第27話:『不覚のマークシート ――小さな救済ライン――』
「……嘘だろ」
放課後の教室。返却された数学の定期テスト用紙を見つめたまま、忠敬は生まれて初めて、完全に思考をフリーズさせていた。
答案用紙の右上に殴り書きされた数字は、無慈悲な【22点】。
原因は明白だった。大問二番の計算ミスに気を取られ、解答欄を丸ごと一列下にズラして記入していたのだ。中身は完璧に解けていたのに、結果は完全なる赤点。
「ギャハハハハ! おい見ろよ高橋! あの冷徹男の忠敬が22点だってよ! マークシートのズレとか、俺でもやらねえマヌケなミスじゃん!」
自分の”砂漠弁当の刑”や”2点”の過去を棚に上げ、佐藤が色黒の顔をこれ以上ないほど輝かせてゲラゲラと大爆笑している。
隣で高橋くんが「あはは……潜木くんでも、そういううっかりミスってあるんだね。でも、これで明日の放課後の”赤点救済用の追試”、佐藤くんと一緒だね」と、少し気の毒そうに苦笑いしていた。
(……最悪だ。あの地獄の補習室に、佐藤と並んで監禁されるなんて……)
忠敬が内心で頭を抱え、深い溜め息を吐いた、まさにその瞬間だった。
忠敬の手首のクロノが、すっと微かに熱を帯びた。
「――主。心拍数の急上昇を検知」
スマートウォッチが警告を発した。画面はただの時刻を表示したままだが、クロノの冷徹な声が、忠敬の耳にだけはっきりと届いた。
『主。不本意なログが刻まれてしまったね。……だが、僕の近距離無線センサーが今、職員室の共有サーバーから、明日の救済用追試の”さらに裏の事情”をキャッチしたよ』
(裏の事情……? 追試に裏も表もあるかよ)
忠敬が一切口を開かず、表情も変えないまま、静かにカバンを肩に掛け直して廊下へ出ると、クロノの声が言葉を続けた。
『明日の数学の追試、ただの救済措置じゃない。数学の鬼教師が「潜木が赤点を取るなど絶対に有り得ん。これは何かのハッキングか、もしくは解答用紙の回収時の紛失トラブルだ」と謎の勘違いをして、激怒している。しして【通常テストの三倍の難易度を誇る、ガチの選抜試験用問題】へ差し替えたログがあるよ。主の頭脳を試すための、完全なる罠だね』
(鬼教師、余計なところで俺のポテンシャルを信じるなよ……!ここが難関校っていったって限度があるだろ!)
普通の赤点レベルだと思って完全に油断していた。
そんなオリンピック級の難問を出されたら、中身を理解している忠敬であっても、対策なしでは二連続で赤点を叩き出してしまう。そうなれば、本当に一ヶ月間のスマホ没収刑に連座することになる。
佐藤なんぞにかまっている暇などない。明日の追試だけはガチで突破しなければならない。
隣を歩く佐藤の暢気な笑い声を完璧に黙殺し、ただ歩行のピッチを上げた。
手首のクロノの明滅が収まり、液晶の画面はただの時刻表示に戻った。
(……選抜試験用問題か。大問五番の、あの数Ⅲレベルの微積分の公式だな。今夜は寝られないな……)
心の中でそう呟きながら、忠敬はまるで危機感のない佐藤の「今日マッグ一緒に行こうぜ~!」という大声を背中で聞き流し、家路を急いだ。
*
ガチャリ、と自宅の自室のドアを閉め、鍵をかけた。
『おかえり』
『おかえり』
部屋中の小人たちの温かいお帰りコールを受けながら、忠敬はカバンを床に置き、左手首のスマートウォッチを外して机の上に置いた。その瞬間、文字盤からクロノがすっと這い出て、タイトスーツの袖をスマートに直しながら、不敵な笑みを浮かべた。
『やれやれ、主のマークシートのズレを計算に入っていなかったのは、僕のマネジメント不足だね。だが、今夜中にあの鬼教師の過去の出題傾向ログを100%解析してあげるよ。主の脳細胞をフル稼働させて、明日の罠を躱してみせようじゃないか』
「ああ、頼む。……本当に助かるよ、クロノ」
机の上の数学ノートの陰から、色あせた黒いハンカチの小人がひょっこりと顔を出し、忠敬そっくりのぶっきらぼうなトーンでフンと鼻を鳴らした。
『いつも他人のことばっかり首突っ込んでるから、自分の足元をすくわれるんだ。……ほら、早くペンを握れ。今夜は俺が、お前の右手の汗を全部吸い取ってやるからな』
「頼む」
事態を見守っていた部屋中の小人たちが、一斉に口々に話し出す。
『22点』
『主人が赤点』
『レアだね』
『勉強する?』
『する』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
数秒の沈黙の後、部屋中にシャーペンを走らせるノートの摩擦音と、クロノの高精度なデータナビゲーションの声だけが静かに響き始めた。
自分のうっかりミスから始まった、前代未聞の深夜の猛勉強。
明日のテストに向け必死な少年と、手首の優秀な相棒、そして不器用な悪友の絆。忠敬は明日の一発逆転に向けて徹夜で勉強を続けた。




