王子の国
■1
授業開始前夜。
王立法科大学の職員室には、理沙だけが残っていた。
机の上には、日本にいる間に作った授業案と、SQE1の資料が積み上がっている。
出題範囲。サンプル問題。試験方式。合格基準。
パソコンには、四か月分のカリキュラム案。
隣の会議室からは、ときどきルカの声が聞こえていた。
夕方から、ずっとオンライン会議を続けているらしい。
やがて扉が開く。
「ああ、先生。まだ残ってらしたんですね」
「明日が初日だからね」
ルカは職員室へ入り、軽く肩を回した。
「ずっと会議してたでしょ」
「普段は王宮の執務室でやるんですけどね。何分、今は忙しいもので」
「王子様も大変ね」
ルカは理沙の机に積まれた資料を見る。
「どうです? なんとかなりそうですか?」
「明日、本人たちと話してみないと分からないけど」
理沙は画面をスクロールした。
「何もできなくはないと思います」
「本当ですか?」
「試験ですから」
理沙はあっさり答えた。
「出るものは決まってます。傾向と対策を詰めて、必要なところを潰していく。あとは最短距離を走らせればいいと思います」
ルカが笑う。
「やっぱり先生を呼んで正解でした」
「まだ受かってませんけどね」
理沙は資料を一冊閉じた。
「でも、殿下」
「はい?」
「二人をSQE1に受からせて、その次は?」
「王立大学を大きくします。法学だけじゃなく、経済や行政も。いずれは国内に人材育成機関を増やしたいです」
「その次は?」
ルカが止まった。
「……その次?」
「人を育てて、それでこの国をどうするんですか?」
「もっと豊かにします」
「豊かにして?」
「臣民を幸せにします。それが王たる者の務めですから」
理沙は首を傾げた。
「幸せって?」
「え?」
「何ができれば幸せなの? お金があれば? 好きな仕事ができれば? 家族がいれば?」
ルカは少し考えた。
「……そこまでは、まだ」
「国家プロジェクトなのに?」
「だから」
ルカは笑った。
「それを先生と一緒に考えていきたいんです」
「答えないのね」
「先生と一緒なら、なんとかなる気しません?」
理沙は黙って画面を見る。
東都大には合格があった。
司法試験にも正解があった。
高瀬塾では合格者数や再生数が返ってきた。
けれど。
どんな国なら、人は幸せなのか。
そこには採点者も、模範解答もない。
何を正解とするのかから、自分たちで決めなければならない。
理沙は少しだけ笑った。
「……面白そう」
「え?」
「私、それやってみたい」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
やりたい。
そんな理由で何かを選んだのは、初めてだった。
理沙はパソコンを閉じた。
「さて。今日はここまでかな」
「もう帰れます?」
「うん」
「よろしければ、迎賓館までお送りしますよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
「もちろん」
二人は明かりの落ちた職員室を出た。
■2
翌朝。
王立法科大学の教室には、学生より記者の方が多かった。
壁際にはテレビカメラが並び、外国人記者たちがノートパソコンを開いている。
教壇の前には、ルカ、理沙、ミア、ニコ。
「……ずいぶん来ましたね」
理沙が小声で言う。
「国家プロジェクトですから」
ルカは平然としていた。
やがて王室広報官が開始を告げる。
ルカが一歩前へ出た。
「建国以来八百年。ボーモント家は、セレニアを美しく豊かな国として導いてきました」
カメラのシャッターが鳴る。
「観光業は発展し、多くの臣民が安定した生活を送っています」
ルカは一度、記者たちを見渡した。
「しかし、その豊かさの中で、すべての臣民が等しく機会を得ているとは言えません」
「生まれた地域や、家庭の経済状況によって、受けられる教育が決まってしまう」
「高度な教育を受けるためには国外へ出る必要があり、国費留学にも限りがあります」
ルカはミアとニコへ目を向けた。
「二人には能力があります。しかし、これまでその能力を生かすための道が国内にはありませんでした」
そして、正面を向く。
「すべての臣民に機会を与える。それが王家の責任だと、僕は考えています」
記者の手が上がった。
「殿下。四か月でお二人をSQE1に合格させるという目標は、現実的なのでしょうか?」
「そのために、日本から専門家を招聘しました」
ルカが理沙へ手を向ける。
理沙は記者たちへ軽く会釈した。
フラッシュが数回光る。
質疑応答は、その後もルカを中心に続いた。
やがて王室広報官が終了を告げる。
記者たちは機材を抱え、次々と教室を出ていった。
最後の扉が閉まる。
急に静かになった。
理沙はミアとニコを見る。
「さて」
教壇へ向かう。
「ここからは、本当に勉強しましょうか」
■3
最後の記者が教室を出た。
扉が閉まる。
さっきまでのフラッシュと話し声が嘘のように、教室は静かになった。
理沙はホワイトボードの前に立った。
「じゃあ、始めましょうか」
ミアとニコが姿勢を正す。
「もう知ってると思うけど、SQE1は問題文を読んで、5つの選択肢から最も適切な答えを一つ選ぶ試験です」
「問題数は360問」
「事前課題を見る限り、二人とも法律の知識そのものは持ってる」
二人の顔が引き締まった。
「試験までは四か月です。だから、ゼロから全部勉強し直すことはしません」
理沙はパソコンから資料を映した。
大量の項目が画面いっぱいに並ぶ。
「サンプル問題と出題範囲を、論点と聞かれ方で私なりに分類しました」
ニコが画面を見る。
「……何個あるんですか?」
「約3千パターン」
「3千……」
「これを、どの角度から聞かれても正答できるようにします」
ミアが手を挙げた。
「具体的には?」
「問題演習」
理沙はあっさり答えた。
「本番まであと四か月。この3千パターンを最低10周」
教室が静かになる。
「……10周…3万問…」
ニコが聞き返した。
「もちろん、正答率が安定したものは外して。間違えた論点は回数を増やします」
ニコは少し考えた。
「3万で足りるんですか?」
理沙が顔を上げる。
ミアも隣でうなずいていた。
理沙は少し笑った。
「頼もしいわね」
ホワイトボードに大きく書く。
四か月後 SQE1合格
「じゃあ、始めましょう」
二人は同時に答えた。
「はい」
ルカは笑顔で3人を見ていた。
■4
その日の夜。
王宮へ向かう車の中。
理沙は背中を気にしながら、何度目か分からないため息をついた。
「ちょっと殿下。この服なんなんですか?」
「似合ってますよ」
「そういうこと聞いてないんですけど」
理沙は迎賓館を出たときのことを思い出す。
日本から持ってきた紺色のフォーマルドレスを見たルカは、開口一番こう言った。
『……なんか違うんですよね』
結局、そのまま王宮へ連れていかれ、王室広報の女性たちに囲まれた。
そして今。
理沙が着ているのは、背中が大きく開いた黒いイブニングドレスだった。
髪まで整えられ、普段より少し濃い化粧をされている。
「ハリウッド女優が着るやつですよね、これ」
「いいじゃないですか。僕は好きですよ、そういうの」
「殿下の好みは聞いてません」
ルカは楽しそうに笑った。
理沙は窓の外を見る。
「そもそも、今日ってそんな大げさな会なんですか?」
「名目は晩餐会ですけど、王室主催のレセプションですね。海外メディアも来ます」
「また記者?」
「観光はセレニアの重要産業ですから」
ルカは当然のように答えた。
「王家の行事も重要なプロモーションなんです。外国の新聞やテレビで王宮が映れば、それだけで国の宣伝になります」
「王族まで観光資源なんですね」
「ええ。」
「臣民を豊かにするには、王室が率先して働かなくてはいけません」
車が坂を上る。
やがて、夜の丘の上にライトアップされた王宮が姿を現した。
「寄り道しましたけど、まだ間に合いますね」
石造りの巨大な宮殿。
正門には正装した衛兵が並び、その向こうへ黒塗りの車が次々と吸い込まれていく。
理沙は窓越しに見上げた。
「……なんか、本当にすごいところに来ちゃったな」
車は、そのまま王宮の門をくぐった。
■5
荘厳なセレモニーが終わり、会場は晩餐会へ移った。
理沙が広間を見渡す。
その中で、ひときわ大きな人だかりができている場所があった。
外国人投資家。ホテル経営者。海外メディア。
その中心で笑っているのは、第一王子レオン・ボーモント。
26歳。
長身。
日に焼けた肌。
無造作に整えられた髪。
豪放磊落。ワイルドでセクシー。
Instagramのフォロワーは、1200万人。
「……日本の人口の十分の一じゃない」
理沙が呟く。
「兄は人気ありますからね」
隣でルカが答えた。
「セレニアの人口の十倍でしょ?」
「ええ」
そのレオンが、こちらに気づいた。
「ルカ!」
投資家たちに一言断り、人垣を抜けて歩いてくる。
「久しぶりだな」
「三日前にも会いましたよ」
「細かいこと言うな」
レオンは笑って弟の肩を叩いた。
そして、理沙を見る。
「ところで、そちらの素敵な女性は?」
「ああ。僕の技術顧問の藤原先生です」
レオンの顔が明るくなる。
「彼女がお前がいつも話してる藤原さんか」
「いつも?」
理沙がルカを見る。
レオンは笑いながら、理沙へ手を差し出した。
「レオン・ボーモントです。お会いできて光栄です、藤原先生」
「藤原理沙です。こちらこそ」
握手する。
見た目は海賊みたいなのに、振る舞いは驚くほど紳士的だった。
「兄として」
レオンはルカを見る。
「そして今回のライバルとして、弟をよろしくお願いします」
「はい」
「まあ、王位は譲りませんけどね」
「僕もそのつもりはありません」
レオンが笑って、弟へ右手を差し出す。
ルカもその手を握った。
その瞬間。
周囲の記者たちが一斉にカメラを向けた。
フラッシュが、何度も二人の王子を照らした。
■6
「藤原先生、お腹もすいたでしょう」
レオンと別れたあと、ルカが言った。
「まあ、それなりに」
「僕はまだ少しかかりそうなので、先に何か食べてきてください」
「殿下は?」
「挨拶回りが残ってます」
「王子様も大変ですね」
「仕事ですから」
ルカはそう言うと、今度は外国人客の一団へ歩いていった。
理沙は一人、料理の並ぶテーブルへ向かう。
魚介料理。肉料理。色鮮やかな前菜。
グラスを手にした人々が、英語やフランス語で談笑している。
「……ほんとに王宮の晩餐会なんだな」
皿に料理を取りながら、会場を見渡す。
少し離れたところでは、一人の老紳士が外国大使らしい夫妻と話していた。
セレニア国王。
リチャード十四世。
六十歳ほど。
派手な身振りはないが、そこに立っているだけで周囲の空気が違った。
その近く。
白髪の男が数人の官僚らしい人物に囲まれている。
「あの人が……」
大宰相エドガー・サヴェル。
レオンやルカほど目立たない。
それでも、彼が歩けば人が自然に道を空けた。
さらに奥では、上品な年配の女性が招待客たちに声をかけていた。
エレノア・サヴェル。
二人の王子を育てた女性だと、ルカから聞いている。
誰かが困ればすぐに気づき、給仕に指示を出す。
王族ではない。
それでも、この場を誰よりよく知っているように見えた。
「なるほどねえ……」
理沙は料理を一口食べた。
「おいしい」
しばらくして、ルカが戻ってきた。
「先生、楽しんでます?」
「食べ物はね」
「それはよかった」
そのとき。
「ルカ」
背後から、若い女性の声がした。
■7
「ルカ」
背後から声をかけられ、ルカが振り返った。
そこに立っていたのは、若い女性だった。
淡い金髪を肩で揃え、黒いドレスを着ている。
整った顔立ち。
どこかで見たことがある。
「シャーロット」
「久しぶり」
「セレニアまで来てたんですね」
「仕事よ。あなたのおかげでね」
「それは光栄」
ルカが理沙を見る。
「藤原先生。シャーロット・アシュフォードです。大学時代の同級生で、今はロンドンで記者をしています」
「はじめまして」
シャーロットが手を差し出す。
理沙は握手しながら、もう一度その顔を見た。
「あれ……テレビに出てません?」
「たまに」
シャーロットは小さく笑い、バッグから名刺を取り出した。
BBCのロゴ。
理沙にも見覚えがある国際ニュース番組の名前が記されている。
「やっぱり。見たことあります」
「ありがとうございます」
「今日は取材で?」
「ええ。BBCの取材班で来たの。仕事はだいたい終わったから、今は自由時間」
シャーロットがグラスを軽く持ち上げる。
「それより、ルカ。今日の会見、見たわよ」
「ありがとうございます」
「すべての臣民に機会を与える、だったかしら?」
「ははっ」
ルカは迷いなく答えた。
「王たる者には、臣民へ機会を与える責任がありますから」
シャーロットは一瞬、黙った。
そして、小さくため息をつく。
「……あんたって、いつもそうよね」
「何が?」
「なんでも自分で抱え込むところ」
「王子だからね」
「ほら、それ」
シャーロットは呆れたように笑った。
そのとき、少し離れた場所から王室職員が声をかけた。
「ルカ殿下。少々よろしいでしょうか」
「すみません」
ルカは二人へ軽く頭を下げる。
「先生、少しここで待っていてください」
「えっ、あっ、はい」
ルカが人混みの向こうへ消えていく。
理沙とシャーロットだけが残った。
シャーロットは、しばらくその背中を眺めていた。
「あいつ、昔からそうなのよ」
「そうなんですか?」
「『王たる者は、与える者でなくてはならない』って」
シャーロットはグラスを傾ける。
「でも、欲しいものって、口を開けて待ってたって手に入らないでしょう?」
「……まあ」
「自分から取りにいかないと」
そして、理沙を見る。
「あなたは、どう思う?」
理沙が答える前に、シャーロットは少し笑った。
「いけ好かない男でしょ? あいつ」
■8
「私、少し酔ったかしら」
シャーロットが頬に手を当てた。
そのとき。
会場の向こうから、カメラを担いだ一団が近づいてくる。
「シャーロットさん、そろそろ戻りますよ」
「あら。呼ばれちゃった」
シャーロットは理沙へ向き直った。
「それじゃ、藤原先生。短い間でしたけど、楽しかったわ」
「こちらこそ」
「また、どこかで」
軽く手を振る。
シャーロットはBBCの取材班と一緒に、人混みの向こうへ消えていった。
理沙はその背中を見送る。
「欲しいものは、自分で取りにいく……か」
しばらくして。
「お待たせしました」
ルカが戻ってきた。
「シャーロットさん、帰りましたよ」
「そうですか」
「殿下は?」
「僕は、もう少しかかります」
「まだ?」
理沙が会場を見渡す。
先ほどまで大勢いた招待客も、少しずつ減り始めていた。
「ホスト側なので。最後のお客様がお帰りになるまでは残らないと」
「なるほど」
理沙は少し考えた。
そして気づく。
「……私、帰れなくありません?」
ルカが申し訳なさそうに笑った。
「すみません」
「足、殿下に迎えにきていただきましたし」
「もう少しだけ付き合ってください」
「はい」
理沙はため息をついた。
慣れないドレス。
慣れないヒール。
朝から記者会見に授業、それから王宮のセレモニーと晩餐会。
さすがに少し疲れてきた。
それに、会場の熱気も暑い。
ルカがそれに気づいたらしい。
「よかったら、バルコニーで休んでいてください」
「バルコニー?」
「ええ。夜は涼しいですよ。港も見えます」
理沙は開かれた大きな窓の向こうを見る。
白いカーテンが、夜風に揺れていた。
「じゃあ、そうしようかな」
「終わったら迎えに行きます」
「お願いします」
理沙はグラスを置き、一人でバルコニーへ向かった。
■9
バルコニーへ出ると、夜風が頬を撫でた。
昼間の暑さが嘘のように涼しい。
眼下には、セレニアの港。
停泊するヨットやクルーザー。
その向こうに、街の明かりが海岸線に沿って続いている。
「……きれい」
理沙は壁際の椅子に腰を下ろした。
慣れないヒールを少しだけ脱ぐ。
「生き返る……」
朝から長い一日だった。
記者会見。
授業。
三万問。
王宮。
そして晩餐会。
目を閉じる。
今日だけで、ずいぶんいろんな人に会った。
第一王子、レオン。
国王、リチャード十四世。
大宰相、エドガー・サヴェル。
両王子の育ての親で大宰相の娘、エレノア・サヴェル。
そして――。
『欲しいものって、口を開けて待ってたって手に入らないでしょう?』
シャーロットの言葉が浮かぶ。
欲しいものは、自分から取りにいく。
「……か」
理沙は少し笑った。
そのうち、考えるのも面倒になった。
夜風が心地いい。
遠くから聞こえる音楽も、だんだん小さくなっていく。
理沙は、そのまま目を閉じた。
◇
「……ん」
目を開ける。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
「……寝てた?」
時計を見る。
思っていたより時間が経っている。
会場から聞こえていた音楽も、もう止まっていた。
理沙はヒールを履き直し、立ち上がる。
窓の向こうを覗く。
さっきまで人で埋まっていた広間には、もうほとんど客が残っていない。
給仕たちがグラスを片づけている。
「だいぶ終わったみたいね」
理沙は大きく伸びをした。
「殿下、まだ仕事してるのかな」
そろそろ戻ろう。
理沙は一人、静かになった会場へ足を向けた。
■10
理沙は静かになった広間へ戻ろうと、回廊を歩いていた。
そのとき。
人の声が聞こえた。
「殿下」
聞き覚えのある低い声。
理沙は足を止めた。
柱の向こう。
大宰相エドガー・サヴェルと、ルカが向かい合っている。
「今日の発表はいったいどういうおつもりですか?」
「言った内容、そのままですが」
「この国には、この国なりの秩序があります」
エドガーの声は静かだった。
「八百年続いてきた秩序です。それを殿下の理想だけで壊されては困る」
「壊すつもりはありません」
「では、何をなさるおつもりです?」
ルカは答えない。
エドガーが一歩近づいた。
「それとも――」
少し間を置く。
「これは、お母様の復讐ですか?」
理沙の眉が動いた。
母?
「北部の者たちに機会を与え、旧来の貴族を弱める」
エドガーは続ける。
「まるで、あの北部氏族の女が――」
「口を慎めよ、エドガー」
空気が変わった。
理沙は息を止めた。
さっきまでのルカとは、声が違う。
低い。
冷たい。
「誰にものを言っている」
ルカはエドガーを真っ直ぐ見ていた。
「余をセレニア王国、第二王子、ルカ・ボーモントと知っての言か?」
エドガーが黙る。
「母上への侮辱は許さない」
ルカは静かに言った。
「時代が違えば、この場で貴様を斬り捨てても、誰も余を裁けない」
沈黙。
やがてエドガーが頭を下げた。
「……失礼いたしました。殿下」
「分かればいい」
二人は、それ以上何も言わなかった。
理沙はそっと後ずさる。
心臓が、少し速い。
「…………怖っ」
思わず、小さな声が漏れた。
さっきまで笑っていた王子様と、同じ人間とは思えない。
理沙は何も見なかったことにして、その場を離れた。
◇
しばらくして広間へ戻る。
ほとんどの客は、もう帰っていた。
「ああ、先生」
後ろから、いつもの声がした。
振り返る。
ルカが笑っている。
「お待たせしました」
「……はい」
やっぱり。
さっきの人と、同じ人だった。
■11
王宮を出るころには、日付が変わりかけていた。
迎賓館へ向かう車の中。
理沙は窓の外を流れる街灯を眺めていた。
隣には、いつものルカ。
さっきまでと同じように、穏やかな顔をしている。
「今日は長かったですね」
「ほんとです」
「疲れました?」
「慣れない靴が一番疲れました」
「似合ってましたけどね」
「それはもう聞きました」
ルカが笑う。
理沙も少しだけ笑った。
それから、車内が静かになる。
「殿下」
「はい。なんでしょう?」
理沙はルカを見る。
一瞬だけ、さっきの冷たい横顔が重なった。
「……いえ」
「?」
「なんでもありません」
「そうですか」
ルカはそれ以上聞かなかった。
理沙は再び窓の外を見る。
王たる者には、臣民へ機会を与える責任がある。
母上への侮辱は許さない。
「……王子様って、大変なんですね」
「今さらですか?」
「今さら」
車は静かな夜のセレニアを走っていった。




