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第46話 凪の海

「本日は、夕方五時から榊原家との会合がございます。夏越祓の事前打ち合わせですので、あまり時間はかからないかと……」


 巫女が告げた予定はただそれだけで、小鐘は一日どう暇を潰そうかと考えていた。

 すっかり習慣になってしまった姉による身支度を受け入れつつ、今日は鎖骨あたりに付けられた跡を眺める。


 一ヶ月もすれば巫女たちも慣れたもので、鈴音の行動に疑問を抱くことも、無理に小鐘の世話をしようともしない。どちらかといえば、鈴音を怒らせないかと様子を伺っている場面が多い。

 本来なら巫女たちが最も重要視し、その意志を尊重すべきなのは神子である小鐘だ。しかし、その神子が逆らえない相手に、巫女たちが何をできるというのだろう?


「今日は汐さんにお休みをいただいているの。少し、出かけない?」


 支度を終えた姉の提案に、特に予定のない小鐘は二つ返事で了承した。


**


 巫女たちに「散歩してくる」と伝えて、姉妹は山道を下る。

 見下ろす町並みは相変わらずだが、海はずいぶん凪いでいるようだ。大渦様が封印されているらしい大岩の周辺の波の流れに不自然もなく、しめ縄の紙垂もゆらゆらと海風に揺れている。


 大潮命による、大渦様の封印は問題なく機能しているようだ。鈴音は冷たく大岩を見下ろすと、小鐘の右手をそっと掬い上げた。

「今日は、手……繋いでくれる?」

「今日はって、いえ……はい。もちろんです……」

 二人で出かけるときの大半は手を繋いでいるじゃないかと言おうとして、やめる。もし断ったら、腰を抱かれるだろうか。

 小鐘の指を絡め取った、鈴音の指の温もりを、小鐘は拒むことが出来ない。これは、姉妹の関係性によるものでもあるが、失敗体験による刷り込みでもある。


 以前に一度だけ、小鐘は鈴音に対して「町中を出歩く時に、恋人つなぎや腕を組むのはやめよう」と提案したことがある。

 今にして思えばタイミングが悪かったのだと思う。一番最初に伝えることができていれば、少しは変わったのかもしれない。

 小鐘は結婚当初、鈴音の変わりように混乱して流されて、当然のように手をつなぎ、腕を組む鈴音を受け入れてしまっていた。だからか、提案をした時に「ずっと我慢させてたのね、ごめんなさい」なんて言われてしまったのだ。否、言わせてしまったのだ。

 最悪だと思った。正直なところ、小鐘は冷や汗が止まらなかったし、指先が震えた。


 我慢をしているつもりはない。ただ少し、見せつけているようで、気恥ずかしいような、面映ゆいような感覚になっただけだ。

 その時に、つい軽い気持ちで提案をしただけだ。それなのに、謝らせてしまった。

 そもそも小鐘は、鈴音が自分に対して謝ることを承知できない。鈴音が自分に対して謝っていると、どうしていいかわからなくなるのだ。


 小鐘にとって、鈴音は絶対の存在だ。

 最も愛すべき人で、最も愛してほしいと願い続けてきた。困らせたり、悲しませたりして、嫌われることは何より避けたかった。

 自分の人生の導となってくれていた姉が、自分の手を離すことは、この先の未来を失うことのようにも思えたから。


 あの提案をした日、自分がその後、何を言ったか全く覚えていない。ただ、現在もこうして恋人つなぎをしているのだから、少なくとも提案はなかったことになったのだと思う。


 小鐘は、姉にリードされながら町内をゆっくりと歩む。神子の元気な姿を見せることは、この町の平穏の象徴になる。いってみればこれは、神子の務めのようなものだ。

 海が近付くと、鈴音は特に過保護になる。大渦様の一件がある手前、小鐘としてもこれは甘んじて受け入れるべきかと思っているため、どんなに距離が近くても抵抗しない。

「初夏とはいえ、海風はまだ少し冷たいわね」

「そうですね。お姉様の体に障るといけません、長居はやめておきましょう」

「あら、あなたの体も気をつけなくちゃ」

 神子は基本的に神の加護により、事故や病気とは遠い存在だ。それを知らない姉ではないだろうに、と小鐘は苦笑いで返す。


 しかし、大渦様の一件では、この海で様々なことがあった。鈴音が過保護になるのも無理のないことだ。小鐘はそう考え、海に近付くにつれて、握られた手に加わる力が強くなることを指摘も拒否もしない。

 あの日があったからこそ、小鐘と鈴音は結ばれたことは事実だ。だから小鐘は、あの事件を心から憎むことができない。だが、鈴音にとっては消えない傷として残っている。

 小鐘には、姉に残ったその傷がいつか癒えることを祈ることしかできない。


「帰りましょうか」

 夕方の会合にもちょうど良い頃合いだろう。小鐘が「はい」と答えると、姉妹は神社へ向かって歩き始めた。


 凪いだ海は静かに揺れ、恐るべき災厄は再び海の底に鎮められた。嵐は既に過ぎ去った後。

 かつて二人を引き裂こうとした深い闇も、絶望も、いまは海の底に沈み、ただ冷たく黙り込んでいる。

 何が起き、何が失われたのか。それを語る波の音すらも今はなく、鏡のような水面が、二人の姿を歪に映し出すばかりだった。

 鈴音は、その取り返しのつかない静寂を振り払うように、海から小鐘へと視線を移した。


 前を見て歩く小鐘はその視線に気付くことはなかったが、鈴音にとってはそれはそれで良いことだ。海に誘われることも、憂いもなく、前を見て、進んでゆく。

 繋がれた手が離れることがない限り、小鐘は自分だけのものだ。鈴音は最後に一度、大岩を睨みつけて海を去った。それから、握りしめた小鐘の手を確かめるように指先を絡めた。


**


 二人が神社へ着いたとき、ちょうど境内で立ち話をする汐と榊原家が揃っていた。


「ああ、おかえり、二人とも」


 いつもの柔和な笑みで、汐は二人を出迎えた。二人の義父となった汐は、まるで本当の家族のように(実際に血縁関係はあるため、元々家族ではあるのだが)接するようになった。

 もう一つ変わった点としては、海良の誘惑に根負けして、上守家と榊原家の二つだけになると、口調もずいぶん砕けるようになったことだろうか。


 汐は配偶者である姫花に愛娘を、海良は新しく授かった男女の双子を巫女たちに預け、夏越祓に備えた会合が始まる。


 夏がもう目の前に迫っていた。


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