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5/11

幸せって何?

■1


5月。


王立法科大学の授業が始まって、2か月が過ぎた。


当初組んだカリキュラムからは、少しだけ遅れている。


それでも、ミアとニコは順調に課題を消化していた。


理沙は二人の答案を確認し、ホワイトボードへ向き直る。


「じゃあ、本日の課題は――」


「先生」


ニコが手を上げた。


「明日は」


「……あ」


理沙の手が止まる。


「そうだった」


明日は、王立大学の第二弾広報企画の日だった。


午前は、ニコの故郷である南部の港町。


父親が営む、外国人観光客向けのフィッシングクルーズを取材する。


午後は、ミアの故郷である北部山岳地域。


こちらは母親も撮影に参加する予定だった。


「二人とも、今日はこのまま帰省?」


「はい」


ニコが答える。


「僕は近いですけど」


理沙はミアを見る。


「ミアは遠いよね?」


「車で二時間半くらいです」


「自分で帰るの?」


「はい」


「そうか。この国、電車ないもんね」


ミアが笑う。


「先生、まだ慣れてないですね」


「日本人だからね。遠出って聞くと、とりあえず駅を探しちゃうのよ」


理沙は時計を見る。


いつもなら、もう一セット問題を解かせる時間だった。


「じゃあ、今日はここまでにしましょう」


ニコが驚く。


「いいんですか?」


「明日、全国向けの撮影で寝不足の顔されても困るから」


「先生も来るんですよね?」


「行くよ。殿下に予定表渡されてるから」


理沙は二人の答案をまとめた。


「今日は帰って、ちゃんと寝ること」


「はい」


「明後日から、また続きね」


二人が教室を出ていく。


理沙はホワイトボードに残った数字を見る。


試験まで、あと二か月。


予定より、少し遅れている。


とはいえ。


順調。


■2


翌日、午後。


午前中の港町での撮影を終え、一行は北部山岳地域へ移動していた。


石造りの家々が斜面に並ぶ、小さな村。


広場にはテレビカメラと王室広報のスタッフが集まっている。


まずはルカのインタビュー。


「生まれた場所や、家庭の事情によって、未来の選択肢が決まってはいけません」


カメラの前で、ルカはいつものように淀みなく話す。


「この国のどこに生まれても、能力のある者が学べる環境を作る。それが王家の責任だと考えています」


撮影が終わる。


続いて、ミアの番だった。


母親と並んで、村を背景にカメラの前へ立つ。


少し離れた場所から、理沙とルカがその様子を眺めていた。


理沙が首を傾げる。


「……あれ?」


「どうしました?」


「ミアのお母さんって、王都のホテルで働いてるんじゃ?」


「ええ。セレニア・ロイヤルホテルでベッドメイクをしています」


「住み込みで?」


「はい」


理沙は、カメラの前で娘の隣に立つ母親を見る。


「じゃあ、今日のためにわざわざここまで?」


「休みを取ってもらいました」


「……ずいぶん作ってますね」


ルカは平然としている。


「政府広報ですから」


「プロパガンダって言いません?」


「セレニアでは政府広報と呼びます」


理沙は思わず笑った。


カメラの向こうでは、ミアが質問に答えている。


緊張している様子はない。


背筋を伸ばし、まっすぐ前を見ていた。


「ミアちゃん、カメラ映えしますね」


「そこは選考基準には入れてませんよ」


「ほんと?」


「本当です」


ルカは少し笑う。


「ただ、選ばれた以上は最大限活用します」


そのとき、ミアの声が聞こえてきた。


「私みたいに、この村で育った人間でも、法律を学べる場所がこの国にできたことが嬉しいです」


隣で、ミアの母親が小さく頷く。


理沙は黙って、その姿を見つめた。


作られた画面ではある。


けれど。


ミアが言っていることまで、嘘というわけではなかった。


「殿下、ミアさんとツーショットを一枚お願いします!」


王室広報のスタッフが声をかける。


「あ、呼ばれちゃいました」


ルカは理沙を見る。


「では、行ってきます」


「はい。王子様のお仕事、頑張ってください」


ルカは笑って、ミアの隣へ歩いていった。


すぐに二人へカメラが向けられる。


「殿下、もう少しミアさんの方へ!」


「これくらいですか?」


「はい、お願いします!」


シャッターが連続して鳴った。


■3


撮影が終わるころには、日が傾き始めていた。


ミアは母親や親戚たちと少し話をしてから、今日中に大学へ戻る予定だという。


理沙とルカを乗せた車は、一足先に村を出た。


窓の外には、岩山と乾いた草原が続いている。


王都周辺とは、ずいぶん景色が違った。


「……ずいぶん寂しいというか、何もないところですね」


「ええ」


ルカは窓の外を見る。


「ご存じかもしれませんけど、この辺りは三十年ほど前まで、北部氏族連合と呼ばれる地域でした」


「氏族連合?」


「名目上はセレニア王国の領土でした。でも、実質的には別の国みたいなものです」


理沙は少し考える。


「それって……お母さまの?」


ルカが笑った。


「ははっ。よくご存じですね」


「一応、来る前に調べましたから」


「まあ、インターネットにあるっちゃある情報ですからね」


しばらく、車内にエンジン音だけが続いた。


理沙は迷った。


それでも口を開く。


「殿下」


「はい?」


「一つ、踏み込んだことを伺ってもいいですか?」


ルカが理沙を見る。


「晩餐会の夜なんですけど」


理沙は少し言葉を選んだ。


「聞くつもりはなかったんです。でも、偶然……エドガー大宰相との話を聞いてしまって」


一瞬。


ルカの表情が止まった。


「ああ。その話ですか」


それから、困ったように笑う。


「まいったな。先生は何でも知ってるんですね」


「ごめんなさい」


「いえ。先生が悪いわけじゃありません」


ルカは前方を見る。


少し考えてから、運転手へ声をかけた。


「ここからなら、近いですね」


そして理沙を見る。


「車の中でする話でもありませんし」


「え?」


「少し、寄っていきましょうか」


車は次の分岐で、王都へ続く道を外れた。


■4


夕日が、北部の山々へ沈みかけていた。


車を降りてから、二人はしばらく石畳の坂道を歩いた。


小さな墓地だった。


観光客の姿はない。


山の斜面に、古い墓標が静かに並んでいる。


ルカが、その中の一つの前で足を止めた。


「ここです」


理沙も立ち止まる。


石の墓標には、一人の女性の名前が刻まれていた。


MILENA DRAGOVIC


「母、ミレーナ・ドラゴヴィッチの墓です」


理沙は何も言わず、墓標を見た。


「先生には、いつか話そうとは思ってたんですけどね」


ルカは少し困ったように笑う。


「話そう、話そうと思ってるうちに、タイミングを逃しました」


「………」


ルカは墓標へ目を戻した。


「ご存じの通り母は、この北部の出身です」


「北部氏族連合………」


「はい。有力氏族の家に生まれました」


山の向こうへ、夕日がゆっくり沈んでいく。


「当時、北部と王国は長く対立していました」


「それをまとめるための結婚?」


「そうです」


ルカは頷いた。


「父と母の結婚は、南北和平の象徴でした」


理沙は墓標に刻まれた名前を見る。


「お母さまは、それを望んで?」


「さあ」


ルカは少しだけ笑った。


「少なくとも、自分で選んだ結婚ではなかったと思います」


風が吹く。


墓地の木々が静かに揺れた。


「それでも母は王宮へ入り、僕を産みました」


ルカの声は淡々としていた。


「でも、その後、北部との内通を疑われた」


理沙はルカを見る。


「裁判は?」


「ありません」


短い答えだった。


「当時の法律では、国王の権限で処刑することができました」


「……そう」


「母は、そのまま処刑されました」


理沙は何も言えなかった。


ルカは墓標を見たまま続ける。


夕日は、もう山の稜線に半分ほど隠れていた。


■5


理沙は、墓標を見つめたまま口を開いた。


「エドガー大宰相は、このプロジェクトを殿下の私怨による報復だと思っていると………」


ルカが小さく笑う。


「ははっ。まさか」


「違う?」


「違います」


ルカは墓標へ目を戻した。


「まあ、口で言っても信じていただけない種類の話だとは思いますけど」


「大宰相への遺恨はない?」


少し間があった。


「僕も、聖人君子ではないですから」


それ以上、理沙は聞かなかった。


風が、山の斜面を抜けていく。


「でも」


ルカが続ける。


「それと、国をどうするかは別です」


「別?」


「ええ」


ルカはゆっくりと理沙を見る。


「国には秩序が必要です」


「秩序?」


「勅命に間違いはありません」


理沙が少し眉を上げる。


ルカは一拍置いた。


「……いや。間違いはないという前提で、国は動くんです」


夕日が、墓地を赤く染めていた。


「臣民が一人一人、勅命の是非を判断していたら、国は成り立ちません」


「だから、王が決める?」


「はい」


ルカは迷いなく頷いた。


「王が決め、臣民が従う。その結果については、王が責任を負う」


理沙は黙って聞いていた。


「母も、国のために王家へ嫁ぎました」


ルカは墓標を見る。


「当時の北部と王国には、それが必要だった」


「……うん」


「和平は実現しました。北部は王国に統合され、今では同じセレニアです」


「まだ十分とは言えません。でも父は、ここに道路を造り、学校や病院を整備しました」


「さっき通ってきた道も、以前はありませんでした」


ルカは山の向こうを見る。


「当時は、徒歩か馬でしか移動できないような地域だったんです」


遠くに、さっきまでいた村が見える。


「でも母は、その国に疑われた」


ルカの声が少し低くなった。


「裁判もなく、処刑された」


沈黙。


「母は国のために生きた」


ルカは静かに言った。


「なのに、その国に殺された」


そして墓標を見つめる。


「だから僕は」


少し間を置いた。


「母は、幸せな人生ではなかったと思っています」


■6


重苦しい空気が流れた。


しばらく、どちらも口を開かなかった。


夕日は、ほとんど山の向こうへ沈んでいる。


先に口を開いたのは、理沙だった。


「……私は、そうは思わない」


ルカが理沙を見る。


「え?」


「お母さまが、不幸だったって話」


理沙は墓標へ目を向けた。


「政略結婚だったのは分かるよ。でも、お母さまには結婚する前に、この国を離れることだってできたんじゃない?」


「……亡命ですか」


「うん」


ルカは少し考えた。


「不可能ではなかったと思います。もちろん、家族も故郷も捨てることになりますが」


「でも、そうしなかった」


理沙は続ける。


「選択肢は、すごく狭かったと思う。どれを選んでも、大きなものを失ったでしょうし」


「………」


「それでも、お母さまは王家に嫁ぐ道を選んだ」


風が、墓地を抜けていく。


「結婚したあとも、ずっと嫌々生きていたの?」


「……いえ」


「お父さまとの仲は?」


「悪くはなかったと聞いています」


「あなたのことは?」


ルカが黙った。


少しして、答える。


「……愛してくれていたと思います」


理沙は小さく頷いた。


「だったら」


墓標を見る。


「最後が悲惨だったからって、その人の人生全部を『不幸だった』って決めるのは、違うんじゃないかな」


ルカは何も言わない。


「私、昔、司法試験の予備校で教えてたでしょ」


「ええ」


「受かった子はたくさんいた。」


「もちろん、講師としては胸を張れる話じゃないけど、受からなかった子もいた」


理沙は遠くの山を見る。


「何年も勉強して、それでも受からなくて、途中で諦めた子もいる」


「その人たちは、不幸だったんでしょうか」


「私は、そうは思わない」


理沙はすぐに答えた。


「司法試験を受けるって決めたのは自分。頑張るって決めたのも自分。最後に、もうやめようって決めたのも自分」


少し笑う。


「合格できたから幸せで、できなかったから不幸。そんな単純な話じゃないと思う」


ルカは静かに聞いている。


「失敗したっていいし、途中で諦めたっていい」


理沙は墓標を見る。


「自分で選んだなら、その人生は、その人のものだから」


沈みかけた夕日が、最後の光を墓標へ落としていた。


「幸せって、結果じゃなくて」


理沙は少し考えてから言った。


「自分の人生を、自分で選ぶこと。それ自体なんじゃないかなって、私は思う」


長い沈黙。


やがてルカが口を開いた。


「先生は」


「ん?」


「今、幸せなんですか?」


理沙は少し驚いた。


そして、笑った。


「はい」


迷いはなかった。


「この仕事、自分の意思で選びましたから」


■7


ロンドン。


BBCの編集フロア。


シャーロットは自分のデスクで、紙袋から取り出したミートパイをかじっていた。


昼食を取りながら、パソコンでは各国のニュースサイトを巡回している。


画面に映っているのは、香港国際放送。


セレニア第二王子、ルカ・ボーモントへのインタビューだった。


記者が中国語で質問する。


画面下には、英語字幕が表示されている。


『殿下が進める王立大学計画は、王家の強い指導力によって、非常に短期間で実現しました』


『これは、有能な指導者に権限を集中させることの利点を示しているとも言えるのではありませんか?』


ルカが少し笑う。


『迅速な意思決定は、確かに強いリーダーのメリットです』


記者が満足そうに頷いた。


『特に大きな改革では、責任の所在が明確であることには価値があります』


記者はさらに満足そうに頷く。


シャーロットはミートパイをもう一口かじった。


『ただし』


ルカが続ける。


『王が決めるべきなのは、国民が何になるかではありません』


シャーロットの手が止まった。


『一人一人が、自分の人生を自分で選び、その選択に挑戦できる』


『国家の役割は、そのための環境を整えることだと考えています』


「…………」


シャーロットはマウスを操作した。


十秒戻す。


もう一度。


『一人一人が、自分の人生を自分で選び、その選択に挑戦できる』


「……あいつ」


さらに戻す。


『一人一人が、自分の人生を自分で選び――』


シャーロットは眉を寄せた。


「シャーロットさん」


背後から声が飛んできた。


「まだ食べてるんですか?お昼ご飯」


若いスタッフが時計を指す。


「次、夕方のニュースです。ベスナル・グリーンから中継です」


「スティッキー・トフィー・プディングの店。そろそろ行きますよ」


シャーロットは手元のミートパイを見る。


「今これ食べてるんだけど」


「取材では、ちゃんと美味しそうに食べてくださいね。生中継なんですから」


シャーロットは残りを口へ放り込み、紅茶で流し込んだ。


立ち上がり、薄手のジャケットを掴む。


「大丈夫」


「ほんとですか?」


「甘いものは別腹なの!」


そのまま歩き出す。


けれど。


数歩進んでから、シャーロットは一度だけ振り返った。


パソコンの画面では、ルカがまだ何かを話していた。


「あいつ……こんなこと言うキャラだったっけ?」


■8


7月。


セレニア国際空港。


出発前、王室広報のカメラマンが四人の写真を一枚撮った。


それが終わると、4人は出国ゲートをくぐった。


出発ロビーには、ルカ、理沙、ミア、ニコの四人が並んでいた。


王立法科大学の授業が始まって、四か月。


約三千パターン。


最低十周。


最後の一か月は、過去問と弱点潰しにほとんどの時間を費やした。


当初の予定から、多少の遅れは出た。


それでも。


ここまで来た。


理沙は二人を見る。


「準備は?」


「万端です」


ミアが答えた。


ニコも頷く。


「三万で足りました」


理沙が笑う。


「言うようになったわね」


頭上の電光掲示板には、


LONDON HEATHROW


の文字。


まもなく搭乗開始だった。


そのとき、ルカのスマートフォンが震えた。


画面を見る。


シャーロットからだった。


『明日のキングスブリッジの同窓会、来る?』


続けて、もう一通。


『私も行くから、少し話しましょう』


ルカは短く返信する。


『行く予定です』


「どなた?」


理沙が聞く。


「シャーロットです。明日、大学の同窓会があるので」


「さあ、そろそろ時間ですね」


隣にいたルカが、胸元で十字を切った。


理沙が首を傾げる。


「殿下、信心深かったっけ?」


「いえ。別に」


「じゃあ、何それ」


「渡英の際には、十字を切るんです」


「なんで?」


「旧主君の国ですからね、第三回十字軍の頃から続いています」


理沙はルカを見る。


「……八百年も?」


「八百年も」


ルカは平然と答えた。


搭乗開始を告げるアナウンスが流れる。


理沙はミアとニコを見る。


「じゃあ、行きましょうか」


「はい」


ミアが手を差し出した。


その上に、ニコが手を重ねる。


理沙も重ねた。


最後にルカが、その上へ手を置く。


四人で顔を見合わせる。


「四か月、やることは全部やった」


理沙が言った。


「残ってるのは?」


ニコが笑う。


「受かるだけです」


「よし」


理沙も笑った。


「いざ!」


「ロンドンへ!」


四人は手を離し、搭乗口へ歩き出した。



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