あなたの人生なんだから
■1
北奥大学に着任して、1年が過ぎようとしていた。
一年目の後期。
授業を終え、理沙が教卓の資料をまとめていると、一人の女学生が近づいてきた。
「藤原先生、ちょっといいですか?」
インドネシアからの留学生だった。
手には、ボロボロになった行政書士試験の問題集を抱えている。
「いいよ。どこ?」
「ここです。どうして三番、違いますか?」
理沙は問題集を受け取り、問題文に目を通した。
「ああ。ここは条文だけ読むと三番に見えるんだけど――」
空いている席に座り、余白に簡単な図を書いて説明する。
「つまり、この場合はこっちが先」
「ああ……そういうことですか」
「そう。問題文がちょっと意地悪なのよ」
学生は何度かうなずき、ノートに書き込んだ。
「行政書士、受けるの?」
「はい」
「卒業してから?」
「できれば在学中に取りたいです」
「へえ。頑張るね」
学生は少し照れたように笑った。
「外国人の在留資格の仕事、したいです。私、日本に来たとき、手続き、すごく大変だったから」
「なるほど」
「同じように困ってる人、助けたいです」
理沙は問題集を返した。
「じゃあ、取らないとね」
「はい」
「分からないところあったら、また持ってきて」
「ありがとうございます、先生」
学生が教室を出ていく。
理沙は一人になった教室を見回した。
大学教員になりたかったわけではない。
けれど。
「……喜んでもらえるのって、楽しいな」
そう呟いて、理沙は黒板を消し始めた。
■2
三十二歳、夏。
麻衣が夫と二人の子どもを連れて、北奥市へ帰省していた。
理沙は夕方、佐伯家を訪ねた。
「はい、これ」
麻衣が差し出したのは、一冊の古い文庫本だった。
「わあ、ありがとう。懐かしい」
「ずっと私の家の本棚にあったんだけど、これ理沙のだよね。」
「全然気づかなかった」
「でしょうね」
二人で笑う。
玄関脇には、手持ち花火の入った袋が置かれていた。
「花火?」
「うん。今日やるの。上の子が楽しみにしてて」
その声を聞いたのか、小さな女の子が廊下から顔を出した。
「ママ、このお姉さんだれ?」
「ママの大学のときのお友達。一緒に住んでたのよ」
「へえー」
女の子は理沙をしばらく眺めると、すぐに庭へ走っていった。
理沙は居間で麻衣と向かい合い、麦茶を飲んだ。
隣の部屋からは、下の子の声が聞こえる。
「二人目、いくつだっけ?」
「一歳」
理沙は少し呆れたように麻衣を見る。
「……本当に二人産んだのね」
「産むって言ったでしょ」
麻衣は当たり前のように答えた。
大手企業に入り、結婚して、家を買って、子どもを二人。
大学生のころ、麻衣が話していた通りだった。
「すごいなあ」
「なにが?」
「いや。本当にその通りになったなって」
麻衣は不思議そうな顔をした。
「だって、そうするつもりだったもの」
帰り際。
庭では、麻衣の父母が花火の準備をしていた。
子どもたちが、その周りを楽しそうに走っている。
理沙は少しだけ足を止めた。
「……ほんとに、そうなったんだ」
羨ましい、とは少し違った。
ただ、妙に感心した。
■3
三十三歳、秋。
夜。
理沙は自宅のパソコンで、翌日の講義資料を作っていた。
スライドを一枚追加したところで、画面の隅に通知が出た。
Facebook。
見覚えのある名前だった。
『藤原先生、ご無沙汰しています。高瀬塾で先生の講義を受けていた田中です』
「ああ……」
思い出した。
司法試験になかなか受からず、講義のあとによく質問に来ていた受講生だった。
メッセージには、真新しい法律事務所の写真が添えられている。
『司法試験に合格してから法律事務所で経験を積んで、このたび独立しました』
「へえ。すごいじゃない」
理沙は思わず笑った。
『先生の授業、本当に分かりやすかったです。あのとき諦めなくてよかったです』
続けて、もう一通届く。
『東京に来ることがあったら、ぜひ事務所にも寄ってください』
少し間を置いて、
『先生も東京に戻ることがあったら、一緒に仕事しませんか?』
「私が?」
理沙は笑いながら返信を打った。
『独立おめでとう。よく頑張ったね。今度東京に行ったら寄ります』
送信する。
画面の横には、自分のFacebookページが開いたままになっていた。
――北奥大学法学部 准教授 藤原理沙。
理沙はその文字を眺めた。
「……私、准教授になったのね」
少し考える。
「准教授になりたかったんだっけ?」
答えは出なかった。
それでも、明日の授業で説明したいことはいくらでもあった。
「まあ……嫌じゃないのよね」
理沙は再び、講義資料の続きを作り始めた。
■4
三十四歳、休日。
理沙は一人で、郊外のイオンモールにあるシネコンへ映画を観に来ていた。
上映が終わり、ロビーへ出る。
ちょうど隣のスクリーンから、子ども向け映画を観終えた親子連れがぞろぞろと出てきた。
その中に、見覚えのある顔があった。
「……山口さん?」
相手も理沙に気づく。
「えっ、藤原さん?」
高校時代の同級生だった。
一高では、それほど目立つタイプではなかった。
「久しぶり。今、何してるの?」
「大学で教えてる」
「えー、先生なの?」
「まあね」
「すごいじゃん」
山口の横には、小学生くらいの男の子と、もう少し小さな女の子がいた。
「山口さんは?」
「地銀。ずっと同じとこ」
「ああ、そうなんだ」
「旦那も同じ銀行。支店は違うけどね」
山口は男の子の肩を軽く叩いた。
「こいつがさ、ほんっと勉強できなくて」
「お母さん、それ言わないでよ」
「今度、家庭教師してよ。晩ご飯ごちそうするから」
理沙は笑った。
「大学の准教授を晩ご飯で雇う気?」
「あはは。足りない?」
少し離れたところで、夫らしい男性が手を振っていた。
「じゃ、またね」
「うん。また」
山口は二人の子どもを連れて、その男性のところへ歩いていった。
理沙はその背中を少しだけ見送った。
高校時代の山口は、今でも制服姿で思い出せる。
その山口に、夫がいて。
子どもが二人いて。
「……山口さん、お母さんなんだ」
羨ましいわけではなかった。
寂しいわけでもない。
ただ、自分の知らない十六年が、ちゃんとそこにあった。
■5
三十五歳、夏。
台風が北奥市を直撃した。
翌朝。
北奥大学では、校舎の一部で天井材が剥がれ、窓ガラスも割れていた。
「これ、後期始められるのかな……」
理沙が廊下から被害を眺めていると、作業着姿の男たちが入ってきた。
その先頭にいた男を見て、理沙は目を細めた。
「……田村君?」
男が振り返る。
「ん? 藤原?」
高校時代の同級生だった。
一高では勉強に熱心な方ではなかったが、文化祭になると大道具を作り、脚立に登り、誰より働いていた男子だ。
「田村君、何してるの?」
「何って、修理」
「いや、そうじゃなくて」
田村は胸元の会社名を指した。
「俺んとこの会社」
「会社?」
「最初は一人親方だったんだけどな。今、社員三人」
理沙は少し驚いた。
「社長じゃない」
「まあ、一人は嫁だけど」
「結婚してるの?」
「してるよ。一個下の佐藤。藤原も知ってるだろ」
「ああ。あの子?」
「そうそう」
田村は壊れた天井を見上げた。
「後期、いつから?」
「来月」
「じゃあ、それまでに何とかするよ」
「できる?」
「できなきゃ困るだろ」
そう言って、田村は職人たちのところへ戻っていった。
理沙はその背中を見送った。
高校時代、文化祭の舞台を作っていた田村が。
今は自分の会社で、本物の建物を直している。
「……みんな、ちゃんと自分の人生やってるなあ」
理沙も、別に何もしていないわけではない。
大学で教え、准教授になり、学生にも慕われている。
それでも。
「私の人生って、どこに向かってるんだろ」
答えは、まだなかった。
■7
三十六歳、冬。
葬儀が終わった。
父も母もいなくなった家は、妙に広く感じた。
母の容態が急変したのは、一週間前だった。
もともと心臓に持病があり、通院と服薬は続けていた。
それでも、買い物にも行ったし、料理もしていた。
一人で暮らせないような状態ではなかった。
だから、今回もいつもの入院だと思っていた。
病室で、母は酸素チューブをつけたまま理沙を見た。
「理沙」
「なに?」
「あなたの人生なんだから」
母は少し息を整えた。
「好きなように生きなさい」
「急に何よ」
理沙は笑った。
「好きに生きてるよ」
母も、少しだけ笑った。
それが最後の会話になった。
理沙は一人、実家の居間に座っていた。
大学の仕事は嫌いではない。
学生にも慕われている。
准教授にもなった。
生活に困っているわけでもない。
今の人生を捨てたい理由なんて、特になかった。
「好きなように、か……」
麻衣の言葉を思い出す。
――自分がやりたいこととか、ないの?
「……ないのよね」
三十六歳にもなって、まだ答えがなかった。
しばらく天井を眺める。
「海外とか行けば……見つかるのかな」
我ながら、大学生みたいなことを言っている。
理沙はノートパソコンを開いた。
海外。
大学。
法学部。
教員公募。
いくつか検索しているうちに、一つの募集が目に留まった。
――セレニア王立法科大学。
理沙は、その名前をクリックした。




