第97話
ヴァーンの視線は、床の一点に落ちたままだった。
指先が膝の上で絡み、ほどけて、また絡む。
外の祭りの笑い声は遠い。
この部屋の寒さだけが、やけに近い。
「これから?」
「そうだ。」
アルスは促すように言う。
ヴァーンは短く頷いて、少しだけ息を吐いた。
「イグラシアの母の元に帰った時、目を疑ったよ」
「なぜ?」
「母はまだ、親父を待っていたんだ」
言い切った瞬間、ヴァーンの口元が歪む。
怒りというより、噛み切れない何かが残っている顔だった。
「そんな母にも苛ついてしまってな。
帰った後は士官院に行くようになった。
アルベスで習った魔法の知識も使えるし、何かに没頭したかったからな」
窓の外の灯りが揺れる。
部屋の中の薄明かりが、ヴァーンの横顔に影を落とした。
「知識のおかげか、センスがあったのか分からないが、いい成績を残せてな」
言い方が、ほんの少しだけ誇らしげだった。
アルスはその“少し”を見逃さない。
ちょっと鼻が高そうなので、少し揶揄う。
「僕たちのおかげだね」
ヴァーンが、片眉を上げる。
すぐに負けじと、言い返した。
「ほう。文字もまともに書けなかったやつが?」
アルスは肩をすくめて笑う。
笑いが、部屋の冷えを一息だけ緩めた。
「そんなこともあったね。
それでそこからどうなったの?」
ヴァーンは笑いを引き、声を戻す。
「成績優秀者には中型の魔石を埋め込む権利が与えられる」
アルスの背筋が、少しだけ伸びる。
“権利”という言い方に、制度の重さが混じっている。
「元々、俺は小型の魔石を入れていたが、中型の魔石を埋め込み直したんだ」
「そこで、この魔石の扱いの難しさを知った」
「どんなふうに?」
ヴァーンは指先を握り直す。
熱を確かめるような仕草だった。
「小型の魔石とは訳が違う。怒りや情熱。
その感情が昂ると、途端に体温が上がっちまう」
アルスは一瞬だけ、言葉に詰まる。
『怒りや情熱』という言い方が不意に刺さって、すぐに意識を戻した。
「小型だとそうじゃないの?」
「小型だと体温が少し高いぐらい。
雪国である火の国では、そのために埋め込む人も少なくない」
ヴァーンの語りは淡々としている。
けれど、話の芯はずっと“身体”に触れている。
「魔法を使わないってこと?」
「そうだ。魔石を埋め込んでいると雪が降っていても半袖で外を歩けるぐらいになる。
まあ、デメリットも存在するがな」
言いながら、ヴァーンは目を伏せた。
そのデメリットが、今の話へ繋がるのだと分かる。
「そして俺も中型を入れるまでは、その延長だと思っていた」
「でも実際は違った。
感情をコントロールする術を学ばないと、魔石を埋め込んだ人との接触自体が難しかったんだ」
アルスは自分の手を見た。
誰かに触れることが、危険になる。
それが“才能”や“権利”の代償なのだと思うと、言葉が軽くならない。
「大変なんだね」
「まあな。
そして気づいてしまった。
親父は母に暴力を振るったんじゃない。
むしろ逆だったんだって」
「逆って?」
「触れ合いたかったのさ」
部屋の空気が、少しだけ沈む。
アルスは返事を急がず、息をひとつだけ吸った。
「愛していたんだね」
返事はしないが頷く。
その頷きが、何より重い。
「それからは、家に帰るようになった」
「母から親父の話もたくさん聞いた」
「いつも母は言うんだ。
『あんなに優しい人は、そうそういない』って」
「『魔石を埋め込めない私にも分け隔てなく接してくれる』って」
アルスは、そこで引っかかって訊き返す。
「魔石を埋め込めないって?」
「母は元々病弱でな、そんな人間の体温を常時あげてしまうと、短命になりやすいんだ」
「もし子供がいると赤ん坊にも影響が出る。
だから女性は中型の魔石をほぼ埋め込まない」
ヴァーンの声は平坦だった。
平坦にしないと、崩れる種類の話だった。
母が子を思う気持ちが、逆に影響してしまうなんて。
「……辛いね」
「ああ」
短い返事が落ちる。
外の祭りの音が、さらに遠くなる。
「思えば、小さい頃に親父と触れ合った記憶もない」
「そんなことも分からずに、俺は親父に酷いことを言ってしまった」
ヴァーンは俯いている。
肩が僅かに揺れて、止まる。
「……ヴァーン」
「だから、謝りたいんだ」
「でも、どういう顔をして会いに行けばいいか分からない」
俯いたままの声が、床に落ちる。
アルスは、胸の奥に残っていた引っかかりを手繰り寄せた。
慰めるだけでは、ヴァーンは前に進めない気がした。
「でもさ」
「?」
「ヴァーンのお父さんがお母さんから逃げたのは変わらないと思う」
ヴァーンが少し曇った表情をした。
否定したいのに、否定できない顔だった。
「だってそうでしょ?
ヴァーンのお母さんはそんな事になるのを承知して、ヴァーンのお父さんと一緒になったんじゃないの?」
「それは……そうだな」
ヴァーンが豆鉄砲喰らった顔をしている。
図星を刺されたというより、整理の仕方を知らないまま立っていた場所に、道が一本引かれたような顔だ。
アルスは続けた。
言い切ることで、ヴァーンの足元を作る。
「だからヴァーン。君がやることは二つ」
「謝ること。そして目を覚ましてやることじゃない?」
どうだって顔をするアルス。
その顔に、ヴァーンは堪えきれず声を荒げて笑ってしまう。
「はっはっは!そうだな!お前の言う通りだよ!」
笑い声が、寒い部屋に転がった。
それが不思議と、暖かかった。
「そのために、手伝ってあげなくもないけど?」
「ああ。頼むよ。『アルスお兄ちゃん』」
わざとらしく言われて、アルスは眉を寄せる。
けれど、口元は上がってしまう。
寒い部屋に暖かい空間がある。
外の祭りの灯りが窓に揺れて、二人の影をゆっくり伸ばした。




