58 多次元の演算
それは、生命が到達してはならない領域への侵犯だった。
ノワールが玲奈を繋ぐ白黒光の鎖からその力を強制的に吸い上げると、彼の輪郭がまるで古い映像のノイズのように不気味に揺らぎ始める。もはや、玉座に立つそれは血の通った人間ではない。この次元におけるあらゆる事象を定義し、確定させる『観測者兼、確定者』へと変貌を遂げたのだ。
「熾祈、君に最後の授業をしよう。この世界は、僕が『そうである』と定義した通りに収束する。君の努力も、流した血も、その一撃に込めた想いさえも、僕が認めない限りは、この宇宙に存在することすら許されない」
ノワールの言葉は、もはや空気の振動ではなく、脳内に直接書き込まれる神託のごとき響きを持っていた。
熾祈は一切の怯みを見せず、最短距離で銀色の銃の引き金を引く。完璧なタイミング。放たれた魔弾は、ノワールの眉間を射抜くはずだった。
だが、弾丸がノワールに触れる寸前、世界が「一瞬だけ巻き戻った」かのような、吐き気を催すほどの違和感が走る。銃弾は弾けることさえ、着弾することさえ許されず、熾祈の銃口の中に撃たれる前の状態で戻り、そこに込められていた熱量だけが虚空へと消滅した。
『事象の零化』
攻撃を防ぐのではない。熾祈が攻撃したという因果そのものを、過去から消去したのだ。
熾祈がどれほど凄絶な剣を振るっても、振り終わった瞬間にまだ振っていない地点に時間が巻き戻される。決定的な一撃を放つたび、熾祈は何もしなかった自分へと突き戻される。
戦っているはずなのに、時間は一歩も進まない。その精神的な摩耗は、肉体的なダメージよりも深く熾祈を蝕んでいった。
だが、ノワールがもたらす絶望は、その消極的な無力化に留まらなかった。彼の反撃は、熾祈の死を累乗によって加速させる、冒涜的なまでの暴力へと昇華される。
ノワールが漆黒の細剣を、まるで指揮者がタクトを振るうような軽やかな所作で一閃させた。
熾祈は辛うじて反応し、最小限の動きでそれを回避する。刃は脇腹をわずかに掠め、黒い外套を薄く裂いただけに留まった。
本来ならば、一考の価値もない擦り傷。しかし、その傷口がドクン、ドクンと脈打つような鼓動を始めた瞬間、この世の地獄が口を開けた。
「一度の接触。それだけで十分だ。僕はこの接触を――一万回繰り返された『不変の事実』へと書き換える」
『因果の重畳』
たった一回の被弾という現象を、その瞬間に万回へと増幅、蓄積させる。
その演算は、以下の数式のように無慈悲な結果を弾き出した。
熾祈の視界が、瞬時に鮮血の赤一色に染まった。脇腹の小さな傷が、一万回執拗に抉り直されたかのように爆ぜ、筋肉を、内臓を、そして魂の輪郭までもバラバラに砕き散らす。一度かすめただけで、腕が、足が、骨が、数千年の拷問を受けたかのように崩壊する幻痛と実害が、熾祈の肉体を蹂躙した。
「が、あ、あああああああッ!!」
絶叫さえも、重畳された苦痛の波に飲み込まれていく。一瞬のうちに数千回の死を体験させられる等比級数的な苦悶。それは生物に許容された痛みの閾値を、遥か彼方まで突き抜けていた。
熾祈は膝をつくことさえ許されない。重畳する衝撃波の余波に弾き飛ばされ、彼は弾丸のような速度で背後の壁を砕き、モノクロームの床を鮮血で汚していく。
だが、その血さえも、ノワールが虚空で指を鳴らすだけで初めから流れていなかったことにされた。
傷だけがそこに残り、失われたはずの血液が体内に戻る。しかし、細胞が破壊された事実だけは定着しており、熾祈は“傷があるのに出血せず、激痛だけが無限にループする”という、生物学的にもあり得ない異様な状態に閉じられた。
「君の存在そのものを消せればなんていうこともないんだが、それには多くの力を使いすぎるようだ。この力はもっと偉大な事のために取っておかないとね」
玲奈が、悲痛な表情で叫ぶ。
「熾祈……さん……ッ! もういい、もうやめて……! わたくしなんて、わたくしの存在なんていいから……! 逃げて、お願い!!」
次元の鎖に繋がれた玲奈の、魂を削るような絶叫が玉座の間に響き渡る。
玲奈の涙が、モノクロームの床に真珠のように零れ落ちる。
熾祈の意識は、既に混濁の極みにあった。視界は真っ白に飛び、ノワールの姿を捉えることすら難しい。
五感は死に絶え、神経は焼き切れている。だが、血の海の只中で、彼が右手に握る『紅蓮の剣』だけが、持ち主の死を激しく拒絶するように、不気味なほどに鮮烈な熱を放ち続けていた。
「……黙って、見てろ、玲奈。俺は……まだ、一歩も、退いちゃいない……」
震える指先。砕かれた膝。それでも、死神は玲奈のいる方角を、決して見失ってはいなかった。
ノワールの作り出した偽りの無の中で、熾祈の持つ剥き出しの赤だけが、冷え切った計算機の世界を焼き尽くさんと、その火力を増していく。




