第99話
「そういえば、みんな開会式には行くの?」
リデルがそう言って、湯気の向こうで目を細める。
ミーナも同じ卓にいて、机の端には祭りの案内紙が置かれていた。
「ああ。俺は生徒達を連れて火の国の席で参加する」
ヴァーンは即答した。
「引率」という言葉が、そのまま背筋に乗っている。
「私はお兄ちゃんの親戚として、風の国の席で参加するよ」
ミーナは軽く手を挙げて言う。
「一般の人は入れないの?」
アルスが訊くと、リデルは首を横に振る。
「入れるけど、席の後ろだからすごく遠いの」
「まあ、仕方がないか」
アルスが呟くと、リデルが「それで済ませるの?」と言いたげに眉を上げた。
「あら、アルスは土の国の席で見ることになるわよ」
「なんで?」
「アルスのことだから、何も準備してないと思って、おじいちゃんに席を取ってもらったの」
何でもないように言う。
けれど、それがどれだけ手間のいることかを、アルスは少しずつ知り始めていた。
「ありがとう! リデル!」
アルスが笑って頭を下げると、リデルは視線を逸らし、咳払いをする。
「それに今回はおばあちゃん来られなかったから、席余ってるし」
「ミレイさんどうかしたの?」
「ハルカに乗って、アルベスまで来ようとしたんだけど、乗る際に腰をやっちゃって来れなくなったんだって」
「それは残念だね」
「うん」
そこへ、ヴァーンが面白そうに口を挟んだ。
「なんだお前達。いつの間にか家族みたいになってないか?」
アルスは疑問もなく頷く。
「そうだよ。ありがたいことにグラナード家の人たちには良くしてもらってるんだ」
その言葉が落ちた瞬間。
リデルの肩がぴくりと揺れて、頬に熱が差した。
皿を直すふりをして目を逸らすが、耳まで赤い。
「そ、そんなところ」
ヴァーンは一拍見て、すぐに察した顔になる。
笑いを堪えるように、口元だけが歪む。
「はーん。リデルお嬢様はとても嬉しいようで」
リデルはさらに顔を赤くし、箸を握る指に力が入った。
怒っているのに、怒りきれない。
「少しは大人になったと思ったけど、勘違いのようね」
椅子の脚が、きいと鳴る。
立ち上がりかけた気配に、ヴァーンは肩をすくめて笑った。
アルスはその間に、無邪気に言ってしまう。
「僕も嬉しいよ」
リデルは止まった。
怒りの矛先が消えて、代わりに困ったような顔になる。
それから、ふっと肩の力が抜けた。
「アルスもね」
その声は小さい。
けれど、確かに温かかった。
◆
食事が終わると、卓の周りの空気が少しだけ散り始めた。
祭りの日程は詰まっている。
準備という言葉が、自然に現実味を持つ。
「じゃあアルス、明日はお昼に家の前に集合ね」
「わかった」
ミーナが椀を片付けながら、眉尻を下げる。
「ごめん私、そろそろ明日の準備しなきゃ」
「俺もみんなの準備を手伝わなければならん」
「私も」
三人が同じように立ち上がるのを見て、アルスは首を傾げた。
「準備って?」
ヴァーンが振り返る。
いつものからかいが混じった目で言った。
「明日はみんな正装するんだ」
「どの国の人間だと分かるようにな」
「へー、どんな感じなの?」
「それは見てのお楽しみだろ?」
「確かにそうだね」
リデルが少しだけ口を尖らせる。
「私はアルベスにいるから土の国の正装はしないけど、おじいちゃんがすごく気にするから」
アルスは一拍遅れて、自分のことに気づいた。
「僕はどうしよう?」
リデルは言葉を探すように視線を泳がせた。
そして、小さく息を吐く。
「……確かにそうね。やっぱり明日は朝に集合。
おじいちゃんに頼んでみる」
「そこまでしなくても……」
「せっかくなら楽しんだほうがいいでしょ?」
言い切る声は強い。
けれど、アルスのほうを見ないのは照れのせいだと分かる。
「……ありがとう」
ヴァーンが、そのやりとりを見て口元を吊り上げた。
露骨に楽しんでいる。
「何よ」
「いいや。いいもんだと思って」
ミーナが小さく頷き、同意するように言った。
「分かる。いいよね」
リデルの視線がミーナとヴァーンを捉える。
言葉より先に、目が刺さる。
そして、思い出したようにリデルがアルスへ向き直った。
「あ、それとアルス。お母さんも一緒に行くから」
アルスの胸が跳ねる。
声がひっくり返りそうになるのを、必死に押さえた。
「それって!?」
「明日のお楽しみ。
このために色々間に合わせたんだから」
リデルの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
“間に合わせた”の意味を、アルスはすぐに悟った。
祭りの準備が進む街の音が、遠くで鳴っている。
開会式は明日。
中央円環堂に、五国が集まる。
その中心に。
自分の知らない「明日」も、きっと混ざっている。
◆
解散して帰る前に、アルスは研究棟へ足を向けた。
廊下を進むほど、祭りのざわめきは薄れていく。
代わりに、紙をめくる音と、魔石灯の低い唸りが耳に残った。
リュマの研究室の扉は、半分だけ開いていた。
中からは、机を滑る紙の擦れる音。
薬品の匂い。
そして、忙しなく動く足音がした。
アルスがノックの代わりに声をかけると、すぐリュマの返事が飛んできた。
「リュマ、忙しい?」
「とんでもなくね」
リュマは振り向きもしない。
棚から取り出した箱を机に置き、すぐ別の束を抱える。
髪はいつもより乱れていて、袖口にはインクが付いていた。
「明日の準備で忙しいの?」
「それだけじゃないさ。全部さ全部」
言い方は雑なのに、手は正確だった。
封筒を揃え、封を確かめ、署名の位置を指で撫でる。
研究室の空気が、祭りとは別の緊張で満ちていた。
「……何か手伝おうか?」
リュマはやっとアルスをちらりと見て、口の端だけで笑った。
「いいや、お前さんは明日から祭りを楽しんでくるといい」
「それに、しばらく研究室にも立ち寄りなさんな」
「どうして?」
リュマが手を止めずに言う。
「いろんなお偉いさん方が挨拶に来るからね。それとも会いたいかい?」
アルスは想像してしまう。
知らない大人たち。
名刺のような挨拶。
空気だけで息苦しくなりそうだった。
「わかった。なるべく来ないよ」
「わかればよろしい」
アルスは頷き、扉のほうへ一歩下がる。
「うん。それじゃ」
その背中へ、リュマの声が落ちた。
「待った。アルス」
アルスは足を止めて振り返る。
「お前さん、明日席は取ってあるのかい?」
「リデルに取ってもらった」
リュマは、今度こそ肩の力をほんの少しだけ抜いた。
「よかったね。最悪、私の隣に呼ぼうかと思ったけど、それなら安心だね」
アルスは思わず目を丸くする。
呼ぶ、という言葉の軽さと、席の重さが釣り合っていない。
「リュマってどこに座るの?」
「アルベスの席の一番前さ」
アルスの喉が鳴る。
「それって……」
リュマは紙束を机に置き、今度はちゃんと顔を向けた。
「ああ、アルベスの席で一番目立つ場所さ」
言い切って、すぐまた手が動き出す。
その背中は忙しないのに、どこか揺るがなかった。
アルスは扉の前で、そっと息を吐いた。
胸の奥で、リデルへの感謝が静かに形になる。




