60 さらわれたのは誰だ?
シシィとアンナがさらわれた晩から一夜明け、二日酔いのリリーは王太子の執務室へ大慌てで現れた。
「ああ、ダミアン。悪い知らせですまないな」
ジョージとトリスタンとともに執務室へ現れたダミアンを王太子アレクサンダーが出迎えた。
「いえ、どういうことかよくわからなくて。アデノフォラ家のご令嬢がさらわれたとだけ聞いて」
王宮に来るまでにだんだんと頭が回り始めたリリーは自分の勘違いに気づいた。王宮にいたアデノフォラ家の令嬢が行方不明だから皆が騒いでいるのだ。自分がアデノフォラ家の令嬢であることを失念していたリリーはてっきり、リアのことだと勘違いしていた。
城下町から王宮への道すがらトリスタンが何度となくリリフォリア・アデノフォラとの関係を聞いてくるのでリリーはやっと自分の勘違いに気づいた。そして自分が『赤ちゃん』のことを言及したためリリーの妊娠説に確証をもたせてしまったことにも。
(トリスタンさんたちの誤解を解くのは後でもできる)
自分がさらわれていないなら誰がさらわれたというのか。それが目下の問題であった。
「詳しいことはまだ分かっていないんだ。ただ下働きのものが部屋に誰もいないこと、部屋の中にわずかな血痕が残っていたことに今朝気づいて。調べさせたらどうやら王宮閉門後に一台の馬車が無理にとおったらしい。おそらくそれが怪しい」
「部屋に?血痕?」
深くかぶったかつらの下でリリーの眉がよせられた。
「あぁ、リリフォリア嬢とはダミアンが親しくしていたご令嬢だろう?やはり君にだけすぐに知らせないのは不公平だと思ってね」
アレクサンダーはなんとも歯切れの悪い言い方をした。
「私だけにすぐ教えないと不公平……どういう意味でしょうか?」
「君の恋敵にはもう知らせてあるんだ」
「アルフォンス・ランズフートですか?彼のことは恋敵と思っていません。昨日騎士団に引き渡しましたが私怨ではないのです」
「いや。彼ではなくて」
「?」
二日酔い後の回らぬ頭で考えてみてもリリーが思い当たるのはアルフォンスぐらいしかいない。
「君は知らないと思う。だが悪いやつではないんだ。そいつが騎士団を連れて後を追っている」
アレクサンダーが言う恋敵が誰なのか、さっぱり心当たりがないがリリーは自室の確認をすることにした。
「申し訳ありません。今日は失礼します」
リアでないなら誰がさらわれたのか。リリーは与えられた部屋へといそいだ。後ろからジョージとトリスタンがついてくるがそのまま部屋へと向かう。
慌ただしく出ていったリリーを見てアレクサンダーはふぅと息をついた。
愛おしい女性がさらわれたとなれば冷静でいられる男などいるわけがない。
現にレオは今朝一番の知らせを受けて王宮を飛び出していったと報告を受けている。一応顔を隠す仮面をつけて行ったところをみるとヨハンが冷静でいてくれるらしい。
さすがに王太子と同じ顔を晒して令嬢の誘拐事件の捜査をされると混乱が起きる。ヨハンのいつも通りの冷静な判断にアレクサンダーは感謝する。
自分だってシシィがさらわれたとなれば、こう落ち着いていられるわけがない。
想像だけで頭に血がのぼる。怒りに任せて犯人に手を下す自分の姿が想像できる。
机に戻り書類を手にしたがどうにも集中できない。
眉をよせて目をつむっていると嗅ぎ慣れた柑橘類の香りが鼻に届いた。
「叔父上?」
アレクサンダーが目を開くと王弟トビアスが自分の前に立っていた。
いつもひょうひょうとした叔父だが今日はその顔にいつもの柔和な笑顔はない。
彼はゆっくりと口を開いた。
「落ち着いて聞いてほしい……シシィが行方不明なんだ」
その時アレクサンダーの時が止まった。
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