第105話
修練場の床は、まだ少し冷たかった。
アルスは壁際に背を預け、腹の奥に残る鈍い痛みをそっと確かめる。
さっきまでの速さと衝撃が、遅れて身体に追いついてきていた。
ヴァーンは数歩先に立ち、息を整えながら腕を回している。
ユリウスは剣を鞘代わりの木箱に戻し、興味を隠しきれない目でアルスを見ていた。
「ところで、アルスが途中で見せたあの魔法は何?
僕の足元から急に槍が飛んできたけど?」
アルスは一拍置いた。
“ユベル”の名を、軽々しく扱えないことだけは分かっている。
けれど隠す理由もない。
「ああ、それは――“ユベルの魔法”だよ」
「ユベルの魔法?」
ユリウスが復唱する。
その音の上で、ヴァーンも少しだけ眉を上げた。
アルスは、慣れた手つきで説明に入る。
何度か、同じやり取りをしてきたからだ。
「魔法を結晶に閉じ込める魔法さ。見てて」
アルスは一歩前へ出て、足元に意識を落とす。
土が静かに盛り上がり、短い槍の形を取った。
修練場の空気が、わずかに震える。
「これが土の魔法。それを――」
槍の輪郭がほどける。
崩れた土は散らず、引き寄せられるようにアルスの手元へ集まった。
次の瞬間。
土は“形”を失い、代わりに小さな結晶が現れる。
指先ほどの大きさ。
透明の中に、土の気配が薄く揺れていた。
ユリウスが息を呑む。
目の焦点が、結晶だけに合っていた。
「こんな形にする。そして――」
アルスは結晶を、誰もいない空間へ軽く放る。
落ちる途中で、結晶が砕けるようにほどけた。
同時に。
床から土の槍が、すっと立ち上がる。
「こんな感じの魔法」
「ほう。使えるな、これ」
ヴァーンは指の上に顎を乗せ、目だけで槍と結晶を往復させた。
考えが早い顔だ。
ユリウスも、気づけば一歩寄っている。
距離を詰めるのが早い。けれど、踏み込みすぎないところで止まる。
「これって土特有の魔法?」
「いいや。理論上では、全ての魔法で適用できると思う」
本当は実証済みだ。
けれどアルスは、あえて「理論上」と言った。
言い切ってしまうと、話が大きくなりすぎる気がした。
「大きさは?」
「……今のところ、どんな大きさでも、このぐらいに収まるみたいだよ」
アルスは指で輪を作って示す。
小さな円。
たったそれだけの大きさが、妙に現実を狂わせる。
「ってことは……」
ユリウスの声が、わずかに上ずる。
「大量の水を結晶にして持ち歩くことも可能ってこと!?」
言い終えた瞬間、ユリウスは自分の言葉の重さに気づいたのか、口を閉じた。
それでも目だけは、結晶から離れない。
「恐らく?」
アルスが曖昧に返すと、ユリウスは言葉を失ったまま固まった。
アルスはふと、さっきの説明を思い出す。
火と水のマナが少ない場所でも、戦える理由。
――持ち運べるなら。
「あっ、そうか。炎も水も、こうやって持ち運べば……そこに存在しなくても、魔法士にとって武器になるんだね」
アルスが言うと、遅れてヴァーンも気づいたようだった。
ヴァーンの目つきが変わる。
噛み砕いて、確信に変えた顔になる。
「確かに! その手があったか。すごいな、この魔法」
「凄いなんてものじゃない!」
ユリウスの声が弾ける。
普段の丁寧さが、一瞬だけ吹き飛んだ。
「水の魔法士にとっては革命だよ」
「そんなに?」
アルスが訊くと、ユリウスは落ち着こうとするように一度息を吸って、すぐ説明を始めた。
言葉より先に、指先が動く。
空中に見えない図を描くみたいに。
「水の携帯化は長年の研究テーマなんだ」
「実際、今の水の国では氷を携帯することで、水の魔法を使えるようにしている」
「最近、水の国で作成された魔道具は、その氷を作って保存するもの」
「その氷を使って、武器や生活に変換するものなんだ」
「それ、いいね」
「そうだね。生活に関しては、とても便利な魔道具だと思う」
そこでユリウスは、言葉を切った。
嬉しさの裏に、ずっと引っかかっていたものが顔を出す。
「だけど」
「魔法士にとっては、氷は単なる水の倉庫でしかないんだ」
「なら、条件は満たせてるんじゃ?」
アルスが首を傾げると、ユリウスはすぐに首を振った。
「大量の水を扱うには、大量の氷がいる。場所を取ってしまうし、何より冷たい」
「時間で少しずつ溶けてしまう」
「だから、水の携帯化は長年の研究テーマだったんだ」
言い終えても、ユリウスの熱は収まらない。
胸の奥に押し込めていたものが、今ようやく出口を見つけたみたいだった。
「まあ、確かにすげぇな」
ヴァーンも珍しく、素直に頷く。
「火の国も同じじゃないのか?」
ユリウスが投げると、ヴァーンは肩をすくめた。
「火の国は紅蓮石があるからな」
「紅蓮石?」
グレン士官院と同じ響きの石だ、とアルスは思う。
「火のマナを豊富に含んだ石だ。強い衝撃で爆発しちまうけどな」
「外から補うマナは、そこから取ることが多い」
「でも、爆発の危険があるんじゃないか?」
「それはそうだが、用途は同じだろ?」
ユリウスの眉が、きゅっと寄る。
「全然分かってないじゃないか。その危険性がなくなるんだ」
「別に爆発したところで、自分の体は守れる」
「違うよ。君のためじゃない」
ユリウスは真っ直ぐに言った。
熱いのに、視線は冷静だった。
「僕が言っているのは、火の導士たちにとって、ありがたいものなんだよ」
ヴァーンが、やっと納得した顔をする。
顎に当てていた指が、外れる。
「確かに……面白い」
「でしょ!?」
ユリウスが嬉しそうに笑う。
その笑いが、修練場の硬い空気を少しだけ柔らかくした。
「それで、アルス。どうやってやるんだ、それ?」
「今度、まとめを持ってくるね」
「ぜひ頼む!」
ユリウスの返事は即答だった。
◆
「ま、それは後でやるとして」
ヴァーンが手を叩く。
乾いた音が、修練場に響いた。
「直近の課題を整理しよう」
さっきの手合わせ。
三つ巴の中で見えたものを、形にするために。
「まず、アルスからだな」
「うん」
「手数の多さ。それに相手をよく観察している」
ヴァーンの言葉は端的で、刺さる場所だけを選んでくる。
「ただ、接近戦に弱い。少し戦いの知識が足りないな」
アルスは苦笑した。
腹の痛みが、答え合わせみたいに残っている。
「次にユリウス」
「ああ」
「見事な防御力だった。俺の攻撃がほとんど当たらなかったのは、凄いことだ」
「ありがとう」
「でも、一度も攻撃してなかったな。俺にもアルスにも」
「そうだね」
ユリウスも、自分の欠点が分かっているようだった。
目が泳がない。
「最後に俺だが」
ヴァーンは少しだけ笑う。
自嘲ではない。事実として受け止める笑いだ。
「接近戦がメインなことだ。相手に近づくことを拒否され続ければ、こちらが消耗していく」
アルスは思う。
凄い分析力だ。
優秀な成績を収めたと言っていただけのことはある。
「まあ、全体としては相性は良さそうだ」
「アルスが後ろでサポートしつつ、俺が前に出る。ユリウスは遊撃としてアルスを守りつつ自由に動く、形が良さそうじゃないか?」
「いいね」
「僕もそれがいいと思う」
「アルスのさっき見せてくれた魔法も作戦に組み込みたいが、それも追々考えよう」
ヴァーンはそこで言葉を切り、アルスを指差した。
「ただ、一つ。直さないといけないことがある」
「?」
「アルス。お前は接近戦が弱すぎる」
アルスは反射的に腹をさする。
ヴァーンがニヤリと笑った。
「もしかして……」
「ああ。一般枠の大会まで十日ほどある」
ヴァーンは、逃げ道を塞ぐみたいに言う。
「だからそれまで毎朝、俺たちで特訓するぞ」
嫌な予感がした。




