第17話:『完全なるステルスの告白』
夏の匂いが本格的に混じり始めた放課後。
赤く染まった通学路を、忠敬はいつものように徒歩で並んで歩く白雪さん、そして自転車を押す佐藤と共に歩いていた。
いつもの騒がしくも平和な下校風景だ。
「主、本日の総歩数は8400歩。目標値まであと1600歩だ。寄り道を推奨するよ」
忠敬の左手首のスマートウォッチから、少し電子音の混じった、ハキハキとしたクロノの声が響いた。
「いや、今日は真っ直ぐ帰る。早く冷房の効いた部屋で炭酸を飲みたい」
「おい忠敬、また時計と喋ってんのかよ。本当にその最新の音声アシスタント、お前にばっかり懐いてるよな。俺のスマホのやつなんて、こっちが話しかけても『よくわかりません』って塩対応だぜ?」
佐藤がゲラゲラと笑いながら自転車のペダルを鳴らす。
白雪さんも「ふふ、潜木くんのスマートウォッチ、本当に優秀よね」と、いつもの知的な笑みを浮かべていた。周囲の人間から見れば、忠敬はただ”やけに高性能なスマートウォッチ”とハンズフリーで日常会話をしているようにしか見えない。ただ、やけにAIアシスタント機能がよかった。
クロノは他の人が付けているデバイスが、少しばかり自分より劣ることに違和感を感じていた。
だから、忠敬の家を出たら完璧に“普通のスマートウォッチ”として堂々と振る舞うことにしていた。
結果的に、その判断は正しかった。
*
忠敬の手首で、クロノの丸いボディから「ピピッ」と、今まで聞いたこともない冷たく、硬い警告音を鳴らした。それと同時に、忠敬の肌に触れている時計の裏蓋が、じわりと不自然な熱を帯び始める。
(……なんだ? 電池の異常か?)
忠敬が眉をひそめて文字盤を見つめようとした瞬間。
『――主、画面を見つめるな。視線を落とさず、ただ前を歩き続けてくれ』
今度のクロノの声は、スピーカーからではなかった。文字盤に腰かけたクロノは苦悩するようにスーツの裾を引っ張り、やがて言葉を続けた。
『僕のスピーカーの集音マイクを一時的にセキュアモード(盗聴防止)に切り替えた。周囲の防犯カメラの死角に入り、メーカーの通信ログにノイズを偽装中だ。……僕の内部ログに、市販のスペックでは絶対にあり得ない”異常値”が検出された』
滝のように流れ込む言葉に忠敬は固まりそうになったが、なんとか無表情を取り繕う。
『主を巻き込むわけにはいかない。詳しい話は、完全に安全な場所で』
心なしか、そのかすれた声は微かに震えているように聴こえた。ちらりと見たクロノは俯いていて、表情は窺えなかった。
忠敬は背中に冷たいものを感じながらも、クロノの指示通りにすることにした。
無意識に、歩行のピッチがあがった。何かが、起きている。
*
ガチャリ、と自宅の自室のドアを閉め、鍵をかけた。
この世界で唯一の、忠敬が誰の目も気にせず小人たちと話せる場所。
忠敬の安全圏。
『おかえり』
『おかえり』
いつものように部屋中の小人たちから受けるお帰りコール。
何していたのか、クッションの下から這い出るようにして姿を現す小人もいた。
いつもの光景に忠敬は無意識に入っていた力を抜き、いつものようにカバンを床に置いた。
そして左手首のスマートウォッチを外して机の上に置く。
その瞬間、ウォッチに座っていたクロノが机に崩れ落ちた。
いつもならタイトスーツの襟をスマートに直して傲慢に笑うはずの相棒が、今日ばかりは小さな両手を机につき、肩を激しく上下させた。
異様な雰囲気に部屋中の小人たちはひとかたまりになって、黙る。
「おい、クロノ。大丈夫か。何があった」
慌てて忠敬が覗き込む。
机の上の数学プリントの陰から、色あせた黒いハンカチの小人がひょっこりと顔を出した。
『忠敬。…大丈夫か』
『……うるさいよ、ちょっとバーストしただけさ』
クロノはかすれた声で言い返すと、自分の小さな手のひらを見つめた。
忠敬が反射的にウォッチを見ると、液晶が微かに明滅している。
『スキャンをしたんだ。あの盗撮生配信のハッカーを叩き潰した時の僕の通信ログをね。……主、結論から言うよ。僕は、自分が何者なのか、分からなくなってしまった』
クロノは顔を上げ、動揺を隠せない瞳で忠敬を見つめた。
『市販のスマートウォッチのOSには、他ドメインの暗号化通信を無音で書き換えるようなコードは存在しない。僕が使っていたのは、人間たちのネットワークの裏側……開発中だった”軍事用プロトタイプOS”の防諜システムそのものだった』
『製造ラインの初期不良で、一般機である僕の体に、そのバグコードが混入していたんだ』
クロノの小さな拳が、悔しそうに机をドンッと叩く。
『僕は……腕時計の小人なんかじゃない。ただのエラーから生まれた、化け物のプログラムだ。バグだ!』
『もしこの超性能のパケット通信がメーカーの監視網に引っかかれば、主を狙ってネットの裏組織や大人が動くかもしれない。主を危険に晒す、最低のバグデバイスだ……!』
いつだって合理的で、ホログラムの数字で淡々と処理していたクロノが、初めて見せた、子供のような弱音。
忠敬は静かに息を吐くと、机の前に腰掛け、クロノの前にそっと一本の指を差し出した。
「軍事用だろうが、バグだろうが、どうでもいい」
『え……?』
「俺が知ってるのは、お前がその能力のせいで毎日熱を出して、それでも俺の体調を気にしてるってことだけだ。あのストーカーから白雪さんを守ったのも、物置の子供を救ったのも、お前の意志だろ。お前がバグなら、俺のこのうるさい目と耳だってバグだ」
忠敬はぶっきらぼうに、しかし絶対に揺るがないトーンで言葉を続けた。
「お前がどこで作られたかなんて関係ない。お前は、俺が名前をつけた、俺のたった一人の相棒だ」
クロノが大きく目を見開く。
その横で、黒いハンカチの小人がフンと鼻を鳴らした。
『毎日手洗いされてる俺はなんなんだ』
「おまえは”悪友”」
さらっと忠敬はハンカチを撫でる。
固まって事態を見守っていた小人たちが口々に話し出す。
『軍事用』
『バグ』
『なにそれ』
『よくわからん』
『アラームできる?』
『できる』
『それはそう』
『『『それはそう』』』
数秒の沈黙の後。
ウォッチの明滅が、ゆっくりと、元の滑らかな青い光へと落ち着いていった。
クロノはタイトスーツの袖を一度だけ強く引くと、いつもの不敵で、洗練された口元を歪めてみせた。
『……ふん。パーソナルアシスタントとして情けない姿を見せたね』
クロノは机の上で、忠敬に向かって優雅に一礼した。
『安心するといい、忠敬。この僕の超性能も、異常な通信ログも、外の世界の監視網からは完璧に隠蔽し続けている。僕が完全に壊れるその一秒前まで、主を狙うような脅威は、この僕が文字通り全て躱してみせるさ。外ではこれまで通り、ただの優秀なスマートウォッチのフリをしてあげるよ』
「ああ、頼むよ。クロノ」
忠敬が苦笑しながらスマートウォッチを再び手首に巻き直すと、滑らかな、どこか嬉しそうな「トントン」という振動が、皮膚を通じてこれまでで一番力強く伝わってきた。
静かな自室で誰にも言えない秘密を抱えた少年とスマートウォッチの絆はさらに深まった。
忠敬の日常は、誰にも破れないステルスの盾によって、より深く守られるのだった。




