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63 金曜日の夜はバーに居ます


 金曜日の夜。ノーウェアの片隅、喧騒から逃れるように佇むバー『サイドテイル』の扉を開けると、そこには変わらない琥珀色の静寂が満ちていた。

 今まで数え切れないほどの次元を渡り、神にも等しい存在と殺し合い、幾度も死線を越えてきた。だが、熾祈にとって、このカウンターの止まり木に腰掛け、一人ボウモアを嗜む時間は、何物にも代えがたい自分自身を取り戻すための儀式だった。


 ピートの力強い香りが鼻腔を抜け、重厚な液体が喉を灼く。

 カラン、と氷が溶けてグラスに当たる音が、静かな店内に心地よく響いたその時。店のドアベルが、歌うような軽やかな音を立てた。


 聞き覚えのある足音が、迷いのないリズムで近づき、彼の隣の席で止まる。

 ふわりと鼻腔をくすぐったのは、硝煙と鉄の冷たい匂いではなく、春の風に乗って届くような、どこか懐かしい花の香りだった。


「酷い匂い。……でも、この街で一番『純粋』な匂いですわね」


 熾祈のグラスを持つ手が止まる。いつか、この場所で初めて彼女と出会った時に聞いた、それと全く同じ言葉。

 熾祈が顔を向ける前に、その声は悪戯っぽく、けれど隠しきれない熱を帯びて続いた。


「でも。今のわたくしには、この匂いが愛おしくてたまりませんの」


 そこには、かつての籠の鳥のような重苦しいドレスではなく、この街の色彩に馴染む軽やかな私服を纏った玲奈が、満面の笑みで立っていた。その瞳に宿る光は、どの次元の特異点よりも鮮やかに、熾祈の心を照らし出す。


「玲奈。お前はもう自由だ。どこへでも好きな場所へ行けるはずだろう。わざわざ、ヤバい奴らが集まるバーに来る必要はない」


 熾祈はボウモアのグラスを見つめたまま、ぶっきらぼうに呟く。だが、玲奈は当然の権利を行使するように、軽やかに彼の隣に腰を下ろした。


「ええ、ですから“好きに”していますわ。わたくしが今、この広い世界で一番居たい場所は、ここなんですもの」


 彼女にはもう、世界を書き換える力はない。けれど、その瞳の輝きは、失われた力など問題にしないほど澄み切っていた。これから先の人生に、具体的な地図があるわけではない。けれど、彼女の言葉には、不確かな明日を歓迎する希望が溢れていた。


「わたくし、今まで観られなかった世界の景色を、たくさん知りたいんです。この世界には、わたくしの知らない楽しみが、宝石のように詰まっているはずだから。熾祈さんに見せてもらったあの朝焼けのように、たくさんの色を見つけていきたいんですの」


「そうか。お前なら、それくらいすぐにやり遂げるだろうな」


 熾祈は、自分はこれからもMCAのエージェントとして、マルチバースの澱みを掃除し続けるだろうと告げた。影の中で生きる自分と、光の中へ歩み出す彼女。その対照的な立ち位置を再確認するように。


 しばしの沈黙。ジャズの旋律が二人の間を穏やかに流れる。玲奈はグラスを見つめる熾祈の横顔をじっと見つめ、居住まいを正して言った。


「熾祈さん。あらためてお伝えしますわ。わたくし、貴方のことが大好きです。わたくしの隣を、歩いてくださいませんこと?」


 真っ直ぐすぎる、何度目かの告白。

 だが、熾祈はふいっと視線を逸らし、残ったボウモアを一気に飲み干した。


「断る。俺は死神だ。お前のような明るい場所にいる奴が隣にいると、どうにも仕事の調子が狂う」


「なっ……! 相変わらず頑固なんですのね! それに、まだ前の女性ひとのことを引きずっているんでしょう? この、意気地なしの分からず屋!」


 玲奈が頬を膨らませて詰め寄る。その賑やかさが、かつての彼なら鬱陶しかったはずのその声が、今は驚くほど心地よく、胸の奥を温める。


「だが」


 熾祈がポツリと、消え入りそうな言葉を継ぎ足した。


「明日の非番。デートくらいなら、付き合ってやらんこともない」


 玲奈の動きが、ぴたりと止まった。

 一秒、二秒。静止した時間の後、彼女の顔が、パッと花が開いたように輝き出す。


「……本当ですの!? 嘘をおっしゃったら、今度はわたくしが貴方のことを消去してしまいますわよ!」

「ああ。嘘はつかない。場所はお前に任せる」


「嬉しい……! ああ、どうしましょう。何を着ていこうかしら。髪型は? 香水は……! マスター、わたくしに世界で一番甘いジュースをくださいな!」


 カウンターで跳ねるように喜ぶ少女と、それを見て困ったように、けれど隠しきれない優しさを瞳に宿して微かに口角を上げる男。


 マスターが静かに差し出した新しいグラスには、琥珀色の光が満ちていた。

 店の外には、かつての彼がいた灰色ではない、無限の可能性を秘めた極彩色の夜が広がっている。


 二人の物語は、ここから本当の意味で色づき始めるのだ。



この作品を執筆する際、「一人だけでも楽しんでもらえたら最高だな」と思っていました。

閲覧数、ブックマーク等も含め様々な方に閲覧いただき大変嬉しく思います。


これからも、誰か一人にでも刺さるような作品作りを楽しんでいきたいと思いますので応援の程何卒よろしくお願いします。

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