第44話 世界は君たちを祝福している
その日の大潮神社の境内は、朝から異様な静寂に包まれていた。
雅楽の音が響き、参進の儀が始まる。
先頭を行くのは神職の正装を纏った汐だ。その表情は、極限の緊張で強張っている。しかし、いざ儀式が始まれば、彼の動きからは一切の揺らぎが消えた。
歩を進める毎に、サッと服の裾が地面を撫でる。それと同時に、小鐘の中にあったまだどこか夢見心地な感覚が消えてゆく。
これは、正式に小鐘が鈴音の配偶者となる、神聖な儀式なのだ。
「修祓、行います」
発せられた汐の声には微かな震えが混じっていたが、幣を振るうその所作は、驚くほど鋭く、そして美しかった。
汐はこれまで、この町の幾人もの門出を見守り、その縁を結んできたのだ。町民らの人生の節目を神に奏上し続けてきた、その積み重ねが、今の彼の指先に宿っている。
ただ、今日結ぶ縁が、誰よりも大切に思ってきた親族のものであるというだけ。
汐は静かに、けれど力強く、自らの役目を果たしていく。清められた空気の中に、三献の儀の酒の香りが立ち上った。
一つの杯を、鈴音が口にし、小鐘が受ける。共通の熱が喉を通るたび、鈴音はこれが”契約”なのだと強く意識した。神と、この地と、そして隣にいる少女と結ぶ、生涯解けることのない強い契約。
鈴音はちらりと小鐘の様子を盗み見たが、小鐘は真剣に前を向き、目が合うことはない。ただ、盃を飲み干すその横顔は、凛と美しかった。
じわりと残った喉の熱さが、ゆっくりと引いていくのと同時に、二人はまるで不可思議な感覚に襲われた。明確に言葉にすることは難しいが、はっきりと分かっていることがある。この熱は、二人を繋ぎ止める強固な鎖のようなものだ。鈴音はそう確信していた。
そして、誓詞奏上が始まる。
二人は示し合わせたように、同時にその紙を手に取った。
「慎んで、大潮命に申し上げます」
重なる二人の声。それはどちらかがリードするでもなく、互いの存在を確かめ合うような、深く落ち着いた響きだった。
静まり返った神社で、二人の声だけが響く。自然の理を無視し、鳥の声、風の音すらも、今この神社の中では消え去っていた。
「私たちは、互いを選びました。この地を慈しみ、神を敬い、共に生きていくことを、ここに誓います」
その瞬間、閉じられた本殿の奥──御神体が鎮座する暗がりから、柔らかな、けれど強い風が吹き抜けた。拝殿の御簾が大きく揺れ、汐が驚いたように顔を上げる。風は二人の髪を軽く揺らすと、穏やかに去っていった。それは言葉にならぬ、神の”肯定”だった。
町民たちがざわめき、神子が真に祝福されたことを、その場の誰もが肌で悟った。
ついには儀式の最後、親族固めの盃を行う時が訪れる。
榊原家の三人と、上守の波子、それぞれが盃を飲み干し、二つの家は、一つの円となった。
「以上をもちまして、神前式を終了いたします」
全ての儀式を終え、汐がようやく安堵の笑みを浮かべて二人を見る。
「おめでとう、二人とも。今後の二人の生活が穏やかであることを祈っているよ」
これは汐の心の底から出た言葉だった。これ以上振り回さないでくれ、という本音が透けて見えるような言葉に、鈴音は苦笑混じりに「ありがとうございます」と答えた。
拝殿を出ると、そこには抜けるような青空と、町民たちの万雷の拍手が待っていた。
歩き出そうとした鈴音の袖を、小鐘がそっと引いた。振り返れば、そこには先ほどまで儀式を行っていた厳格な顔ではなく、ただただ嬉しそうに、花が綻ぶような笑みを浮かべた小鐘がいた。
人前式では一度も合わなかった目がようやく合い、それだけで鈴音は頬が緩んだ。
何を言うのだろうかと待ってみれば、いたずらっぽい笑顔で「お姉様、大好きです」なんて囁いた。
その声は春の陽だまりのように温かく、鈴音の心に真っ直ぐに届いた。鈴音の心はもうすっかり彼女の虜になってしまったらしい。舞い上がった心のまま、誰にも見えないように、鈴音はそっと小鐘の耳元に口づけた。
「私も、あなたを愛しているわ」
花の香と共に運ばれた言葉に、小鐘は嬉しそうに笑ってみせるのだった。そこにはもう、神子としての威厳などなく、小鐘はただ愛する人からの愛を受け取る器となった。
繋いだ手の温もりを確かめながら、二人は祝福の渦の中へと歩み出した。
**
神前式を終えると、神社内は厳かな雰囲気から一転して、賑やかな雰囲気に変わった。
巫女たちが皆に甘酒を配り、あるいは酒屋の店主が酒を振る舞い、飲めや歌えやの大騒ぎである。
普段、町民が神社を訪れるときは、神に敬意を払い、とても丁寧で、静かだ。
しかし祭りや祝い事となると途端に賑やかになる町民を、大潮命は微笑ましく見守っていた。誰に知られるでもなく、満足げな顔で。
大潮命にとって民の幸福は、自身の幸福でもある。青海の町民たちが幸せに生きられるならなによりだ。
それに、酔っていても信心深い町民らは皆、神への敬意と、神社への扱いは変わらない。ゴミのポイ捨てなどありようもない。
だから、大潮命は時たま訪れるこの愉快な日を、悪くないと思っている。
さあ、本日は神子の結婚の日だ。
祝おうではないか、私も。
大潮命がさっと空をひと撫ですると、軽い風が吹き、神社に植えられた桜の木々たちから花びらが舞った。
町民らが「おおっ」と歓声を上げたのを見て、大潮命は満足げに微笑んだ。
『ふっ、いつの時代になっても、何年の時を経ても、人間の考えることは突飛なものだな』
同性で、その上血縁関係ともなれば、普通は真っ当に認められるものではない。
青海だからこそ、神子だからこそ許されたことだ。
しかしこれは、最初から定められた結末ではない。二人が選び、歩んだ道の果てに今がある。
ときには選べぬ選択肢もあっただろう。
ときには定められた道もあっただろう。
だが、二人が選び、貫き通した結末が、この日を迎えさせた。
数奇な運命の中、あるいは大きな因果の流れの中で、彼女たちは生きていくのだ。
『だが、理を外れた愛も、この地で息をするなら私の愛子だ。祝福しようじゃないか』
捧げられた盃を片手に、大潮命はまるで我が子を見守るように二人を見つめていた。
**
宴も酣、まだまだ祝い足りない様子の町民も多いが、時刻は既に午後六時を過ぎていた。陽は傾き、夕闇が近付いていた。
町民らは先程までと打って変わって、真面目にせっせと片付けを始め、一時間もすれば神社は元通りの姿を取り戻した。
今日、この日から、小鐘は上守の姓になる。
祝いの言葉を残して帰っていく町民らの最後に、榊原の家族が並んだ。
「鈴音も、小鐘も、元気でやれよ。困ったらいつでも言ってくれ、力になるよ」
鏡矢は簡単に、それだけ言って榊原の家へ帰っていく。
鈴音は少し名残惜しげにその背を見送った。榊原家次期当主の後ろ姿には、既にその肩書に見合う力強さが宿っているようだった。
「ま、アンタたちならなんとかなるさ。上手くやんな!」
海良はいつも通りに笑ってその場を去った。名残惜しさも残さず、友人のような気さくさで。
そして、最後に残ったのは忠臣だった。
「結婚おめでとう、鈴音、小鐘。お前たちはもう、俺の娘ではないんだな」
この短い間で、自分は何かを取り戻せただろうか。
今更何を、伝えるべきだろうか。
忠臣は少し黙って、再び、口を開いた。
「どうか、幸せになってくれ」
祈るように、ただ、願いを込めて、忠臣は二人を見つめた。
そして、二人の返事を待つことなく、鳥居をくぐり、階段を降りていく。
その背中を追おうと鈴音が一歩踏み出したその隣で、小鐘が既に駆け出していた。
「お父様」
小鐘の声に、パッと弾かれたように忠臣が振り向いた。
「また、会いましょう。私も、あなたの幸せを願っています」
忠臣が黙ったまま小鐘を見上げるのを、小鐘も黙ったまま見つめ続けた。
あまりに一方的だった関係でも、あまりに不干渉だった関係でもない。
一人の人間として、そして家族として、小鐘は、忠臣の言葉を待っていた。
「あっ、ああ、また、会おう」
喉に支えそうになりながらも、忠臣は必死で言葉を返した。そうして、今度こそ神社を去っていく。
「小鐘、良かったの?」
「いいんですよ、これで。きっと」
あなたのように、優しい人になりたいと思ってきたから。そんな言葉を飲み込んで、小鐘は姉に振り向いた。
ずっと家族ではなかった人。けれど、今日、この日から、家族になる人。小鐘はようやく、家族全員を、許せる気がした。
愛する人の隣に立てた喜びからか、神子としての在り方に目覚めたからか、はたまた他の理由なのか。小鐘自身にもわからないが、今はただ、榊原家と上守家、そして全ての町民が幸せになるようにと、本心で祈ることができた。
もう迷いはない。憂いもなく、最愛の人と歩むことができることが、何より嬉しい。今はそれだけでいい。
「お姉様がいてくれれば、それだけで」
それだけで、全てを許せる気がしたから。
「……そう、そうね。あなたが望むように、生きていきましょう」
いつかと同じ言葉、そこに含まれる意味も同じだろうか。
小鐘がそれを、尋ねることはない。
「さぁお姉様! ────いえ、私の、愛しいお嫁さん。夜ご飯の時間ですよ!」
元気に振り返った小鐘に、鈴音は一瞬目を見開いて、それから頬を赤く染めた。
「お嫁さんって、ちょっと照れるわね」
「でも事実でしょう?」
神がそう認め、町がそう認め、家族がそう認めた。正真正銘の結婚相手だ。何も間違ってはいない。
「そうね。でも、せっかくなら名前で呼んで?」
「えっ!?」
小鐘にとって姉は姉であり、結婚相手である。ずっと「お姉様」と呼び続けていたのに、今更名前を呼ぶのは、どうにも憚られた。
「だめ?」
「──ッ!」
ああ、この顔だ!
小鐘はつい地団駄を踏みそうになった。
ずるい人だと思う。小鐘が断れないことを知って、鈴音はこの提案をしているし、そのずるさを理解している。
姉の隙を突いたつもりだったが、まだまだ小鐘では鈴音に敵いそうもない。
小鐘は深く息を吐くと、耳まで真っ赤に染めながら、力なく「善処します……」と答えるのだった。




