第106話
午後。
訓練の余韻が、まだ身体に残っていた。
アルスは歩きながら、腹の奥をそっと押さえる。
痛みは鈍い。
けれど呼吸のたび、遅れて主張してくる。
「ちょっとは手加減してよ」
隣を歩くヴァーンは、何でもないように肩をすくめた。
「実戦はもっと激しい。十分手加減してたよ」
「嘘つき」
「本当さ」
言い合いをしながら、二人は学院の裏手の方へ進んでいく。
祭りの飾りは遠くに見えるのに、ここは静かだった。
人通りが薄く、店という店もない。
石畳の隙間から草が覗き、風が枝を揺らす音だけが聞こえる。
「それにしても、学院の近くにこんな通りがあるなんて知らなかったな」
「人通りも少ないし、店という店もないからな」
ヴァーンの足が止まった。
その視線の先には、木々の影が濃く落ちる小道が伸びている。
「あの突き当たりが親父の家だ」
アルスは息をひそめ、そこを見た。
二階建ての家だった。
派手さはないが、造りはしっかりしている。
表には小さな花壇がある。
けれど、何も植えられていない。
土だけが均されて、乾いたまま残っていた。
「思ったより大きい家だね」
「まあ、立地がこれだからな」
周囲は木々に囲まれていて、街の中に現れた自然みたいな場所だった。
小さな池もあり、水面が薄く光っている。
静かすぎて、ここだけ時間が遅い。
アルスは家へ歩き出しかけて、止まった。
ヴァーンが、先に手で制したからだ。
「……まず、様子だけ見る」
声が低い。
決意というより、準備のための言葉だった。
そうこうしていると、玄関の扉が揺れた。
二人は咄嗟に近くの影に隠れる。
木の幹の陰へ身を寄せ、息を殺した。
中から現れたのは、体の大きい男だった。
髪も髭も伸び切っていて、だらしない格好をしている。
上背だけでなく、肩幅もある。
薪を抱える手つきは重いものに慣れているのに、視線は落ち着かない。
周囲を一度見回してから、ようやく庭へ出た。
どうやら薪を割りに外に出てきたらしい。
「あれがヴァルドさん?」
「ああ、そうだ」
「なんだか、ええと」
アルスは言葉に詰まる。
強い匂いがある。
生活が停滞した場所の匂いだ。
「だらしない格好だろう?」
アルスは無言で少し頷く。
「ここ数年、会っていない間も様子は変わっていないな」
ヴァーンの声は平坦だった。
呆れているのか、安心しているのか。
どちらともつかない。
ヴァルドは薪を割り始めた。
斧が落ちるたび、乾いた音が響く。
動きは遅くない。
ただ、無駄が多い。
迷いが、腕に残っている。
アルスは小さく言う。
「なんだか強そうな人だね」
「ただの小心者さ」
言い切るヴァーンの横顔に、怒りは見えない。
むしろ、痛みを押し込めた硬さがある。
しばらく見ていると、ヴァルドは薪割りが終わったのか。
束を抱えて家の中に戻っていった。
「よし、もう少し近づこう」
アルスが言うと、ヴァーンは一拍だけ迷って、頷いた。
二人は窓の近くまで忍足で近づく。
落ち葉を踏まないように、足裏で地面を探る。
池の水面が揺れ、鳥が一羽だけ飛び立った。
窓から家の中を覗く。
床には空き瓶が転がり、紙屑と布切れが散乱していた。
片付けようとして途中でやめたような、そんな乱れ方だ。
炉の前には灰がこぼれ、壁際には使われていない椅子が倒れている。
ヴァルドは薪をくべていた。
火はつく。
でも、部屋は暖まらない。
散らかった空気だけが、火の光を鈍くしている。
「これはひどいね」
「ああ、前よりももっとひどくなってやがる」
「これはなんとかしないとね」
その瞬間。
アルスの足元で、枝が折れた。
乾いた大きな音が、静けさを裂く。
「誰だ!」
ヴァルドが顔を上げる。
窓に近づく気配。
二人は咄嗟に隠れる。
草の影へ伏せ、息を止めた。
窓が開く。
冷たい空気が流れ出る。
――すると偶然、茂みの向こうから鹿が現れた。
こちらを一瞬見て、首を傾げる。
そして草を噛むような仕草をして、また木々の奥へ消える。
ヴァルドはふん、と鼻を鳴らし。
窓を閉めた。
「危なかった……」
アルスが小さく息を吐く。
「……おい、アルス。どけ」
ヴァーンの声が低い。
アルスは気づく。
自分がヴァーンの上に、半分乗る形になっていた。
「ああごめん」
アルスは静かに移動する。
草が擦れる音を、極力立てない。
「とりあえず、ここから離れるぞ」
二人は来た道を引き返し、先ほど遠目に見ていた場所まで戻る。
木々の影が濃く、視界が少し開けたところでようやく立ち止まった。
「かなり深刻そうだね」
「あれはもう抜け殻だ」
ヴァーンの声は短い。
言い切るのに、余計な力が要らないくらい、確信があった。
アルスは家の方角を見た。
花壇の土が、相変わらず空のままだ。
「さて、どうやって気を引かせようか?」




