第十四楽章 ゼクエンツ・ウーノ
アルトの膨張に伴って、事務所は崩壊していく。シャープ③へと作り変えられていく肉体が、壁を押し除け屋根を突き破り、周囲の熱を吸収して肥大化していく。
上から降り注ぐ瓦礫の山を、炎の翼でガードする。多少の衝撃に、若干後ずさった。
このまま殺してしまって良いものだろうか。いや、良いに違いない。アルトはシャープであり、リコルダを裏切った背組者なのだ。
ヴィヴァーチェに注ぎ込む炎を、より先鋭化させる。研ぎ澄まされた殺意そのものが、この刃に宿っていた。
「……アルト……いや、シャープ③……。」
建物の崩壊も止まり、巨大な怪物が姿を完成させた。四本の節足、三つに分かれた頭部、錆びたパイプのような手足、濁った鉤爪。漂う血の匂いに、雨の匂いが混じっている。
シャープ③は動けるようになるや否や、巨大な四本の腕を振り回し始めた。もはや事務所は跡形もなく、舞い上がる砂埃の一部になっていた。
私は駄々をこねるような攻撃の隙間を掻い潜り、リズミカルに空中を駆け上がっていく。飛ぶ瓦礫片へ次々に乗り移り、シャープ③へと近づく。
かなり接近したところで、空高く跳躍した。シャープ③はもう暴れ回るのをやめていたが、私には関係なかった。三つになった頭を回して周囲を確認しているようだが、残念ながら私は真上だ。
「……脳みそかち割ってやる……。」
ヴィヴァーチェが唸る。空を切る轟音で私の存在に気づいたシャープ③は、防護魔術を展開した。
炎の切先が、紫の障壁とぶつかる。金属音にしては鈍い衝突音が響き渡った。そして、亀裂を作りながら、防護魔術は砕け始めた。緊急の即席魔術だったから、やはり練りが甘い。そのままシャープ③の脳天へと、ヴィヴァーチェが突き刺さる。
「う、くっ!」
シャープ③は頭を車輪のように回転させ、私を振り払った。吹き飛ばされる形になったが、背中に生えた炎の翼でバランスをとり、二本の足で着地した。地面が円形にひび割れる。シャープ③は深々と開いた傷跡を手で押さえ、それでも魔術を展開した。紫の魔法陣が地面に描かれる。
そこから触手が生える。表面は凸凹していて、体液らしき赤い物質を撒き散らしている。すぐ真後ろに出現した触手が私へと体を振り下ろした。
まるで魚を捌くときのような切り心地だった。切断された先端が、地面でぴちぴち跳ねている。私はそれを踏み潰した。
「……こんなもの、何の障害にもなりませ──」
そう言い出した次の瞬間、私はシャープ③の狙いを理解した。多くの家の向こう側から、二つの大きな影が近づいてきている。朝日によって鮮明に映し出されたシルエットは、シャープ③とそう変わらぬものだった。
前回私が逃走を図ったのは、シャープ三体に囲まれたからだ。そして、今現在、その状況下に再び陥ろうとしている。また同じなのか。
しかし今度は、アルトがシャープ③だと知ってしまっている。もう、逃げても平穏はない。休息はない。ならば。
「……ここで、完全に葬り去るしか。」
心臓の鼓動がより一層大きくなる。落胆、覚悟、執着、絶望、憤怒、諦念。様々な感情が混じり合い、蒸気機関の燃料へと変化する。ため息をつけば、火の粉が散った。
背中を炎が突き破った。左腕を炎が包んだ。両足が炎に覆われ、熱に浮かされたように思考がぼやけた。花火が弾けるように、心臓が脈打った。血液を介して、灼熱が体の隅々まで行き渡っていく。
「バース、ソプラ、早くして!もう少し早く走って!」
シャープ③はその場で飛び上がり、二人を急かしているようだった。バース型シャープは勢いよく走り出し、ソプラ型シャープは魔術で空を舞った。地響きが大きくなる。
私は、思考の中に溶けていた。
──死にたくなかった。生き延びたかった。見たくなかった。忘れ去りたかった。消し去りたかった。ただ、目に見える全てが、何の意味もなく過ぎ去っていくのを望んでいた。何も考えたくなかった。だから──
残響する思念が、いよいよ収まらなくなっていく。頭が割れるように痛い。
明け方の太陽の眩しさが、目に飛び込んだ。
「……だから……。」
爆発した。大地が陥没し、空気は急激に温度を上げ、空は橙色に濁った。噴き出した炎が、空気の収縮に合わせて、中央へ戻っていく。その炎は全て私へと合流し、肉体となった。
「……全てを、焼き尽くす。アレグロは……そのために。」
シャープ①があり、シャープ②があり、シャープ③がある。ならば、アレグロ①からアレグロ②になるのは当然の理だろう。
ゆらめく炎はますます赤く、そして、不安定になっていく。酸素が欠乏し、それでもなお、燃焼を続ける。頭蓋の中で輝く太陽が、巨大な渦を作り、消えていった。




