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62 あの時は本物だった。かけがえのない時間だったんだ。


 MCA本部の最深部、厳重な管理下に置かれた特別救護室。

 そこは、玲奈のいる賑やかな一般医務室とは対照的に、静寂と冷たい消毒液の匂いだけが支配する場所だった。窓から差し込む夕日は、壁に飾られた無機質な計器を橙色に染めているが、室内の温度はどこか生命の拍動を拒むように低い。


 熾祈は、重い防音扉を静かに押し開けた。

 視線の先、純白のベッドに横たわる細い影――冥のもとへ歩み寄る。彼女を包む空気は、時の止まった深海のように澱んでいた。


「熾祈。来てくれたのね」


 掠れた、震える風のような声。

 かつて彼を拒絶し、その心を永久凍土のように凍りつかせたその響きは、今はただ、消え入りそうなほど力ない。


「ああ。……少し、話をしようと思ってな」


 熾祈は傍らの丸椅子を引き、彼女の隣に腰を下ろした。窓からの斜陽が二人の間に長く、鋭い境界線のような影を落とし、かつて分かち合った時間の断絶を物語っていた。


「ごめんなさい、熾祈。あの時……あなたと付き合わなければよかったなんて、あんな酷い言葉……本当に、本当にごめんなさい」


 冥は視線を落とし、点滴の管が繋がれた手でシーツを弱々しく握りしめた。その白い指先は、今にも壊れてしまいそうなほど震えている。


「マルチバースの広すぎる観測に、心が当てられてしまったの。別の世界線で、別の誰かと、別の幸せを掴んでいる自分を……一瞬でも『そっちの方が幸せだったかもしれない』と考えてしまった。その心の隙間に、ヴァニシングオーダーの魔具が入り込んだのよ。私の口を借りて、貴方の心を殺すための毒を吐かせるために」


 彼女が告白したのは、あまりにも残酷な真実だった。

 広大すぎる可能性の世界に触れ、今の幸福を見失ってしまった一瞬の迷い。誰もが抱くような小さな“もしも”という可能性。それを敵の策謀が増幅させ、最悪の凶器に変えたのだ。


「俺を、本当に嫌いになったわけじゃなかったんだな」


 熾祈の胸を占めたのは、怒りではなく、深い、深い安堵だった。

 あの幸福だった日々は、共に歩んだあの時間は、決して偽りではなかった。その事実が判明しただけで、彼の止まっていた数年間の孤独な時間は、ようやく報われた気がした。


「謝るな、冥。それはお前が悪いんじゃない。そうやって揺れるお前を、繋ぎ止めてやれなかった俺の力不足だ。俺の方こそ、すまなかった」


 熾祈は、震える冥の手を、自分の両手でそっと包み込んだ。

 かつて死ぬほど求めた、唯一無二の温もり。今この瞬間、彼女を抱き寄せて「もう一度やり直そう」と言えば、壊れた時計の針は再び動き出すかもしれない。


 けれど、熾祈の脳裏に浮かんだのは、サイドテイルの琥珀色の光の中で、「貴方の絶望ごと愛したい」と泣いた、あの極彩色の少女の姿だった。


 冥を愛していた自分も、冥に愛されていた自分も、確かに本物だった。けれど、その幸福な時間は、魔具によって断ち切られ、絶望に沈んだ瞬間に、一つの完成された思い出という標本になってしまったのだ。今の自分を生かしているのは、過去の残影ではなく、隣で泣いてくれた玲奈の熱量なのだと、彼は理解していた。


「冥。お前はもう、お前自身が信じた道を進んでいい。俺のために、その足を止める必要はないんだ」


 冥は目に涙を溜め、縋るような、あるいは予感していた結末を静かに受け入れるような声で尋ねた。


「熾祈。私のこと、もう、嫌いになった?」


 熾祈は少しだけ沈黙した後、彼女の手を包んでいた力を、ゆっくりと、名残惜しそうに解いていった。


「嫌いになれるはずがない。お前は俺にとって、誰よりも大切な人だ。これからも、ずっと」


 冥は、自分の手の甲に残る熾祈の温もりの残滓を見つめ、静かに、けれど清々しく微笑んだ。その表情には、毒に侵されていた暗い影はもうなかった。

 熾祈の手から伝わってくるのは確かに優しさだが、彼の目に映っているのは別の人物のように思えた。


 熾祈はそれ以上言葉を重ねず、背を向けて歩き出した。

 扉を閉め、無機質な廊下に出た瞬間、背負っていた重い鉄の鎖が、音を立てて砂となり、足元から消えていくような感覚を覚えた。


 廊下の先、明るい陽光が差し込む一般医務室の方角からは、騒がしい蓮の声と、それを嗜める鏡香の声、そして――玲奈の甘く熾祈を呼ぶ声が聞こえてくる。


 熾祈は一度だけ冥の部屋を振り返り、声に出さず「ありがとう」と呟いた。

 そして一度も足を止めることなく、自分を待つ、新しい色が満ちる場所へと、力強い足取りで歩み出した。



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