第45話 本当の試練
何もかも上手くいった。
家柄も、地位も使って、欲しいものを手に入れて、愛されたい人に愛された。
何もかも完璧だ。
そう思っていた時期が、小鐘にもあった。
元々、二人の関係は小鐘の片想いから始まった。鈴音が小鐘を受け入れるまで、鈴音から小鐘に与えられるものは家族愛でしかなかった。
同性の家族で距離感が近いことは元々あるが、それを半歩踏み出していたのが小鐘。それを家族愛の延長として受け入れてくれたのが鈴音。
小鐘は自分が神子であることをあまり好んではいないが、騒動の中で、利用することを学んだ。
けれども、愛した人との関係には持ち込みたくなくて、小鐘と鈴音の関係は常に姉妹であり、婚約者である。その立場に上下はない。
元は小鐘が選んだことだ。元は小鐘が望んだことだ。故に小鐘は、鈴音との関係において、強気に出れない。
時折言うわがままは、下からの、お願いであり懇願だ。常に小鐘の立場は下にあるとも言える。
結局のところ、結ばれた二人の関係に於いては、常に鈴音が優位にある。
そして鈴音は、愛するものへの愛は惜しげもなく、ただただ際限なく、与える。それは、相手が溺れるほどにも。
長年の片想いが実を結び、結ばれたことは大変に嬉しいことだ。そして悩みの種である溺愛も、愛されている証拠と見れば否定する理由がなくなる。
前置きが長くなったが、つまりは、小鐘は困っているのだ。
姉からの本気の溺愛に。
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神子の仕事はそう多くない。というより、神子という特別な立場にいる小鐘は、基本的に何もするべきではないと考えられている。
それは、神子が神に準ずる尊ぶべきものであり、何かをさせる相手ではないと考えられているからだ。
故に小鐘は上守家に入ってから、かなり暇を持て余していた。
次期神主となるか、次期神守家当主となるかの選択は、鈴音の一言でなくなってしまった。どちらも『実務』を伴う役職だ。神子にそんなことはさせられないと言われてしまえば、小鐘も引き下がらざるを得ない。
小鐘としては実務も特に苦ではないのだが、青海の風土を考えれば致し方がない。
対照的に、鈴音は次期神主と次期神守家当主としての仕事を一手に引き受け、かなり忙しい身だ。
そう、忙しいはずなのだ。
「お姉様、あの、お、お仕事は……」
「あなたの支度が終わってから」
鈴音がそっと小鐘の髪をすくい上げる。指の隙間からサラサラと溶けるように落ちていくそれを、鈴音は愛おしげに見つめる。
「身支度なら、巫女たちに任せれば──」
「私の、大切な妹なのだから、他の人になんて任せられないわ」
小鐘の言葉を遮るように、鈴音はハッキリとそう告げた。
いやに『私の』を、強調された気がして、小鐘は何故か分からず身震いする。自分がまさか怯えているだなんて発想もなければ、自覚もない。
ただただ困惑する小鐘に、鈴音が畳み掛ける。
「小鐘は、私に支度してもらうの、嫌?」
嫌だなんて、言えるはずもない。
「それとも、もう私のことは好きじゃない?」
そんなわけがない。
「あなたは私の大切な妹で、大切な伴侶。他の人に触れさせたくないと思うのは、おかしいかしら?」
小鐘は、何も言えずに、ただ黙って固まってしまった。脳の処理が追いつかない。ただ、小鐘の想定していない程の愛が、降り注いでいることだけがわかる。
愛している人に愛されることは嬉しいことだ。それなのにどうして、冷や汗が止まらないんだろう。どうして私は、逃げたがっているのだろう。
混乱して一言も発せなくなった小鐘の耳元で、鈴音がそっと囁く。
「私は、あなたの全てを独占したいの」
小鐘が飛び跳ねて離れるのを見て、鈴音はそっと目を細めた。そこにある感情はなんだろうか。小鐘には、その深淵を覗く勇気はない。
「でもあなたは神子だから、これでも我慢しているのよ、私」
どこか粘ついた視線に、身震いする。それはまるで、獲物を追い詰めた後の、静かな愉悦を感じさせたから。
「さあ、いい子に座っていて。髪を整えるわ」
小鐘に逆らうという選択肢はない。恐れを感じつつも、小さな声で「はい」と答えるのが精一杯だった。
「今日は何か、お勤めはあるの?」
「い、いえ、私は特に何も……」
たまに神と対話したり、町民らの前に姿を表して微笑むだけのことを”お勤め”というのか、小鐘には甚だ疑問だが。少なくとも、今日は何も無い日のはずだった。
神無月もまだ遠い初夏、平和な一日だ。
「そう、なら、良いかしら?」
────え?
小鐘が言葉を発する前に、うなじにひやりとしたものが触れた。そしてそれがなんなのか小鐘が考え付く前に、鈴音の右手が小鐘の頬を包み小鐘の逃げ場をなくした。
首筋に感じた熱が、吸い上げられるような感覚を小鐘に刻みつける。寒気にもよく似た、奇妙な感覚が小鐘の背筋を駆け抜けた。
再び逃げ出そうとしたが、それも叶わず、小さく肩を震わせながらその時が終わるのを待つ。
「上手くできたかしら。こんなことしたことないから、自信がないわ……」
ようやく解放された小鐘は、その場に手をついて俯いた。
確かに、確かに姉の愛を望んできた。けれどもそれは、これほどまでに粘ついたものだったのだろうか?
これが姉の本性なのだとしたら、榊原家にいた頃の彼女はどれほどの我慢をしていたのだろう。小鐘が感じたのは、尊敬というより恐怖だった。
鼻歌なんて歌いながら、自分の髪を丁寧に結っていく姉を鏡越しに見つめる。
「よし、出来た」
満足気にそう言った姉の声で、ハッと我に返る。先程姉が残した紅い徴は上手く隠したようだ。
見せつけるのではなく、敢えて隠すようにしていることが、さらに小鐘の心を惑わせる。目には見えない心の奥底で、縛り付けられているような、恐ろしい感覚。
「それじゃあ着替えましょうか」
「あの、お姉様……その、着替えなら巫女たちが……」
神子の世話は、そもそも巫女たちの仕事だ。髪を結うことを含めて。
ここまでだって十分に譲歩したと言っても良い。巫女たちはおそらく部屋の外でどうするべきか話し合っているところだろう。
しかし鈴音は「ん?」とわざとらしく、さも不思議なことでもあるかのように首を傾げる。その有無を言わせないような空気感に、小鐘は黙らざるをえなくなった。
小鐘がその決定に逆らえないなら、巫女たちもそれに倣うしかない。
どうしてこんなことになったんだろう。
どうしてこう重要なことばかり見逃してしまうのだろう。
小鐘の中にあるのは後悔ではない。しかし、純粋に現状を喜べるほど楽観もできない。
「困らせてしまったかしら?」
「えっ」
そんなことはない、とは言えない。けれど、困っているとも言えない。
小鐘は、姉を拒絶できない。町民らにとって神子が絶対であるように、小鐘にとって鈴音は絶対の存在だからだ。
それは、幼い頃から形成された二人の関係に理由がある。この町での在り方、この世界で息をする方法を教えてくれた姉は、小鐘にとって世界の全てにも等しい。
普通の姉妹のように、あるいは普通の配偶者のように、じゃれ合うことはできる。けれど、あの、有無を言わさぬ雰囲気に逆らうことはできなかった。
「ごめんなさい、あなたを困らせるつもりはなかったの。ただ……私以外の誰かが、あなたに触れることが、嫌だなんて、わがままだったわね」
小鐘は心の中で「これだから!」と叫ぶ。姉の最もたちの悪いところは、こう言って、自分が悪いと簡単に認めるところだ。自分のわがままだから、自分のせいだからって、小鐘がそれを肯定するわけもないのに。
諦めを多分に含んだため息を吐いて、小鐘は姉が自分の着替えを手伝うことを認めた。
「良かった。ふふっ、本当はね、榊原家に居た頃も、あなたを受け入れた日から、ずっと我慢してたのよ」
小鐘は今度こそ引きつった笑みを浮かべることしかできなくなった。
あんな普通な顔をして、何も変わらないような態度で、それで、全てを隠し通してきたのか?
明確な恐怖が心を支配していくのを感じつつも、鈴音に身を任せ、着替え終わるのを待つ。
自分が怯えていることを悟られまいと、努めて、極めて努めて、小鐘は普通にしていたつもりだった。
鈴音の指がそっと小鐘の腕をなぞり、手首を捕まえた。
「怯えてるの?」
冷や汗の止まらない小鐘の耳元で、鈴音が背後から囁く。
「力を抜いて、大丈夫よ。私があなたを傷つけることなんてあるはずがないんだから」
そんなことはわかっている!
……なんて、反論できたら小鐘はもう少し楽なのだろうか。考えても仕方のないことを考えている気がする。
その後は、妙に緊張感のある着替えを無事に終え、鈴音は「それじゃあ、行ってくるわね」と、笑顔で手を振ってお勤めに向かった。
「いい子に待っていてね」という、最後の一言は聞かなかったことにしたい。小鐘はぐったりと椅子に体を預けた。
子どもに言い聞かせるような言葉を、自分に伝える意図など考えずともわかる。要は、浮気をするなと釘を刺されているのだ。
信頼されていないわけじゃない。ただただ、自分を縛り付けるためだけの言葉だ。
ようやく小鐘の部屋に静寂が訪れた。そこ残るのは、疲労や恐怖だけじゃない。鈴音が触れた箇所の全てがまだ熱を持って、小鐘を焦がし続けていた。それを愛しいと思うのは、既に自分が手遅れだということだろうか。
小鐘は深く息を吐いて、今日一日をどう過ごそうか、机に置きっぱなしになっていた本を開きながら考えた。




