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第47話 沈む

 夏越祓に向けての、榊原家と上守家の会合はつつがなく終わり、その後は宴会の席となった。

 そもそも毎年同じことをしているのだから、会合は一時間もかからなかった。すぐに食事が始まり、大人たちは酒を飲み始める。

 鈴音と小鐘は汐に促され、先にその場から下がることになった。


「どうせまたダラダラと飲んだくれるだけだろうし、私たちは先にお風呂に入って寝ちゃいましょうか」


 昔話に花を咲かせるのは良いが、酒を飲んだ海良はいつも以上に──いや、学生の時のようにと表現するのが正しいだろうか。とても快活で奔放になる。汐や忠臣は慣れきっているが、鏡矢は苦笑いするしかない。

 海良の母であり、現在も上守家当主を務める波子も、自分の娘のことくらいわかっている。

 姉妹が部屋を出る時に一瞬目が合ったが、まるで『海良に絡まれる前に逃げな』とでも言うように顎を動かした。


 巫女たちに風呂の用意を指示すると、小鐘は姉に誘われるままに風呂へと向かった。

 話の流れでうっかり、姉とともに、風呂に向かってしまった。


 小鐘がやらかしたことに気付いたのは脱衣所に着いた時だ。

「い、一緒に、入るんです、よね……?」

 震える声で、最愛の人に尋ねる。

「だめ?」

 眉を下げ、困ったように小鐘の表情を伺う鈴音は、無意識に、けれど確かに、小鐘の欠点を突いて来る。

「だめだなんて、まさか」

 何を考えるでもなく、小鐘の口からは勝手にその言葉が出てきた。

「良かった。最近忙しくて全然一緒に入れなかったから、寂しかったの」

 嬉しそうに微笑む姉を見て、これで良かったのだと思う小鐘と、無責任に了承した自分を責める小鐘がいる。


 決して姉と風呂に入ることが嫌なわけじゃない。幼い頃はよく一緒に入ったし、結ばれてからも何度か一緒に入った。

 ここ最近は姉が仕事で忙しくしていて、一人で風呂に入ることを寂しく思う小鐘がいるのも事実だ。

 けれど、小鐘には大きな懸念事項があった。それ故に、姉と風呂に入ることに少し不安があるのだ。


「さ、早く入りましょう」と背中を押され、小鐘を先頭にして浴室へ入る。

 巫女たちによって整えられた浴室はいつも綺麗で、汚れやぬめりはなく、鏡には水垢一つ付いてない。ヒノキの浴槽からは、ゆらゆらと湯気が立ち上っていた。

「最近は一緒に入れなかったけど、巫女の子たちに手伝ってもらっていたの?」

 鈴音は極めて穏やかに、優しく小鐘に問いかけた。小鐘の長い髪の手入れは確かに、巫女たちがいた方が楽だろうとは思う。

「いいえ。お風呂は一人で、入るようにしていました」

 巫女からの提案もあった。しかし、小鐘はそれをはっきり断っていた。理由など、考えるまでもないだろう。

「そう、良かった。こうして素のあなたを見て、あなたに触れるのは私だけでいてほしいから、ホッとしたわ」

 姉の柔らかい笑顔に安堵して、小鐘は息を吐いた。


 鈴音は数日間の空白などなかったかのように、慣れた手つきで小鐘の洗髪を始める。小鐘が自分のことは自分ですると言っても、鈴音の優しい笑顔に黙殺される。

「わがままばかりで、ごめんなさいね」

「いえ……」

 どうして、どうして、謝るのだろう。

 鈴音の行動は優しい誘いのようで、しかし決して自分の決定を曲げることはない。それなのに、謝ったところで何が変わるというのだろう。

 この謝罪まで込みで、計算づくなのであれば、恐るべき才能なのだが、小鐘の直感としては、鈴音の行動は天然だ。無自覚に、真綿で首を絞めるように、ドロドロとした愛に小鐘を沈めてゆく。


 鈴音の指の腹がゆっくりと小鐘の肌をなぞる。そこに下心があるのか、そうではないのか、確かめるにはリスクが高すぎる。

「ね、小鐘。あのね、恥ずかしがらせるつもりはなくって、それに、困らせたいわけじゃないの。私が、あなたに、触れていたいって、そんなわがままで、振り回してしまって、ごめんなさいね」

 優しい声で謝りながらも、鈴音の手が止まることはない。


 鏡越しに見る姉の表情は、優しく穏やかな慈愛だけがあるようだ。しかしそれが決して彼女の本質ではないことを、小鐘は身体の奥まで理解させられている。

 鈴音の指が際どい箇所に触れ、小鐘が肩を震わすと、鈴音は目を細めて笑う。そこにあるのは、明らかに嗜虐心だ。

 さりとて小鐘に拒む選択肢はない。丁寧に、優しく、小鐘の全てを綺麗に洗い終えると、鈴音はようやく納得したように、ふっと表情を和らげる。


 鈴音にとって、小鐘の体を洗うということは、小鐘を清める行為であり、小鐘を支配することでもある。自らの手で、小鐘の全てを自分の色に上書きしているのだ。

「それじゃあ、先にお湯に浸かってて」

「い、いえ! あの、私も、お姉様の体を洗いたいと言ったら、だめ……ですか?」

「……」

 提案に対して、鈴音は少し考え込んだ。マズいことを言っただろうかと焦る小鐘に、鈴音は笑顔で「いいわよ。たまには代わってみましょうか」と答えた。

 自分の提案が姉を困らせたり、怒らせたわけではないとわかると、いつの間にか早くなっていた鼓動が、静まっていく。

 鈴音は、基本的に小鐘に対して怒ることはない。お願いを断ることも殆どないが、小鐘には鈴音の様子を伺う癖がある。姉の安寧を願い続けてきたこの癖が、いつの間にか小鐘を縛るものになりつつある。


 しかし小鐘は、これを苦しいものだと、どうしても思えなかった。

 姉が自分を縛るような言葉を言うたびに、願うたびに、自分が愛されていることを実感できて、嬉しくて仕方がないのだ。


 二人で湯船に浸かると、湯船から少し湯が溢れた。

 姉妹はゆっくりと息を吐いて、お湯の柔らかな温かさが身体の芯に染みていくような感覚に身を委ねる。

 しばらく浴室に静寂が訪れた。どれだけそうしていたかわからないけれど、沈黙を破ったのは鈴音の方からだった。

「ねぇ小鐘。最近はわがままばかりでごめんなさいね」

 確かに鈴音は、小鐘に対してよくわがままを言うようになった。けれどもそこに、小鐘が本当に嫌がるような要求はない。

 小鐘が鈴音をある程度理解しているように、鈴音も小鐘のことを理解している。だからこそ、小鐘が抵抗しづらいというのが、悪質だとも言えるのだが……


「大丈夫ですよ。私はずっと、何があっても、お姉様を愛しています」

 小鐘にとっては決意表明にも等しい、揺るぎない愛を捧げる。既に神にも認められた関係だ、憂うことなど何も無い。


 風呂を出ると、姉妹は二人の寝室へ戻った。結婚しているのだからと、部屋は二人に一つ、少し広い部屋が与えられている。

 山にある上守の家は、榊原家より更に高い場所にある。故に部屋の窓からは、更に広く青海の町を見渡すことができた。


「平和ですね」


 嵐もなく、空は晴れ、月のよく見える夜。小鐘の口からは自然とそんな言葉がこぼれた。

 凪いだ海を見下ろし、鈴音は「そうね」と答えた。

「夏越祓を終えると、夏祭りの準備が始まるわ。小鐘も舞の練習がそろそろ始まるのかしら?」

「そうですね、来週から始まると伺っております」

 いつかの鈴音にあった、届かぬものへの願いは既にもうない。純粋に、愛する妹が舞殿で舞う姿を楽しみに思う姉の姿がそこにあった。


 鈴音はそっと小鐘の頭を撫で、そのまま自分の元へ引き寄せる。

「楽しみにしているわ」

 伝わる心臓の音が重なり、小鐘は姉の温もりに目を閉じた。

「はい、頑張ります」


 そうして、ただゆっくりと、穏やかな夜が更けてゆく。

 宴席はまだ続いているのだろうか。少しだけそんなことを考えて、小鐘はすぐに姉へと意識を戻した。今は、考える必要のないことだ。

 ただ、愛に満たされ、夢の中へ落ちてゆく。今の小鐘には、それだけが全てなのだ。それだけが、全てで良いのだ。

 あの暗く深い海のような、しかしどこか粘ついた蜜の中を、沈む。


 自らの腕の中で眠る小鐘を見て、鈴音は頬を緩ませる。

「こんなつもりはなかったのだけれど……結局あなたの愛に、負けてしまったわね」

 どこへ届くでもなく、どこへ届けるでもない。

 妹との婚約だなんて、前代未聞だ。それでもそれを受け入れたのは、自分自身。鈴音は愛しい人の髪を撫でながら、これまでの人生を振り返る。


 厳格で恐ろしい父に怯え、父の存在で余裕をなくした兄の冷たい態度に耐え、無神経な母の言葉を受けて苦しかった幼い頃。今にして思えば、まだ二歳だか三歳だった私に、父は求め過ぎだろう。兄も同じように育てられていたなら、あれだけ荒んでいても仕方がない気がする。

 妹が神子として生まれてしばらくは、まだ父もたまに家で見かけていたし、兄と私への厳しい指導は続いていた。しかし、小鐘が二歳頃になると、父を家で見かける機会は格段に減った。

 小鐘が小学校に上がる頃には、父を見かけることはすっかりなくなり、私も兄も、少しずつ落ち着いていった。


 鈴音は未だに、小鐘からこれほど慕われるようになった理由を正しく理解はしていない。ただ、初期の頃の小鐘からの求婚は本気ではなく、どこかのタイミングでうっかり本気になってしまったのだろうな、と思っている。例えるなら、桟橋から足を滑らせて、海に落ちるように、恋に落ちたのだ。

 小鐘の想いの変化には気付きつつも、初期の鈴音は、これを全く気にしないようにしていた。しかし、今ではすっかり小鐘なしでは生きていけないようになってしまった。


「今ではすっかり絆されちゃったわね」


 ──なんて言うのは、ずるい言い方かしら。


 小鐘がどうであろうと、この道を選んだのは鈴音自身だ。鈴音の性格として、これを鈴音は、自分自身の選択として受け入れ、絶対に他者に責任を渡さない。

 絆されたなんて、本気で思っているわけでもない。


「あなたが選び、私が選んだ道の答えが、ここなのね」


 感慨深くそう呟くと、鈴音はようやく目を閉じた。この愛しい人との日々が、この先もずっと続くことを祈りながら。


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