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3/11

あなたの人生なんだから

■1


北奥大学に着任して、1年が過ぎようとしていた。


一年目の後期。


授業を終え、理沙が教卓の資料をまとめていると、一人の女学生が近づいてきた。


「藤原先生、ちょっといいですか?」


インドネシアからの留学生だった。


手には、ボロボロになった行政書士試験の問題集を抱えている。


「いいよ。どこ?」


「ここです。どうして三番、違いますか?」


理沙は問題集を受け取り、問題文に目を通した。


「ああ。ここは条文だけ読むと三番に見えるんだけど――」


空いている席に座り、余白に簡単な図を書いて説明する。


「つまり、この場合はこっちが先」


「ああ……そういうことですか」


「そう。問題文がちょっと意地悪なのよ」


学生は何度かうなずき、ノートに書き込んだ。


「行政書士、受けるの?」


「はい」


「卒業してから?」


「できれば在学中に取りたいです」


「へえ。頑張るね」


学生は少し照れたように笑った。


「外国人の在留資格の仕事、したいです。私、日本に来たとき、手続き、すごく大変だったから」


「なるほど」


「同じように困ってる人、助けたいです」


理沙は問題集を返した。


「じゃあ、取らないとね」


「はい」


「分からないところあったら、また持ってきて」


「ありがとうございます、先生」


学生が教室を出ていく。


理沙は一人になった教室を見回した。


大学教員になりたかったわけではない。


けれど。


「……喜んでもらえるのって、楽しいな」


そう呟いて、理沙は黒板を消し始めた。


■2


三十二歳、夏。


麻衣が夫と二人の子どもを連れて、北奥市へ帰省していた。


理沙は夕方、佐伯家を訪ねた。


「はい、これ」


麻衣が差し出したのは、一冊の古い文庫本だった。


「わあ、ありがとう。懐かしい」


「ずっと私の家の本棚にあったんだけど、これ理沙のだよね。」


「全然気づかなかった」


「でしょうね」


二人で笑う。


玄関脇には、手持ち花火の入った袋が置かれていた。


「花火?」


「うん。今日やるの。上の子が楽しみにしてて」


その声を聞いたのか、小さな女の子が廊下から顔を出した。


「ママ、このお姉さんだれ?」


「ママの大学のときのお友達。一緒に住んでたのよ」


「へえー」


女の子は理沙をしばらく眺めると、すぐに庭へ走っていった。


理沙は居間で麻衣と向かい合い、麦茶を飲んだ。


隣の部屋からは、下の子の声が聞こえる。


「二人目、いくつだっけ?」


「一歳」


理沙は少し呆れたように麻衣を見る。


「……本当に二人産んだのね」


「産むって言ったでしょ」


麻衣は当たり前のように答えた。


大手企業に入り、結婚して、家を買って、子どもを二人。


大学生のころ、麻衣が話していた通りだった。


「すごいなあ」


「なにが?」


「いや。本当にその通りになったなって」


麻衣は不思議そうな顔をした。


「だって、そうするつもりだったもの」


帰り際。


庭では、麻衣の父母が花火の準備をしていた。


子どもたちが、その周りを楽しそうに走っている。


理沙は少しだけ足を止めた。


「……ほんとに、そうなったんだ」


羨ましい、とは少し違った。


ただ、妙に感心した。


■3


三十三歳、秋。


夜。


理沙は自宅のパソコンで、翌日の講義資料を作っていた。


スライドを一枚追加したところで、画面の隅に通知が出た。


Facebook。


見覚えのある名前だった。


『藤原先生、ご無沙汰しています。高瀬塾で先生の講義を受けていた田中です』


「ああ……」


思い出した。


司法試験になかなか受からず、講義のあとによく質問に来ていた受講生だった。


メッセージには、真新しい法律事務所の写真が添えられている。


『司法試験に合格してから法律事務所で経験を積んで、このたび独立しました』


「へえ。すごいじゃない」


理沙は思わず笑った。


『先生の授業、本当に分かりやすかったです。あのとき諦めなくてよかったです』


続けて、もう一通届く。


『東京に来ることがあったら、ぜひ事務所にも寄ってください』


少し間を置いて、


『先生も東京に戻ることがあったら、一緒に仕事しませんか?』


「私が?」


理沙は笑いながら返信を打った。


『独立おめでとう。よく頑張ったね。今度東京に行ったら寄ります』


送信する。


画面の横には、自分のFacebookページが開いたままになっていた。


――北奥大学法学部 准教授 藤原理沙。


理沙はその文字を眺めた。


「……私、准教授になったのね」


少し考える。


「准教授になりたかったんだっけ?」


答えは出なかった。


それでも、明日の授業で説明したいことはいくらでもあった。


「まあ……嫌じゃないのよね」


理沙は再び、講義資料の続きを作り始めた。


■4


三十四歳、休日。


理沙は一人で、郊外のイオンモールにあるシネコンへ映画を観に来ていた。


上映が終わり、ロビーへ出る。


ちょうど隣のスクリーンから、子ども向け映画を観終えた親子連れがぞろぞろと出てきた。


その中に、見覚えのある顔があった。


「……山口さん?」


相手も理沙に気づく。


「えっ、藤原さん?」


高校時代の同級生だった。


一高では、それほど目立つタイプではなかった。


「久しぶり。今、何してるの?」


「大学で教えてる」


「えー、先生なの?」


「まあね」


「すごいじゃん」


山口の横には、小学生くらいの男の子と、もう少し小さな女の子がいた。


「山口さんは?」


「地銀。ずっと同じとこ」


「ああ、そうなんだ」


「旦那も同じ銀行。支店は違うけどね」


山口は男の子の肩を軽く叩いた。


「こいつがさ、ほんっと勉強できなくて」


「お母さん、それ言わないでよ」


「今度、家庭教師してよ。晩ご飯ごちそうするから」


理沙は笑った。


「大学の准教授を晩ご飯で雇う気?」


「あはは。足りない?」


少し離れたところで、夫らしい男性が手を振っていた。


「じゃ、またね」


「うん。また」


山口は二人の子どもを連れて、その男性のところへ歩いていった。


理沙はその背中を少しだけ見送った。


高校時代の山口は、今でも制服姿で思い出せる。


その山口に、夫がいて。


子どもが二人いて。


「……山口さん、お母さんなんだ」


羨ましいわけではなかった。


寂しいわけでもない。


ただ、自分の知らない十六年が、ちゃんとそこにあった。


■5


三十五歳、夏。


台風が北奥市を直撃した。


翌朝。


北奥大学では、校舎の一部で天井材が剥がれ、窓ガラスも割れていた。


「これ、後期始められるのかな……」


理沙が廊下から被害を眺めていると、作業着姿の男たちが入ってきた。


その先頭にいた男を見て、理沙は目を細めた。


「……田村君?」


男が振り返る。


「ん? 藤原?」


高校時代の同級生だった。


一高では勉強に熱心な方ではなかったが、文化祭になると大道具を作り、脚立に登り、誰より働いていた男子だ。


「田村君、何してるの?」


「何って、修理」


「いや、そうじゃなくて」


田村は胸元の会社名を指した。


「俺んとこの会社」


「会社?」


「最初は一人親方だったんだけどな。今、社員三人」


理沙は少し驚いた。


「社長じゃない」


「まあ、一人は嫁だけど」


「結婚してるの?」


「してるよ。一個下の佐藤。藤原も知ってるだろ」


「ああ。あの子?」


「そうそう」


田村は壊れた天井を見上げた。


「後期、いつから?」


「来月」


「じゃあ、それまでに何とかするよ」


「できる?」


「できなきゃ困るだろ」


そう言って、田村は職人たちのところへ戻っていった。


理沙はその背中を見送った。


高校時代、文化祭の舞台を作っていた田村が。


今は自分の会社で、本物の建物を直している。


「……みんな、ちゃんと自分の人生やってるなあ」


理沙も、別に何もしていないわけではない。


大学で教え、准教授になり、学生にも慕われている。


それでも。


「私の人生って、どこに向かってるんだろ」


答えは、まだなかった。


■7


三十六歳、冬。


葬儀が終わった。


父も母もいなくなった家は、妙に広く感じた。


母の容態が急変したのは、一週間前だった。


もともと心臓に持病があり、通院と服薬は続けていた。


それでも、買い物にも行ったし、料理もしていた。


一人で暮らせないような状態ではなかった。


だから、今回もいつもの入院だと思っていた。


病室で、母は酸素チューブをつけたまま理沙を見た。


「理沙」


「なに?」


「あなたの人生なんだから」


母は少し息を整えた。


「好きなように生きなさい」


「急に何よ」


理沙は笑った。


「好きに生きてるよ」


母も、少しだけ笑った。


それが最後の会話になった。


理沙は一人、実家の居間に座っていた。


大学の仕事は嫌いではない。


学生にも慕われている。


准教授にもなった。


生活に困っているわけでもない。


今の人生を捨てたい理由なんて、特になかった。


「好きなように、か……」


麻衣の言葉を思い出す。


――自分がやりたいこととか、ないの?


「……ないのよね」


三十六歳にもなって、まだ答えがなかった。


しばらく天井を眺める。


「海外とか行けば……見つかるのかな」


我ながら、大学生みたいなことを言っている。


理沙はノートパソコンを開いた。


海外。


大学。


法学部。


教員公募。


いくつか検索しているうちに、一つの募集が目に留まった。


――セレニア王立法科大学。


理沙は、その名前をクリックした。


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