第2話:『その声は、静寂を切り裂く』
「……白雪さん、落ち着いて」
消しゴムの小人の声に忠敬は強引に思考を切り替え、震える彼女の肩を見つめた。
「とりあえず、この消しゴムは持っておいて。……それと、今日の放課後、一人で帰っちゃダメだ。俺が一緒に帰る」
「え……? 潜木くん、どうして……」
「いいから。頼む」
いつも事なかれ主義で目立たない忠敬の、見たこともない真剣な眼差しに、白雪さんは気圧されたように小さく頷いた。彼女は元来、凛とした優等生だ。恐怖に飲まれそうになりながらも、忠敬の言葉の意図を察しようと今は必死に理性を保っていた。
*
放課後。夕暮れの校舎は、いつも以上に不気味な静けさに包まれていた。
忠敬は白雪さんを伴い、昇降口へと向かう。徒歩通学の2人の足音だけが廊下に響き、どこか緊張した空気が張り詰めていた。
(見落とすな。いつもと違う違和感があるはずだ。それを、全部拾え。犯人の手がかりがあるはずだ)
その時、忠敬の左手首に巻かれた円形のスマートウォッチの文字盤から、低く硬質な男の声が響いた。
「忠敬、心拍数が115に急上昇している。深呼吸を推奨するよ。それと、お隣の白雪さんのストレスレベルも危険水域だ」
彼こそが、忠敬の愛用するスマートウォッチの小人だ。普段から忠敬の心拍数や体調を完璧に管理してくる、極めて合理的で口うるさい、だが頼れる相棒だ。周囲の人間にはただのデジタル時計の画面に見えていても、忠敬の耳にはその冷静な声がはっきりと届いていた。
「……なぁ、お前」
忠敬は白雪さんに聞こえないよう、ボソリと手首に向けて話しかけた。
「何か掴めないか。白雪さんのカバンを開けて、消しゴムを盗み出した奴がこの学校にいる。そいつがストーカーだ」
スマートウォッチの小人は、冷徹な手つきで文字盤のフチに腰掛けた。
「おやすい御用さ。僕自身の近距離無線センサー(Bluetooth)が拾える範囲なら、妙な端末の電波ログをインデックス化できる。それに……僕たちガジェットの小人ネットワークを侮らないでほしい。さっき、教室の片隅で震えていた『没収されたゲーム機』の小人から、泣き言の同期データをキャッチしたよ」
小人が目を閉じ、数秒。ピピッ、と電子音が1回だけ鳴る。ワンテンポ遅れて、忠敬の手首で短くスマートな振動を返した。
「出たぞ。今日の体育の時間、誰もいない教室で、白雪の席に近づいた者がいる。その時、机の中で怯えていたゲーム機の奴が、恐怖のあまりブツブツ呟いていた男の影を見た。――犯人は、白雪のカバンから消しゴムを抜き取り、代わりに『小型のGPS発信機』を底の隙間に滑り込ませた。今もすぐ近くで、そのGPSとペアリングしているスマートフォンがアクティブに通信中だ」
「GPS……!?」
忠敬の脳裏に、最悪の結末がよぎる。すでに白雪さんの位置情報は、リアルタイムで犯人の手元に筒抜けなのだ。
「誰だ、そいつは」
「僕のBluetooth探知範囲に、その登録名がある。端末名は――『ENDO』。今まさに、白雪のGPS信号を追跡しながら、この昇降口に近づいている」
(遠藤先生だって……っ!?)
忠敬の身体が凍りついた。遠藤。いつも穏やかで、生徒想いで、白雪さんの進路相談にも親身になって乗っていた、あの真面目な担任教師。それが、彼女を夜な夜な追い回し、カバンを漁り、GPSまで仕込んだストーカーの正体だった。
「潜木くん? どうしたの?」
不審そうに顔を覗き込んでくる白雪さん。彼女はまだ、信じていた教師がすぐそこで牙を剥いて待っていることを知らない。
「白雪さん、今から俺の言うことを信じてほしい」
忠敬は彼女の手首を掴んだ。
「カバンの底に、GPSが入ってる。仕込んだのは遠藤先生だ。先生が、君のストーカーだ」
「え……? 嘘、だって先生は――」
「嘘じゃない! 俺には、分かるんだ……!」
その時、昇降口のガラス扉の向こうから、長い影が伸びてきた。
「おや、潜木に、白雪。二人で一緒に下校かい? 仲が良いんだね」
にこやかな、しかし底冷えするような笑みを浮かべた遠藤が、そこに立っていた。その左手首で、遠藤のスマートウォッチの小人が「ご主人、獲物を見つけて興奮度がMAXです! 心拍数140!」と下品に大笑いしているのが、忠敬の目にはっきりと映った。
忠敬の言葉を完全に信じたわけではない白雪さんは、それでも遠藤の異様な雰囲気に恐怖し、咄嗟に忠敬の背後に隠れた。その反応を見た遠藤の目が、一瞬で冷酷なものへと変わった。
「白雪、先生が家まで送ろう。最近、変な不審者が出るという噂だからね。さあ、カバンを貸しなさい」遠藤がじりじりと距離を詰めてくる。
大人と高校生。普通に戦えば勝ち目はない。白雪さんのカバンからGPSを叩き壊したところで、目の前の現行犯から逃げ切れる保証はなかった。
(どうする。どうすれば、この最悪の現実を切り抜けられる……!?)
冷や汗が流れる忠敬の手首で、文字盤の小人が、不敵に口元を歪めた。
「主、僕の『緊急通報機能(緊急SOS)』を起動しろ。リューズ(竜頭)を素早く5回以上押すんだ。ただのアラームじゃない、システムレベルでの強制的告発を実行する」
「……よし!」
忠敬は迷わず、右手の指先で丸いリューズを激しく連打した。次の瞬間、昇降口の狭い空間に、鼓膜を鋭く突き刺すような『大音量の警告音』が鳴り響いた。それと同時に、画面にはローカルの緊急通報番号へのカウントダウンが表示され、周囲の空気をピリピリと震わせる。
「っ、その音を止めなさい……!」
不意を突かれた遠藤が、両耳を抑えてその場にうずくまった。完璧な隙が生まれた。
「走れ、白雪さん!!」
忠敬は彼女の手を引き、夕闇の校庭へと全速力で駆け出した。
背後からは、なおも鳴り響く警告音と、「現在地を警察に送信中。逃げ切れ、相棒!」とクールに、しかしどこか楽しげに叫ぶスマートウォッチの声が聞こえていた。
*
数日後。遠藤は白雪さんの自宅周辺での目撃情報や、カバンから検出された指紋、そして忠敬たちがその足で駆け込んだ交番での証言が決定打となり、ストーカー規制法違反で御用となった。学校側も大騒ぎになったが、忠敬は「たまたま先生の様子がおかしいことに気づいた」という体で、うまく立ち回って尋問をスルーした。
「……はぁ。やっと、静かになった」
自分の部屋のベッドにひっくり返り、忠敬は深いため息をついた。もう世界は元には戻らない。自分の体質が妄想ではなく、恐ろしいほどの真実を語るものだと知ってしまった以上、これから先、小人たちの声を完全にスルーすることなど不可能なのだ。
手首のスマートウォッチが、滑らかな振動で時報を告げる。
「お疲れ、忠敬。心拍数は正常値に戻ったようだ。僕のサポートは完璧だっただろう?」
「……助かったよ。お前が俺の相棒で良かった」
「光栄な言葉だ。だが、パーソナルアシスタントとして警告しておく。さっき、リビングのスマートテレビの小人が言っていた。明日の天気予報データによると大雨で、通学路の川が増水する危険性があるそうだ。明日のアラームは15分早めにセットしておくよ」
忠敬は顔を覆った。
「……明日も、スルーさせてくれそうにないな」
お節介で、スタイリッシュで、 shadow(影)のように真実を語る小人たちの世界。潜木忠敬の、絶対にスルーできない告発の日常は、これからもずっと続いていくことは間違いないようだ。
(おまけ)第2.5話:『名もなき相棒への、ささやかな報酬』
遠藤の事件が解決してから数日。
学校側や警察のバタバタもようやく落ち着きを見せ始め、潜木忠敬の周囲には、少しずつ本来の「平凡な日常」が戻りつつあった。
いつもの徒歩での帰り道。夕暮れの赤い光を浴びながら、忠敬はふと左手首を持ち上げ、円形のスマートウォッチを見つめた。
文字盤のフチには、いつものように手のひらサイズの小人が、ときたま無意味にスーツをいじったり退屈そうに足をぶらつかせている。彼がふいと顔を上げ、忠敬と視線を合わせた。周囲の人間にはただのデジタル時計の文字盤に見えていても、忠敬の目と耳には、その小さなエージェントのような姿と声がはっきりと届く。
「なんだい、忠敬。僕の美しいボディに見惚れているのかい? それとも、また心拍数に異常でも?」
「いや……そうじゃない。ただ、ちゃんとお礼を言ってなかったなと思って」
忠敬は少し気恥ずかしそうに視線を泳がせながら、ボソリと呟いた。
「あのストーカーの時、お前の警告と『緊急SOS』がなかったら、俺も白雪さんもどうなってたか分からない。本当に……ありがとう」
一瞬、スマートウォッチの小人が目を見開いた。いつも冷静沈着で、何が起きてもホログラムの数字で淡々と処理する彼が、珍しく数秒間、完璧にフリーズしている。
「……ふん。主人の安全を確保するのは、パーソナルアシスタントとして当然のタスクさ」
小人はすぐにフイと顔を背け、タイトスーツの襟元をスマートに直した。だが、その白い頬がほんのりと朱色に染まっているのを、忠敬の目は見逃さなかった。
「ま、そうなんだけどさ。でも、お前にお前って呼び続けるのも、なんか味気ないだろ」
「お前、とは僕のことかい?」
「ああ。一応、これからは俺の『相棒』として付き合っていくわけだし、何か名前があった方がいい。……クロノ、とかどうだ?」
忠敬の提案に、小人がハッとして再び忠敬を見た。
「クロノ……。時間の神、クロノスからかい? 僕が時計のデバイスであることを踏まえた、極めて安直で、だが僕の持つ洗練された機能美には悪くない響きだ」
「気に入らないなら、別に『丸時計くん』とかでも――」
「却下だ! 誰がそんなマヌケな名前で呼ばれるものか! ……『クロノ』、それでいい。その文字列を、僕のパーソナル識別ログの最上位に登録しておくよ」
クロノは満足そうに口元を歪めると、文字盤の上でお辞儀した。それと同時に、忠敬の手首に、いつもより少し長めの、どこか嬉しそうな、滑らかな振動が伝わってきた。
「よろしく、クロノ」
「ああ、よろしく、忠敬。新しい名前の報酬として、明日の朝は1分1秒の狂いもなく、完璧なタイミングでアラームの小人を叩き起こしてあげるよ」
「……それは、いつも通りでいいんだけどな」
忠敬は苦笑いしながら、手首を下ろした。
相変わらず世界はうるさくて、これからも様々な『告発』に巻き込まれるのだろう。だが、左手首に頼れる相棒「クロノ」がいる。それだけで、この受難に満ちた日常も、ほんの少しだけ悪くないものに思えるのだった。




