにはいかない。
佐藤専用監獄から一人だけ抜けてしまった負い目もあり、忠敬はどうにかこの極限ハザードを処理できないかと、猛烈な勢いで脳細胞を回転させ――。
自分の机の上に置いてあった数学の厚い問題集を、わざと手元から滑らせて床へと落とした。
――バッシャァァン!!
静まり返った教室の一番後ろで、文字通り心臓が跳ね上がるような、凄まじい衝撃音が響き渡った。
「ひえっ!?」
真横にいた教頭先生が飛び上がり、視察団の老人たちも「おや、何事かね」と一斉に鋭い視線を忠敬の足元へと向けた。授業をしていた担任の先生も「潜木、大丈夫か」と声をかける。
教室中の全員の意識と”音”が、忠敬のいる一番後ろの席へと完全に集中した、まさにその一瞬の間――。
林田さんの机の上でチカチカと明滅していた電子辞書のペアリングランプが、無音のままスッと消灯した。Bluetoothの接続エラー。タイムアウトにより、接続は不発に終わったのだ。
林田さんの電子辞書の小人が、液晶のフチで涙を流してバンザイをした。
『消えたァァァーーーッ!!! 潜木くんの電撃音響遮断(本の落下)によって、爆音ハザードは完璧に相殺されたわ!!』
「すみません、手が滑りました」
忠敬は無表情のまま、ぶっきらぼうに床の問題集を拾い上げ、何事もなかったように机の上へ戻した。
視察団の老人たちは「ふむ、少しうっかり屋さんだね」と特に気に留める様子もなく、そのまま次の教室へと静かに移動していった。
去り際、教頭先生が「命拾いした……」と言わんばかりに、涙目で忠敬を睨みつけていったのを、忠敬は見逃さなかった。
*
数時間後の放課後。佐藤は「ふぅ……俺、今日マジで彫刻になれたわ!」とヘラヘラしながら、高橋くんと白雪さんに感謝の言葉を述べていた。
その横で、自分のしでかし(未遂)にようやく気がついたらしい林田さんが、自分の電子辞書を胸に抱えながら、顔を真っ白にしてガタガタと震えていた。
忠敬は新しく移動した窓際の一番後ろの席から、カバンを肩に掛け直した。
一番前の「仏」の裏で起きた前代未聞の爆音ハザードを、一番後ろの席からスマートに躱し切った忠敬。
「あの……っ、潜木くん……!」
不意に、正面から小さく、しかし切実な声に呼び止められた。
見上げると、さっきまで青ざめていた林田さんが、真っ赤になった顔を伏せながら忠敬の前に立っていた。彼女の胸元では、電子辞書がぎゅっと壊れそうなほど強く抱きしめられている。
「さっきは、その……本当に、ありがとうございました……! 潜木くんが、わざと本を落としてくれなかったら、私……っ」
そこから先は、恥ずかしさと恐ろしさで言葉にならなかったのだろう。林田さんは涙目のまま、コクンと深く頭を下げた。
クラスの誰も、教頭先生も気づいていなかった、一番後ろの席での電撃救出劇。
その真相を正しく理解し、一生懸命に感謝を伝えてくるクラスメイトの姿に、忠敬は少しだけ面食らい、それからいつも通りのぶっきらぼうなトーンで短く答えた。
「……別に。本当に、ただ手が滑っただけだ」
「え、あ……うんっ!」
忠敬の不器用な優しさを察したのか、林田さんはパッと顔を輝かせると、嬉しそうに何度も頷いて自分の席へと駆けて戻っていった。
『……あ、たった今職員室の教頭先生から追加のログを検知したよ』
林田を見つめていたクロノがふいに顔を上げた。
「なんだ?」
『教頭先生、視察が無事に終わって安心したあまり、デスクで胃薬を3包一気飲みしながら嬉し涙を流しているって』
「……飲みすぎだろ」
教頭先生の胃壁と安眠は守られ、忠敬は佐藤の包囲網から抜け出した。手に入れた最高の静寂と心地よい風を肌に感じながら、忠敬は小さく口元を緩めた。




